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ひかりごけ

ひかりごけ (新潮文庫)ひかりごけ (新潮文庫)
(1992/04)
武田 泰淳

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カニバリズムの純文学、といえば「ひかりごけ」だろう。非常に短い戯曲なので、簡単に内容を紹介すれば、



太平洋戦争後期、北海道の海を航海していた船が難破。幸い洞窟に難を逃れた一行だったが、自分たちが決して救われた訳ではないことを知って愕然とする。

洞窟には食糧がなかったのである。

外は酷寒の吹雪で、食物を得ることができない。吹雪をついて人里に出ようにも、食糧も装備もない。一同はその洞窟で一冬過ごすことを余儀なくされた。

次々に死んでいく仲間たち。残された乗組員らは死か、人肉食かという究極の選択を迫られることになる。

結局、船長以外は死に絶え、翌春、救助された船長は死体損壊の罪で訴えられるが、彼は「今まで人肉を食わなかったものだけが、自分を裁く権利がある」と主張。しかし裁判所にいた人々は、みな罪人ばかりであった。。。


元となったエピソードは実話である。乗組員は軍属で、船の修理のために小樽へ向かう途中であった。船は知床岬で難破。そこの漁師小屋で越冬した一行は、船長を残して死亡し、翌春船長だけが自力で知床半島を南下。羅臼町で救われ、奇跡の生還を果たした「神兵」として絶賛された。

しかしその後人肉食を行ったことが明るみに出、裁判の結果、死体損壊罪で懲役一年の刑を受けた。

武田泰淳はこの事件から「ひかりごけ」を著したわけだが、タイトルのヒカリゴケは北海道の苔類で、洞窟によく自生している。発光するわけでなく、光を反射するだけなのだが、武田はこれを夜光茸のようにとらえ、人肉食という罪を犯した人の首の後ろに光を浮かび上がらせる、とした。

さらに武田は船長が乗組員を殺害したかのような描写をしているが、実際の裁判では殺人罪については無罪となっているなど、色々と脚色がみられる。

最大の違いは、裁判の経過である。事実では船長は従容として罪を告白し、罪に服したが、小説ではふてぶてしいほどに達観し、裁判長から検察までを見下ろすキリストのような存在として描かれている。

船長のロジックは以下の通りである。「なるほど、自分は人肉食を行ったが、それはやむにやまれぬ理由からであった。翻って貴方がたはそのような理由もないにも関わらず、平然として人肉食に値するような犯罪を犯し、しかもその罪に全く気づかないで聖人君子面をしている」


作者は「人肉食に値する犯罪」とは何か、明らかにしてないが、作品が描かれた1954年という年代を考えると、それは戦争での殺人や虐殺であったり、戦後の混乱期における様々な凶悪犯罪だったりと思われるが、「ひかりごけ」が名作とされる所以は、明確に犯罪を定義しないことで、却って犯罪の倫理的意味を読者一人ひとりに考えさせることにあったのだろう。

ただ完全な名作とするには、今ひとつ「罪」への踏み込みが浅い。ドフトエフスキーほど深く罪に切り込め、とは言わないが、「ひかりごけ」は「準名作」といった位置づけが妥当なところだろう。

さて、当時の刑法には人肉食という罪が設定されていない。そのような状況を全く想定していなかったというより、明治政府が手本にしたプロイセン法体系のなかに、人肉食が記載されていなかったというのが事情だろう。

むろんその当たりの事情は現行刑法でも同じで、人肉食が重度のタブーなことには変わりがない。

作中では人肉食は殺人よりも重い罪とされているが、現在では逆のような気がする。殺人はダメでも、(極限状態における)人肉食は許容するという人が、今では多いのではないか。この辺りの感覚の違いは、当時の人々が戦争で殺戮に慣れてしまっていたことに原因があるのかもしれない。

もっとも作者はカニバリズムをそのものを禁忌とするより、「仲間の肉を食う」ことに倫理的嫌悪感を設定した、と考えたほうが近いだろう。最期まで若者が拘ったのは、仲間の肉を食い、食らわれる点であり、もし仲間でない死体が転がっていれば、その肉を食するのにさほど抵抗はなかっと思われる。

仲間の肉を食う、という比喩でもって、作者が糾弾したかったことは何か。それはこの世の根源悪である。およそ他の言葉では表現し切れない、人が人である限り持っているような原罪。世界にその身を割り込ませるだけで、社会に害悪を垂れ流すような歪んだ存在。

それを我々は等しく持っており、人を裁くのなら、まず己を裁かなくてはいけない。

このくだりは聖書の有名なシーンを思い出させる。罪人が縛られて石詰めの刑に処されている。そこに基督が通りかかり、「罪なきもののみ、この罪びとをうて」と言ったところ、誰もその罪人に石を投げることができなかった、というシーンである。裁く側が裁かれる側に変質するというドラマチックな舞台装置を、作者は拝借したわけである。


が、ここではむしろ、氏の「我慢」という思想に着目したい。

作者は何度も何度も、作中の船長に「我慢」をうながす。船長は飢餓に我慢し、仲間の肉を食らうという地獄絵図に我慢し、そして食わねば死に、食えば裁判にかけられるという不条理に我慢している。

船長はそれをさして「我慢というものはいつまですればいいという決まりはない」と言う。言いえて妙である。そう、我慢というものは制限はない。その人が終わりと思えば終わりであり、拡張していえば、人生そのものが我慢の連続である。そして我慢を切り上げた瞬間、その人は人生から退場しなければならない。

観客や読者はこの寸劇を鑑賞しているはずなのだが、このせりふによって、実はこの寸劇は人生の縮図であり、寸劇から人生を照射しているという構成をとっていることが分かる。

さらに船長は「他人の我慢は自分の我慢にならない。自分の我慢は自分でしなければならぬ」と断言するが、これも人生における真理だろう。この世において、我慢しているつもりでいて、その実家族や、職場や、そのほかの人のために我慢していることの、なんと多いことだろうか。

しかしそのような我慢は、本質的にはその人の蓄積にならず、いざというときには無に帰する我慢である。人生において我慢とはその人の生涯の根源的部分であり、それを人にゆだねるものは、結局人生を真に生きてはいないのである。

こうして見ると、究極の我慢である遭難や人肉食というものは、(メタファ的に)実際には人生において必須なものとの解釈も成り立つ。我々はおぞましい体験を経ることで、本当に人間を生きることになるのであり、そのような理想を求めることは、とりもなおさず他人を損壊することである。それを知らずになおも人間らしく生きようとすることが、ひとの原罪なのだ。

次はこちら


百舌谷さん、逆上しちゃう

百舌谷さん逆上する 3 (アフタヌーンKC)百舌谷さん逆上する 3 (アフタヌーンKC)
(2009/07/23)
篠房 六郎

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当初はツンデレブームに便乗しただけの美少女コミックかと思いきや、二巻で方向が変態に傾き始め、三巻にして変態を突き抜けて愛に至った。

いやぁ篠房、ただもんじゃないなw。

代表作とされる「空談師」や「ナツノクモ」は正直、凡庸な印象しか受けなかった。氏の持ち味というのはむしろ「家政婦が黙殺」で発揮されたような、変態ギャグにある。幸いなことに、「百舌谷」は「黙殺」の延長上にある作品だ。

好意をもった相手には暴力を振舞うという「ツンデレ病」の患者・百舌谷さんは、その病気のせいで肉親からも見捨てられ、養父母の下で暮らしていたが、何しろ親子の愛情も暴力の対象となるため、正常な家族関係を築けずにいた。

学校でも暴力事件を繰り返し、転校につぐ転校の生活を送っていた彼女の前に現れたのが「ドM男」樺島であった。

そのような彼を、当初は単なるSのはけ口として、イジメにイジメぬいていた百舌谷さんだったが、次第に樺島の包容力に惹かれ、終には鯉に落ちるのだが、ツンデレな以上、まともな恋愛にあるはずもなく・・・


読了感としてはツンデレというか、ヤンデレに近い印象を受けた。孤立無援で自ら愛されることを拒否している少女が、愛を取り戻すという、なんてか、むしろ王道ストーリー。

ただちょっとデレるのが早すぎるかな。ツンデレを病気にするのなら、もうちっとやそっとではデレないような。それこそ「ドロヘドロ」のように連載10年にして始めて愛を語るぐらいが、ちょうどいいw。

百舌谷さんが幼女になる経緯というのも、設定を細かくしすぎて面白みを損ねている。それとも闇のフィクサーとか大財閥とかいう大風呂敷には何か複線があるのかな。

上達したとは思うが、まだまだタッチが荒いのもマイナスだ。時々樺島の顔がポリゴン化してしまうのは興ざめ。


もっとも全体としてはよく仕上がっている良作だ。(傑作とまでは言わないが)

百舌谷さんの心理描写も丹念にされており、「気を抜いたら(クラスメートに)とり殺されてしまう」なんて台詞には妙にリアリティがあるw。自分もイジメられた経験があるが、クラスが集団でイジメにかかってきたときには、気を引き締めて心につっかい棒をしないと、折れてしまう。そんな心情をうまく表現している。

愛されたいのに暴力でしか愛情を表現できない、という厄介な性癖は成人男性なら暴行魔としか認識されないが、美少女だと甘美なプレイとみなされるのは面白いところ。まあ結局この作品のキモは、なんといっても樺島君を殴ったあとの、彼女のすばらしい「笑顔」に尽きるわけだ。

勝間本の氾濫

勝間和代。毀誉褒貶の激しいタレント知識人である

一般人からは「分かりやすい」「競争時代にふさわしい指針を与えてくれる」などと好意的な声が多い反面、識者からは、「アメリカ型資本主義の受け売り」「日本の風土を考慮していない」「強引で視野が狭い」などと批判されがちだ。

つい先日も、知り合いの会計士が「彼女の本は読む気もしない」と吐き棄てるように酷評していたが、むしろ批判すべき点は、マスコミが勝間一色になり、全ては彼女が正しい、という一億総盲信のほうにあるようにおもう。

一体に日本の言論は付和雷同、一極集中的なところがあり、多様性に乏しい。少し前までは森永卓郎一色、その前は竹中大臣一色の時代が続き、知のカリスマ化、流行化が甚だしい。


もちろん知の大衆流通が悪いわけではない。象牙の塔に閉じこもって自慰的な研究をしている知のあり方が批判されて久しい。ただ今でも研究資源の東大一極集中に現れているように、知が広く民間に蓄積されているわけではない。

アメリカではジャーナリストなどの在野知識人の層が厚く、経済評論一つとっても、実に多様で奥の深い評論がなされている。ところが日本では層が薄く、勢い知の世界から「天下った」知識人の声が「天の声」のように扱われてしまう。

ところが天の声は野にあっては孤立しているため、切磋琢磨されずに次第におかしな方向へ行ってしまうことがある。特に分野外の知を担当する場合に、その逸脱は著しい。

例えば昨今では脳科学が流行り、それが全てを解決してくれるという妄信が広がっているが、それに便乗するかたちで脳科学者らが社会科学から人文学までをカバーする風潮がある。


しかし元来彼らは自然科学者であり、人文学の素養に乏しい。それを押して批判するものだから、勢いAHA!体験のようなキワモノが横行してしまう。

結果、やはりまともな知の議論は象牙の塔内でやるしかない、という認識が強化され、塔の壁は厚く高くなってしまった。知の流通・解放が、却って知の自閉を招くというジレンマが、そこにはある。

90年代には、インターネットの普及が壁を打破すると期待されていたが、余りに自由な意見のやりとりは、識者同士のコミュニケーションと、一般人同士のそれとを分ける結果に終わってしまった。

もっとも、それで民間の知が消え去ったわけではない。たとえばネットには優れたものは少なくとも、日々知が重ねられていく。それらを紡ぎあげていく可能性がなくなったわけではない。

ただそのような知は、「知」を解体していくものになるだろう。生活と学問の狭間、一般人と民間人の境界というより、両者が融合し、新しい智慧として結晶していく。そのような錬金術が、模索されつつある。

マンガ雑誌をよむ

少年チャンピオン~少年誌の中ではイカ娘、三つ巴、バキと一番読んでる雑誌。バキはもう大分前からつまらなくなっているけど、惰性で読んでしまう。父上も丸くなってきたことだし、最後には大円団の可能性も。三つ巴もアニメ化されたけれども、最近パワーがなくなってきた。無敵看板娘の作者は、方向性を探して苦しんでる感じですね。

少年マガジン~ねぎまは、時々チェックしてストーリーを追ってます。ヒマなときは絶望先生も。

ヤンマガ~みなみけ、カイジ。カイジは展開がもたついているというか、変則麻雀編以降、小手先の策に溺れているかんじ。彼岸島は打ち切り的に終わりましたね。以前はユキポンも読んで焚けども、マンネリズム。

ヤンジャン~やはし「ガンツ」でしょう。最終章?突入な割には、展開がスローでやきもきさせられる。タフも長年連載している格闘ものだけど、バキほど傲慢さがないところがいい。あとは美少女いんぱらも目が話せない。

ヤングガンガン~Working!は毎回見てもおもしろいが、とうとうアニメ化。漫画家とアシもポイント高いので、アニメ化の流れか。

モーニング~へうげものはついつい見てしまう。あと時々、西遊記が載っているのでやはり毎号チェック。

スピリッツ~余りめぼしい連載はないが、バーディだけはストーリーチェック。

電撃大王~超電磁砲。苺ましまろは復活するんだろうか・・・

アワーズ~ヘルシング亡きあとは、ブロッケンブラッド、それ町。

近代麻雀~やはりワシズ様の最期はチェックしないとw。

マンサン~静ドン。

逗子に死す

しかし鎌倉、というのは古ぼけたイメージが強かったが、近年は小洒落た町並みに変貌しつつある。

八幡宮参道など、かつては田舎の商店街のような良く言えば懐かしい、悪く言えば垢抜けないものだった記憶がある。妙に時代遅れの商品が並んでいたり、パッケージが日焼けしていたり、店の奥がそのまま民家に繋がっていたり。

だが今はそういう店はわずかで、主力はヨーロッパ風にデザインされた店舗が多い。といっても表参道のような派手さや、裏原宿のような先鋭さはなく、落ち着いたオトナの雰囲気がある。これが「文京都市」鎌倉の魅力なのだろう。

(一方で江の島は昔ながらの商店街が広がる。わずか数十キロを隔てただけなのに、こんなに違うというのは何か理由がありそうだ)

さて正月7日というのに、八幡宮は大変な賑わい。横須賀から来たのか、海軍軍人の一団まで詣でている。八幡宮は源氏の氏神なことから、武士、ひいては軍人の守り神となったという経緯があり、境内には明治帝の軍勲碑も建てられている。

景気が悪いというのに(悪いからこそ?)、ひっきりなしに宗教グッズが売れているが、それに飽き足らず「御印」まで売られている。これは額にハンコを押してくれるというサービスで、もろもろのご利益があるそうだが、一回千円。それでも行列ができているというから驚き。


荒稼ぎする八幡宮を後にして、西方、化粧坂方面へ。

鎌倉時代、八幡宮には役所が置かれ、近くの化粧坂には有力御家人の屋敷があった。鎌倉というのは極端に平地が少なく、谷間谷間にも家々が並べられていたが、その谷間はすぐに山に入っていく。逆にいえば谷筋さえ抑えれば、鎌倉に侵入することはできない。

そして侵略側は谷筋をどうにか突破しようと、この化粧坂に軍勢を差し向けた。時は1333年(覚えやすい)、将は新田義貞である。

新田氏は源義家を祖とする性和源氏でありながら鎌倉幕府での地位は低く、代々幕府に不満を抱いていたという。義貞は本拠地の群馬から南下。各地で北条軍を撃破し、瞬く間に鎌倉に攻め入った。

進軍がスムーズにいったのは北条体制の衰退もさることながら、鎌倉街道の存在も大きい。各地から鎌倉に馳せ参じるために設けられたこの軍事街道は、逆に反乱軍の速達を許してしまったのである。

しかし化粧坂で進軍はストップ。新田軍はこの隘路をどうしても抜くことができなかった。それは現地に行けば分かるが、兎に角無茶に急な坂で、腹這いになって進むほかないような斜面。刀を抜いたところで、切り上げることも難しい。しかも狭く、ここに障害物でも置かれ、弓矢で射られた日には、どうこうすることもできない。

結局新田はここからの突入をあきらめ、海側から鎌倉を攻略することになるのだが、ここでは坂を上りきってみる。坂下は寺や墓場になっているが、平地の乏しかった鎌倉では傾斜地は墓になっていることが多く、陰気なことこの上ない。

上りきると源氏山頂上となっており、でっかい頼朝像が鎮座している。遠くにはかすかに相模灘も見える。そこから裏を回って手掘り隧道を抜けると、銭洗弁財天。


銭洗弁財天は白ヘビを祀る、水神・龍神系の神社である。境内には洞窟と水源があり、古代人らはその荘厳さに打たれたのだろう。那智の滝など、日本には水を祀る神社は多い。

その後、弁財天がインドから請来されると、この河神は水神と混同され、水神系の神社の中には、弁財天を祭るものが出てくる。さらに時代が下ると弁才天は弁「財」天、つまり富を司るとされ、白ヘビ=水神=弁財天=富神、という複雑な関係が出来上がってしまった。

ただ水にはもともと豊作や水運のイメージがあるため、水神の富神化は自然なものだったようだ。さらに弁才天は女性で芸能神でもあったため、江の島弁才天では遊楽のシンボルとして祭り挙げられたが、これは江の島が行楽地に当たっていたからだろう。

ここ銭洗弁財天では、金銭を洗うと倍になって返って来るという信仰が生まれ、特に毎月巳の日には参拝客で賑わう・・・のだが、今日は2010年初の巳の日に当たっているので、大変な混雑だ。

噴水にコインを投げ入れるなど、水と金銭との繋がりはどうやら洋の東西を問わず普遍的なもののようだが、ここではザルにお札を入れ、上から柄杓で水をかけるというシステムを取っている。こうすれば参拝客は札を流さないし、神社はザル貸し賃で儲けられるという、賢しい知恵である。

以前はビニール袋に入れて洗っていた気がするのだが、今は直に洗う。当然お札は濡れ濡れになるので、後はお灯明などで乾かす。グループで参拝したので、同行者が札を流したり、焦がしたりと大騒ぎ。


参拝後は逗子へ。逗子は鎌倉の隣町で、駅前からバスに乗ると、山一つ越えた南側にある。鎌倉に比べると閑静さが売り物で、別荘やリゾートマンションが多い。

その一つ、逗子マリーナはリゾートマンションのはしりであり、大企業の別荘のほか、川端康成の仕事場があったことでも有名である。

川端は関西の出身だが、東京に出てからは鎌倉に居を構えていた。鎌倉は元々寺社が多く、アカデミックな雰囲気がある上、気候も温暖。横須賀線が通って交通の便も良いことから、文人・文化人が多く住んでいた。

小林秀雄、芥川龍之介、有島武郎、武者小路実篤、志賀直哉のほか、中原中也も鎌倉に住んだ経験がある。胸を病んだ中原中也は扇ヶ谷に療養し、そこで息を引き取った。また小林秀雄は鎌倉で批評活動を続け、鎌倉文人界の中心人物の一人として名を馳せた。

川端もまた鎌倉文人界の重鎮であり、戦前から鎌倉に住んでいたのだが、自宅とは別に仕事場として逗子マリーナに一室を持っていたのである。

そしてそこで昭和47年、ガス中毒死することになる。一般の見解としては自殺となっているが、川端には薬物依存があり、創作上のイマジネーションを膨らませるためにガスを利用して事故死、という見方もある。(当時のガスには幻覚を見せる効果があった)

いずれにせよ、現地の逗子マリーナは海に面した、陽だまりの中に今もある。


逗子マリーナでは、他に殺人事件も発生している。2000年、英国人女性がこの一室で殺害された。遺体はバラバラにされて近くの洞窟に隠されたという「ルーシー・ブラックマン事件」である。

犯人は資産家で、気に入った女性をマンションに連れ込み、薬物を嗅がせた上で、性行為に及ぶのを常にしていたというが、彼がその犯行場所に逗子マリーナを選んだのは、どこか川端に通じるものを感じる。川端もまた、性的に倒錯していたひとでもあったからだ。

マリーナの近くには、幽霊が出るというトンネルがある。子供のころ、何度かこのトンネルを通ったのだが、通るたびに真夏でも背筋が冷えたことを覚えている。おそらく海岸近くにあるので海水が冷媒となっているのだろうが、夜に通りぬけるには確かに肝がいった。

この付近は小坪といい、鎌倉と逗子の境地である。中世においてはそのような土地は葬送の場とされており、今も掘り起こすと人骨などが出てくる。

一体に鎌倉やその周辺は狭い割には墓が多く、合戦も度々あったので、人骨があちこちに埋もれている。逗子マリーナの北側には材木座という砂浜が広がり、夏には海水浴客でごった返すが、そこで昭和10年、多数の人骨が掘り起こされて騒動となった。

人骨の7割近くに傷跡が見られたことから、先の新田合戦の際の戦死者と推定されたが、研究が進むにつれ、その傷が意外に浅く、致命傷にはならなかったことが判明。むしろ傷は遺体を運ぶ際に付いた擦過傷ではないか、という説が浮上。どうやら材木座海岸もまた、境地として葬送が行われていたというのが今日の見解になっている。

しかし昭和10年ということは、川端などの文士らもこのことを知って鎌倉に住んでいたわけである。明るい湘南の陽光と、地下の暗い人骨の織り成す妖しい影芝居に、彼らは魅せられたのかもしれない。
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