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1960年代、東京の過密に悩んでいた日本政府は、研究学園都市計画を発表する。これは東京に集積した研究施設を地方に分散することで、過密を解消しようというものだ。

富士山麓や赤城山麓が候補地に選ばれ、最終的に筑波山麓に決定したのだが、よく考えてみると、おかしな点がある。というのは研究を主体とする街づくりは雇用が確保しづらく、せいぜいが2,30万人の人口移転しか、期待できないからである。

現在、研究学園都市に住む研究者は1万人強で、家族や支援人員を含めても、数万~十数万人程度の人口しか、移転していない。東京からの人口移転という面から言えば、筑波研究学園都市計画は、完全な失敗だったのである。

その点を捉えてこの計画を批判する声もある。だが、実は研究学園都市の目的は人口移転ではなく、「跡地利用」にあった。

筑波に移転した東京教育大学(現・筑波大学)、土木研究所、農業試験所など、全部・一部移転した研究所は多く、その跡地は都市開発に利用されたのである。また理化学研究所、高エネルギー研究所など、都内では拡張が難しい研究所の幼稚確保も、筑波の大きな目的であった。


しかし計画は、地元住民の強い反対に出会うことになる。

同時期の国家プロジェクトには「成田新東京国際空港」があるが、成田・筑波の両者に共通した問題は、「地元民の軽視」にあった。計画はほとんど国と地方トップの間でのみ進められ、実際に用地を提供する農民らほとんど寝耳に水のまま、強制的に「地上げ」されることも、たびたびだったという。

結果、千葉・茨城では反対運動が盛り上がり、成田は今なお滑走路が全通できない状態に、筑波は当初の計画から大幅に縮小するというハメに陥ってしまったのである。

今日、筑波を歩くには、車か自転車が欠かせない。反対運動を受けて計画が縮小、変更され、研究施設が飛び飛びに散在し、相互連絡がうまく機能していないからである。研究学園都市の目的であった「研究者相互の交流」も、十分に果たせているとは言いがたい。

その上、東京からのアクセスの不便さが、この両施設には災いする。

成田空港には早々に京成電鉄が支線を延ばしたが、線路は空港手前で途絶。乗客は一度降りて、バスに乗り換えなければならないという理不尽さを強いられた。

それでも、鉄道が通じている分、成田はましであり、筑波には東京から通じる鉄道は一本も通らなかった。東京からは常磐線で土浦へ行き、そこからバスに乗り換えるか、高速バスを利用するかしか、無かったのである。


1985年、筑波万博が開催されると、筑波の認知度が大きく高まり、それにつれて、そのアクセスの細さもクローズアップされるようになった。そして筑波に新鉄道を通す「第二常磐線」のプランが、現実味を帯びることになる。

第二常磐線のアイデアは、すでに70年代から存在していたが、高度成長期の終わりとともに下火になった。しかしその火は消えたわけでなく、80年代のバブル景気で再着火する。91年には第三セクター方式で運営会社が設立され、94年には着工の運びとなった・・・のだが、そこにバブル崩壊の荒波が押し寄せる。

建設は紆余曲折を繰り返し、一時は工事中止もささやかれる中、予定より5年遅れ、漸く05年に開通にこぎつけた。首都圏最後の長距離路線と呼ばれる、「つくばエクスプレス」の誕生である。

テーマ : 国内旅行
ジャンル : 旅行

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