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tukuba

つくばねの峰よりおつるみなの川こひぞつもりて淵となりける   陽成院


百人一首でお馴染みの短歌だが、意味は「筑波山より落ちる川が積もって淵となったように、私の恋心も積もり積もって淵のように深く淀んでしまった」。

詠み人の陽成院は平安中期の上皇で、清和天皇の息子。清和源氏の事実上の創始者であるが、政治的には恵まれず、時の実力者である藤原氏の怒りを買い、10代の若さで引退、上皇にさせられてしまう。だから称号も陽成「院」なのである。

しかし彼は優れた歌人だったと言われ、度々歌合せを催したという。その中で披露されたであろうものが、冒頭の歌である。


ここでは「つくばね」つまり筑波山が詠み込まれているが、これは筑波山が歌垣の舞台だった故事による。歌垣とは、いわば歌による集団見合いで、男女が求愛の歌を掛け合うというもの。お互い気にいればカップルの出来上がりとなる。

このような歌垣は日本各地で行われたが、関東平野では筑波山が有名であった。それはこの山が関東では珍しい独立山なこと、男体山、女体山の2つの峰があること、によるものらしい。

元々、筑波山周辺には、古くから人が住んでいた。東には当時海であった霞ヶ浦があり、古代人はそれを漁業や製塩、交通などに利用していたと伝えられている。

ヤマトタケルが来訪したり、万葉集にも歌われるなど、筑波山一帯は常陸国の一大センターとして機能していたことがうかがわれる。


その後、中世になると霞ヶ浦は内陸湖と化し、製塩業は廃れていくが、交通の要衝としての地位はむしろ強まったらしい。

筑波山といえば、ガマの油が有名だが、単なるカエルの軟膏なら、筑波産に限る必要もなかったろう。カエルは日本全土にいるのだから。だがその中で、筑波のものだけが全国に行き渡ったのは、霞ヶ浦を利用した水運によるところが大きい。筑波ではないが、鹿島の剣術もまた、そういう文脈の中で全国に広がって行ったものと、おもわれる。

近代ではこの一帯は大都市・江戸向けの近郊農業が盛んになり、とくに醤油の名産地として知られた。筑波で生産された醤油もまた、霞ヶ浦や利根川を伝い、江戸に回送されていったのである。


明治以後には、鉄道(筑波鉄道)が敷かれたり、陸軍飛行場が開設されたりするものの、基本的には一地方都市としての範疇を出ることは無かった。

むしろ、茨城県南部の繁栄は、隣接する土浦の方が上だったと言ってもいい。土浦は霞ヶ浦に隣接し、また常磐線が開通したことから、その優位性が高まった。

その常磐線、実は、当初は筑波を通るルートも考えられていたである。常磐地区と東京を結ぶ場合、むしろこちらを通る方が近い。しかしその間には流山、野田、三郷という水運の要衝があり、彼らはこぞって鉄道建設に不賛成であった。

今からすると、のろのろとした水運に頼るなど、愚かなように見えるが、むしろ当時(明治初期)においては、水運の方が盛んだったのである。また西洋の最新技術を導入した新運河など、新機軸も次々に投入され、技術革新も盛んであった。

実際、常磐線開通の9年前には、オランダの技術により、この地区には新運河が開削されてもいる。江戸時代から連綿と続き、真新しく完成した運河を目の前にしては、彼らが鉄道建設に反対するのは無理もないと言える。

しかし常磐線開通後、土浦は海軍基地が置かれるなど、着実に発展していったのに対し、筑波地区の地盤沈下は振興していった。その筑波地域が一変するのは、1960年代からである。

テーマ : 国内旅行
ジャンル : 旅行

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 >歌垣とは、いわば歌による集団見合いで、男女が求愛の歌を掛け合うというもの。お互い気にいればカップルの出来上がりとなる。
 ⇒なんかロマンチックv-10。歌って短いけど、相手の性格が良く現れると思います。なんかいいな…そういうの。
 >ガマの油
 ⇒さぁさぁおたちあい…ってのだよね。あれ、どこかで聞いた事がある。面白かった。
 

>なんかロマンチック。歌って短いけど、相手の性格が良く現れると思います。
万葉集あたりの歌はストレートで情熱的だと思います・・・

> ⇒さぁさぁおたちあい…ってのだよね。あれ、どこかで聞いた事がある。面白かった。
今だと落語くらいでしか聞けないですけど、実際に大道でやってるところを見て見たいですね~
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