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日本製糖史

サトウキビはイネ科の植物で、イネと同じく、高温多湿をこのむ。原産地はニューギニアか、その近辺といわれている。

一体にイネ科の植物はムギやトウモロコシなど、人間のエネルギー源となりうるものが多いが、サトウキビもその例に漏れず、エネルギー値が高く、古くから利用されてきた。

東南アジアではそのまま噛んで味わったり、絞ってジュースにしたりと素朴な形で利用されているが、絞り汁は腐りやすいので、生産地以外には余り広まらなかったようである。

砂糖が広範囲に流通するようになるのは、絞り汁の結晶化、つまり「砂糖」が作られるようになってからである。砂糖になると、長期保存、長距離輸送ができるようになるのだが、実はサトウキビの絞り汁をそのまま煮詰めても、砂糖にはならない。不純物が多く、糖蜜にしかならないのからである。そこで不純物を沈殿させたり、少しずつ結晶を成長させるなどして砂糖にするのだが、その精製技術はインドで創始された。

インドは大陸国であり、内陸部にまで塩を運ぶ必要があったため、海辺で海水を精製して塩にする製塩技術が古くから発達しており、それを応用して「砂糖」が作られたと、推測される。

英語で砂糖をsugar, sakkaro(砂糖の)などというが、これはサンスクリット語で砂糖を意味するsakkaから来ている。インドからアラビア、イタリアを経て、ヨーロッパに持ち込まれたのである。一方、日本ではsatou、中国語ではsatanというが、これもやはりsakkaの音訳である。




砂糖の製法は唐代、南洋貿易などを通して、インド、東南アジアから南中国にもたらされた。日本にも遣唐使や鑑真を通じて伝えられたが、寒冷地である日本ではサトウキビは栽培できず、砂糖は長らく高価な舶来品であった。

15世紀になると、ブラジルなどでプランテーションを利用した大規模な砂糖栽培が始まり、砂糖は世界商品となる。(時代は下るが大西洋を股にかけた三角貿易では、砂糖が重要な構成要素であった。)17世紀中国の産業書「天工開物」を読むと、この「洋糖」は中国にも輸入されていたことがうかがえる。

世界的に砂糖の流通量が増えた結果、明代中国では砂糖を使った菓子が盛んになり、落雁、外郎などの原型が作られるようになった。それまでの中国菓子は砂糖を使わず、果実や水あめ、蜂蜜を使っていたのだが、明代になると砂糖の輸入量・生産量が増え、新しい菓子が創作され始める。

この新菓子は日本にも伝わり、「和菓子」の源流ともなった。一方、洋糖を使ったカステラやポーロ、金平糖もポルトガル商人などを通じて、日本にもたらされた。

その結果、日本でも砂糖需要が増加し、国産化が求められるようになった。それに応えて南西諸島や琉球ではサトウキビの栽培が始められたが、これは低精製の黒砂糖であった上、薩摩藩の独占販売だったため、価格は高かった。

そのため他藩でもサトウキビの栽培が試みられ、高松藩や徳島藩ではそれに成功した。そして製糖技法にも工夫を凝らし、「和三盆」という高品質な製品を作ることに成功した。

和三盆は見かけは粉砂糖に良く似ているが、精製方法が異なり、化学的精製法用いて純度を上げていく粉砂糖に対し、和三盆は粗糖を何度も水洗いして糖蜜物を取り除いていく。一説には盆に入れて三回洗うことから、「和三盆」という名前がつけられたという。

出来上がった和三盆は純度が高く、糖蜜分も残されており、それ自体でもお菓子として通じるほどの上質な味覚を持った製品に仕上がっている一方、その水洗い過程にはロスも多く、明治以後、海外から大量の洋糖が入ってくるとそれに押されて市場から姿を消した。

そして数十年の間、日本は砂糖の純輸入国となるのだが、そのトレンドが変わるのは日清戦争からである。




日清戦争の結果、日本は台湾島を獲得し、その植民地経営から利潤を得るために、砂糖に目をつけた。台湾のサトウキビ栽培は、この地を領有したオランダによってすでに17世紀より始められていたが、そこで作られていたのは黒砂糖であり、これを近代化することで、世界商品に仕立て上げようと考えたのである。

まず台湾総督の要請を受けて、1900年、三井財閥が台湾において台湾製糖会社を興した。そして数年後には明治製糖が創始され、日本本土からも大日本製糖が台湾進出を果たした。

この中では大日本製糖が最も古参であり、その分よく言えば手堅い、悪くいえば保守的な経営方針を保持した。台湾だけでなく、インドネシアなどからも粗糖を買い付けることで粗糖の安定確保に努め、それを日本にある工場で精製・販売した。

一方台湾製糖・明治製糖は元々台湾での粗糖生産・精製から出発し、発展するにつれて日本内地での精製をも開始するなど、垂直統合を推し進めた。

各社が競争して生産量を伸ばした結果、1938年には砂糖生産は137万トン以上になり、国内の需要を満たし、かつ輸出もできるほどに成長した。

しかし敗戦によって日本は台湾を失い、台湾にあった全ての製糖施設は国民党政府によって接収され、国営企業「台糖(台湾糖業公司)」として再出発することになる。

50年代から60年代にかけて、製糖は台湾の重要な輸出産業であり、当時、台糖は台湾随一の企業であった。しかし台湾産業が工業化を果たすと、製糖業は斜陽産業となり、現在ではコーヒー製造からガソリンスタンド経営まで、経営の多角化を進めている。




一方、日本に残された砂糖産業も壊滅したわけでなく、砂糖の消費量が増加するにつれ、順次復活を遂げた。

台湾製糖は台糖と名を変え、その後三井製糖に吸収された。一方、明治製糖と大日本製糖は合併し、大日本明治製糖となった。

ちなみに明治製菓、明治乳業は、元々明治製糖の一部門として出発した。その意味では大日本明治製糖、明治製菓、明治乳業はグループ企業といえないこともないが、設立されたのが戦前であり、現在ではグループとしての関係は薄い。

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No title

 >一説には盆に入れて三回洗うことから、「和三盆」という名前がつけられたという。
 ⇒そうなんですかv-291。ふぅ~んv-352
 砂糖一つでも長い歴史があるんですね。それにしても三井財閥って色んな事してて凄いですね(あまり良く知らないけれど)。
 >東南アジアではそのまま噛んで味わったり
 ⇒そういう食べ方してみたいな。ガリガリ噛んで面白いだろうなv-341

No title

三井だけでなく、住友、三菱など旧財閥は色々やってますよ。国策企業という意味合いもあったようですね。

サトウキビ生齧りは、かなり歯と顎が丈夫じゃないとキツイですわw。面白いけど。

No title

lepさん、夏休みはお仕事忙しい時期なんだね~
それともどこか体を壊してるとか?
こんなに更新しないのは珍しいですね。

No title

ぢつは別ブログの更新で忙しかったりしますe-330。。。実生活でも旅行とか色々あったんですが、ぼちぼちこちらでも更新します~
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