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ダンス イン ザ ヴァンパイア バンド

ダンス イン ザ ヴァンパイア バンド5 (MFコミックス)ダンス イン ザ ヴァンパイア バンド5 (MFコミックス)
(2008/06/23)
環望

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dance in the vampire band...。おまけに作者が「環」で、狼男がヒーローというので、輪のなかで狼と吸血鬼がダンスするわけのわからんアニメかと思いきや、原作を読むとbandでなく「bund」。

bundとは、戦前に上海に作られた外国人租借地のこと。もともとは堤防やダムを意味するウルドゥ語だったが、上海では海岸通り、海岸沿いの地区の意味として使われた。中国語では「外灘」と称されたが、これは外国人の海岸、という意味である。

この作品は、東京湾岸に設けられた吸血鬼の租借地「外灘(バンド)」。そこを舞台に、吸血鬼と人間との葛藤と共存をテーマにした、割合シリアスな物語である。


狼男のアキラは、幼時より、真祖の姫君ミナの親衛隊員として育てられた。元来親衛隊は4名からなる予定だったが、訓練中の裏切りにより親衛隊は崩壊。残されたアキラだけが、ミナ姫を近侍・護衛することになる。

姫はドラキュラ真祖で最後の女性であり、彼女を殺害すればドラキュラ種族は絶えてしまうため、吸血鬼は誰もが彼女に危害を加えられないという不可侵の力を持つ。その力の上に3有力氏族の均衡が成り立っており、姫の権力は傀儡的なものであった。

その状況から脱するために姫は独立を決意。日本政府の借金を肩代わりする代わりに、拠点として租界を譲り受け、そこに城を築き、配下の吸血鬼らを住まわせることにしたのである。

だが当然3氏族はこれを快く思わず、頭ごなしに租界を作られた日本人もこれに反感をもつ。さらに部下の反抗、吸血鬼に敵対する謎の組織の登場など、事態は四面楚歌。

だが彼女は自分を慕っている臣下のために、独立を敢行。刺客やテロリズム、謀略と術数の渦巻く世界に立ち向かうのであった・・・


東京に「バンド」を設定する、というアイデアがいい。今までにも大都市に租界を設ける話はいくらもあったが、それは大抵上海や香港が舞台。それに大志、今回は東京が舞台。日本の地盤沈下が、フィクション世界でも感じられるようになった。

実際、一世帯500万とも600万とも言われる莫大な借金を肩代わりしてくれるなら、人工島のひとつや二つ、売ってやろうじゃないか、と思う人は意外と多いのでは、とおもう。経済特区や東京湾カジノと同じような発想である。

反面、「国家主権が脅かされる」「吸血鬼が増えると治安が乱れる」などという反対派も多いだろう。吸血鬼=外国人労働力と置き換えると、このあたりの話はぐっと現実的になる。

失われた10年が20年になりつつある日本経済の宿痾(ア)は、人口減である。様々な少子化対策が打ち出されたが、ほとんど功を奏していない以上、それを打開するには外国人労働力の移入しかない、ということも分かりつつある。

だが市民の間には「外国人が増えると治安が乱れる」「外国人に参政権を与えると、国家主権が脅かされる」などの理由で根強い反対論がある。

それを解決するひとつの手法は、外国人居留地を作ることである。外国人を一箇所に集め、そこで働いてもらうか、外で働くときにはID提携を義務付けるというやり方である。珍しい手法ではなく、イスラエルではパレスチナ労働者をそのように扱っている。

もっともこのやり方は基本的人権に抵触する恐れが強い(外国人には人権はない、とする意見はさておき)。それでも、やろうとするならば、素行良好な外国人には居住制限は緩和される、などというオプションがつけられるかもしれない。


作中でも巧妙にその設定が取り入れられ、牙を抜いて「去勢」した安全な吸血鬼は、次第に人間社会と融合していく過程が描かれている。

たとえばバンド近隣の学校では吸血鬼と人間との驚愕となり、お互いが学びあうようになる・・・のだが、つまりこの作品は学園ものでもある。

日本のコミックやライトノベルは、やたら学園が舞台だったり、少年少女が主人公になったりすることが多い。実際の消費者は20代、30代であっても、学園もの、というケースも珍しくないが、考えてみると、これは奇妙なことである。

もしその人が30代なら、職場や家庭での出来事を描いたものの方が、売れるはずなのに、そうでないというのは、そこに理想と現実とのギャップがあるからだろう。

つまり日本人は学生時代を楽しく、自由で闊達な時代と位置づけ、それ以後の時代を暗く辛いものと捉えているようだ。そして大衆文化はその楽しい時代を追及するあまり、アイドルの年齢は大学生から高校生、高校生から中学生、中学生からロリへと、次々に低下していくかのようである。

日本男性にロリ、女性に少女願望が強いというのは、日本で最も優遇されている人種というのは「子供」という、その表れなのかもしれない。


さて、姫は吸血鬼なので、実年齢と肉体年齢が乖離している。身体はロリ。心は大人。このギャップが萌え~要素なのだが、本当の萌えはその肉体描写にある。

幼女で○○なのをよいことに、あれでもか、これでもか、と裸体シーンが登場する。時にはサービス過剰と思われるほどだが、これは作者がエロ作家出身だということに由来する。

環望は1966年生まれで、現在の萌え系統の漫画家らよりも、一回りも二回りも年配である。少年向け、成人向け、分泌家、という複雑な経歴を経て、一般誌に登場したが、そのタッチは昭和昭和しており、正直古臭い印象もないではないのだが、こと、ロリの描写になると、奇妙なエロチシズムを奏でだすのである。

その秘密は「ずん胴」だ。

現在はやりのタッチは、痩身。「百舌谷さん」や「怪物王女」で見られるように、少女の身体というものは、1グラムの負担にも耐えられないかのように、極端に細く細く描写されている。

だが現実の子供というのは、意外に太く、たくましいものである。むろん絵画というものは空想の産物であり、現実にトラわれる必要はないのだが、それでも過度のデフォルメは現実性(およびその一枝としてのエロス)を失う。

実は作者が基本的タッチを学習した80年代においては、あずまひでお、ゆうきまさみ、などに見られるように、少女像というのは太く丸まるとしたものが多かった。その系譜を環は引いており、そのアナクロニズムが却って新しい「萌え」をもたらしたといえる。


物語はそのロリ姫と、狼男の少年との恋愛をもう一本の縦糸としながら、進んでいく。吸血鬼と人間との恋愛は、たとえば「かりん」などに描かれており、どう種族の違いを乗り越えて二人は結ばれるのか、が作者の腕の見せ所である。(まあ結ばれず、サブヒロイン由紀と結ばれる、という展開もあるにはあるが)

しかし姫は少年の出生時より、彼を愛していた、という設定は、少々強引に見える。もちろん幼馴染の恋愛というのはオーソドックスだが、生まれた時からの恋愛、というのは無理があるだろう。

そこに何らかの秘密が仕込んであるのか(前世の因縁とかw)、いないのか。8巻にして謎はまだ解けてないので、まだまだ楽しめそうだ。

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