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勝間本の氾濫

勝間和代。毀誉褒貶の激しいタレント知識人である

一般人からは「分かりやすい」「競争時代にふさわしい指針を与えてくれる」などと好意的な声が多い反面、識者からは、「アメリカ型資本主義の受け売り」「日本の風土を考慮していない」「強引で視野が狭い」などと批判されがちだ。

つい先日も、知り合いの会計士が「彼女の本は読む気もしない」と吐き棄てるように酷評していたが、むしろ批判すべき点は、マスコミが勝間一色になり、全ては彼女が正しい、という一億総盲信のほうにあるようにおもう。

一体に日本の言論は付和雷同、一極集中的なところがあり、多様性に乏しい。少し前までは森永卓郎一色、その前は竹中大臣一色の時代が続き、知のカリスマ化、流行化が甚だしい。


もちろん知の大衆流通が悪いわけではない。象牙の塔に閉じこもって自慰的な研究をしている知のあり方が批判されて久しい。ただ今でも研究資源の東大一極集中に現れているように、知が広く民間に蓄積されているわけではない。

アメリカではジャーナリストなどの在野知識人の層が厚く、経済評論一つとっても、実に多様で奥の深い評論がなされている。ところが日本では層が薄く、勢い知の世界から「天下った」知識人の声が「天の声」のように扱われてしまう。

ところが天の声は野にあっては孤立しているため、切磋琢磨されずに次第におかしな方向へ行ってしまうことがある。特に分野外の知を担当する場合に、その逸脱は著しい。

例えば昨今では脳科学が流行り、それが全てを解決してくれるという妄信が広がっているが、それに便乗するかたちで脳科学者らが社会科学から人文学までをカバーする風潮がある。


しかし元来彼らは自然科学者であり、人文学の素養に乏しい。それを押して批判するものだから、勢いAHA!体験のようなキワモノが横行してしまう。

結果、やはりまともな知の議論は象牙の塔内でやるしかない、という認識が強化され、塔の壁は厚く高くなってしまった。知の流通・解放が、却って知の自閉を招くというジレンマが、そこにはある。

90年代には、インターネットの普及が壁を打破すると期待されていたが、余りに自由な意見のやりとりは、識者同士のコミュニケーションと、一般人同士のそれとを分ける結果に終わってしまった。

もっとも、それで民間の知が消え去ったわけではない。たとえばネットには優れたものは少なくとも、日々知が重ねられていく。それらを紡ぎあげていく可能性がなくなったわけではない。

ただそのような知は、「知」を解体していくものになるだろう。生活と学問の狭間、一般人と民間人の境界というより、両者が融合し、新しい智慧として結晶していく。そのような錬金術が、模索されつつある。

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No title

勝間氏の人生指南書やビジネス書は、こう言ってはなんですが「貧乏人向け」という感じがします。知の貧者ビジネスという印象です。

個人的な印象でさらに言えば、インターネットのおかげで、lepさんが書いているような「天」と「野」の差は格段に薄くなった部分はあると思います。lepさんが書いているようなジレンマは確かにあるとしても…。

この、薄くなった壁を打破するには、何らかの形でさらなる「革命」的な力が必要だと思います。そしてこんなひどい時代なのだから、民衆の不満や欲望の爆発がその「最後の一歩」になるのではないかと僕は漠然と考えていました。

インターネットで着々と力を蓄え続けてきた民衆が、そのエネルギーを爆発させるとしたら今のような時代しかないじゃないか! という思いだったのです。

だけど未だに、人々はマスコミに誘導させられてばっかりいます。エネルギーの爆発などどこにもなく、ただ日々だらだらとガス抜きされているだけです。どうにかならんのか、と思います。

Re: No title

> 勝間氏の人生指南書やビジネス書は、こう言ってはなんですが「貧乏人向け」という感じがします。知の貧者ビジネスという印象です。

貧乏人向けw。言いえて妙ですね。確かに富者や識者が勝間ファンというのは、余り聞いたことがない・・・

> 個人的な印象でさらに言えば、インターネットのおかげで、lepさんが書いているような「天」と「野」の差は格段に薄くなった部分はあると思います。lepさんが書いているようなジレンマは確かにあるとしても…。

確かに薄まりましたね。ただ以前の壁がレンガ塀だとしたら、現在の壁は鋼鉄製なイメージがあります。前者は労力で突破可能なのに、後者はそれ以外の力がないと突破できないという。

> この、薄くなった壁を打破するには、何らかの形でさらなる「革命」的な力が必要だと思います。そしてこんなひどい時代なのだから、民衆の不満や欲望の爆発がその「最後の一歩」になるのではないかと僕は漠然と考えていました。

革命という語で表現するのなら、「内なる革命」が必要な木はします。自らの長所・短所を知り、そこに全身全霊をかけて突破していくような。あるいは、近視眼的・日常的な思考を打破し、広い視野から自らを捉えなおせるような、革命が。

そのような革命は、実はゆとり教育が意図していたものだったのですが、それが見事に否定されてしまった以上、

> だけど未だに、人々はマスコミに誘導させられてばっかりいます。エネルギーの爆発などどこにもなく、ただ日々だらだらとガス抜きされているだけです。どうにかならんのか、と思います。

のような結果になるのは当然だったとも、思うのですね。

> インターネットで着々と力を蓄え続けてきた民衆が、そのエネルギーを爆発させるとしたら今のような時代しかないじゃないか! という思いだったのです。

ですから民衆はネットで力を蓄えていたのではなく、ネットで力を消耗してしまったのではないか、というシニカルな見方を持ってしまうのです。これを打破するには、やはり「自分で、論理的に、しかし直観を忘れずに、広い視野をもって考える」習性を身に付けるしかないと思うのですね。
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