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志賀直哉と口語文体の確立

名作を聴く(5)~志賀直哉名作を聴く(5)~志賀直哉
(2006/08/09)
紺野美沙子

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志賀直哉と口語文体の確立


志賀直哉といえば、「小説の神様」として、その文章を絶賛された作家である。この人をもって、現代日本文章語は完成された、という意見さえある。そのような日本語の達人であった志賀だが、晩年には一転、日本語廃止論を唱えるようになる。日本語をやめて、フランス語を公用語にすべし、というのだが、一体彼に何があったのだろうか。



江戸時代までの日本語は口語と文語が区分されているのが普通であった。口語というのは「話し言葉」、文語というのは「書き言葉」のことであるが、明治になって西洋文明が乱入してくると、それに影響されて両者を一致させようという「言文一致」の動きが出てくる。近代英語や近代フランス語においては、言文一致が当たり前だったからである。

中世においてはヨーロッパの文章語はラテン語だったのだが、ルネサンス以後はそれを脱してフランス語や英語、ドイツ語の文体が確立していく。そしてその口火を切ったのがシェークスピアやダンテという文芸家であった。

彼らがラテン語を廃したのは、それが鈍く切れ味が悪かったというより、その切る方向が違っていたからである。一般に文語表現はリズムが良く、型もふんだんに用意されているので、それを繋ぎ合わせることで(比較的)たやすく創作を行える。

しかし近代化という現象は、型を破って新しい方向を模索する動きである。文学者にとっては旧来の型は、自分の感性や思念を抑圧する唾棄すべき存在であり、日ごろ使っている言葉への移行-口語化が進められた。

憂いの国に行かんとするものはわれを潜れ。
永劫の呵責に遭わんとするものはわれをくぐれ。
破滅の人に伍せんとするものはわれをくぐれ。
正義は高き主を動かし、 神威は、最上智は、 原初の愛は、われを作る。
わが前に創られし物なし、 ただ無窮あり、われは無窮に続くものなり。
われを過ぎんとするものは一切の望みを捨てよ。
(「神曲・地獄篇」ダンテ)

「神曲」が今なお瑞々しい魔力を発している理由のひとつは、それがラテン語でなくイタリア語(正確にはダンテの住んでいたトスカナ地方のイタリア語)によって書かれたからだ、とされる。



言文一致運動は日本特有のものではなく、西洋化の洗礼を受けた中国やトルコでも、同様の現象が起こっている。

中国では魯迅らが旧来の伝統に凝り固まった漢文を棄て、口語で創作しようという「白話運動」が推進され、トルコではオスマン帝国の公用語として使われていたアラビア語から、トルコ人自身の言葉-つまりトルコ語に切り替えようという「国語化運動」が進められた。

それらの非ヨーロッパ地域では、言文一致運動は伝統否定運動と関係していることが多かった。なぜなら、文語はふるい伝統や文化、宗教と密接に繋がっていることが多く、その呪縛から脱しようという意欲も、口語化の原動力のひとつだったからである。

たとえば中国を2千年にわたって支配してきた儒教は、論語などを通して文語に強い影響を与えていたため(文化人になるには、論語を諳んじてなければならなかった)、中国の文語は儒教の支配下にあるといっても過言ではなかった。したがって、儒教の「奴隷根性」を脱するには、白話運動が必要だと考えられたのである。

(中国人が無気力なのは、儒教が民衆奴隷化の道具として用いられたためだ、として魯迅らはこれを激しく非難した)



もっとも言文一致の動きは、一直線ではなかった。

日本においては、漢文および、それの読み下し文が公式文語であったため、明治期の文学者らは、その呪縛から完全には抜け出せなかった。森鴎外は「舞姫」を文語で書いたし、夏目漱石の「草枕」は口語ではあるものの、現代の眼から見れば、まだ漢文調の硬さが抜け切っていない。

 石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。 (「舞姫」)

言を換えて云えば、利害に気を奪われないから、全力を挙げて彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。余念もなく美か美でないかと鑒識する事が出来る。 (「草枕」)

一般に明治期の文章は硬く、みずみずしさや叙情性に欠けるきらいがあるとされる。言文一致運動は、単なる言語の形変化だと考える人が多いが、形を変えただけでは、口語文とは言えない。口語文が口語文となるには、その内容が深化されなくてはならない。



このことに気づいたのが、芥川・志賀といった大正時代の文人らであった。

芥川や武者小路らが、口語で表現したかったもの。それは、新しい時代によって生まれた、新しい精神である。近現代は人間を地域共同体や血縁共同体から解放し、解放された個人は、直接社会と向き合い、そのなかから新たな感覚や思想を模索したのである。

その現象は詩歌によく現れている。それまでの短歌や俳句は、花鳥風月といった伝統的な風物を歌うものであった。明治になって西洋の詩が翻訳されたのだが、

秋の日の ヴィオロンの ため息の 身にしみて うらがなし(「海聴音」上田敏)

から分かるように、この伝統の上に成り立っていたと言っていい。ただその小道具が琵琶からヴィオロン・・・つまり日本から西洋に変わっただけである。この詩は、西洋的舞台を借りて、日本的情緒を表現したものにしか、過ぎなかった。

日本の詩歌が新たな胎動を始めるのは、正岡子規が「写生」という概念を短歌に持ち込んでからである。

秋の蝿追えばまたくる叩けば死ぬ

この子規の俳句を先の翻訳詩と比べて見れば分かるように、そこには花鳥風月の感傷性はない。「ハエを追う」「叩けば死ぬ」という冷徹な観察眼があるだけである。上田敏との間には、精神の革新もしくは断絶があったと言わねばならない。

この子規の観察眼の背景には、西洋の自然主義やリアリズムの影響があったとされる。19世紀、フランスを中心にそれまでの浪漫主義を脱して、人間や社会を客観的に、科学的に見つめようという動きが出てくる。

そのルーツをたどれば、やはりルネサンス美術に現れた「写実」に行き当たる。もっとも美術の写生といえど、完全なコピーはありえない。人間はカメラではないからである。またそのような完全無傷な写実を、芸術は求めてもいない。

芸術が科学でなく、芸術であるゆえんは、そこに主観-美意識・情緒-が入り込むからである。

要するに子規は「写生」という概念を通して、情緒を切り捨てようとしたのでなく、伝統の殻に囚われない、自由闊達なものの見方を詩歌に導入しようとしたのだと考えられる。つまり新しいかたちの叙情性を提唱したわけである。



子規は、漱石の友人であったことから、この写実主義はやがて小説に影響をあたえ、漱石の弟子の芥川は、「小説には詩的情緒がなければならない」とまで述べている(「文芸的な、余りに文芸的な」)。

そしてそこで芥川は志賀直哉こそが、その情緒性を持ち合わせた作家である、と絶賛している。

丸くふくれた小さな腹には所々に砂がこびりついて居た。(「鵠沼行」)

なるほど、志賀の文章はdetailが細かく、しかもリアリティがあり、ジャーナリストとしてもやっていけそうなほどである。

(ちなみに日本の近代文学はジャーナリズムと強い関係があり、漱石や啄木、芥川は新聞社から給料をもらっていたし、二葉亭四迷はロシア特派員であった。これは決して偶然ではなく、近代文学の「写生」は、「ありのままに伝える」ことをモットーとするジャーナリズムからの強い影響があった)

しかし志賀がジャーナリストでなく文学者であるのは、その文章にリリシズムや思念思想が注入されているからである。

自分は鼠の最期を見る気がしなかった。鼠が殺されまいと、死ぬに極った運命を擔ひながら、全力を盡して逃げ 廻ってゐる様子が妙に頭についた。自分は淋しい嫌な気持ちになった。あれが本統なのだと思った。自分が希ってゐる静かさの前に、ああいふ苦しみのある事は 恐ろしい事だ。死後の静寂に親しみを持つにしろ、死に到達するまでのああいふ動騒は恐ろしいと思った。自殺を知らない動物はいよいよ死に切るまではあの努力を續けなければならない。今、自分にあの鼠のやうな事が起ったら自分はどうするだらう。自分は矢張り鼠と同じやうな努力をしはしまいか。自分は自分の怪 我の場合、それに近い自分になった事を思はないではゐられなかった。自分は出来るだけの事をしようとした。自分は自身で病院をきめた。      
(城の崎にて)

志賀の「リリシズム」とは、ムダを省いた簡潔な文章に、東洋的な美意識を盛り込むというもので、その意味から、志賀は子規の(「写生」の)流れを汲んでいたと言える。子規の「ハエ」と、志賀の「ネズミ」は通じるところがある。子規の作品を長くして、東洋的な諦念思想を盛り込めば志賀になるような感触さえある。



大正から昭和初期にかけ志賀風の描写、文章は頂点を極め、文壇につよい影響力をもった。川端康成の文章が、志賀に似ているのは模倣というより、むしろ当時の文壇の臭いを写していると言ったほうがいいだろう。

志賀の影響は文学だけでなく、広く国語教育や日本文章語のあり方にまで、大きな影響を与えた。たとえば現在、中小学校の作文では「簡潔に、ありのままに、思ったことをかく」と指導されていることが多いが、そこに志賀文術の影響を感じ取ることはむずかしくないだろう。

言わば志賀の文章は、日本語のスタンダードとなったのである。



ところがその志賀は戦後、日本語廃止論を唱えるようになる。彼はフランス語公用語論を提唱し、おおきな物議をかもしたのである。


そこで私は此際、日本は思ひ切つて世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとつて、その儘、國語に採用してはどうかと考へてゐる。それにはフランス 語が最もいいのではないかと思ふ。六十年前に森有禮が考へた事を今こそ實現してはどんなものであらう。
外國語に不案内な私はフランス語採用を自信を以つていふ程、具體的に分つてゐるわけではないが、フランス語を想つたのは、フランスは文化の進んだ國 であり、小説を讀んで見ても何か日本人と通ずるものがあると思はれるし、フランスの詩には和歌俳句等の境地と共通するものがあると云はれてゐるし、文人逹 によつて或る時、整理された言葉だともいふし、さういふ意味で、フランス語が一番よささうな氣がするのである。

背景としては、もちろん敗戦による日本文化への失望感や、進駐軍へのすりよりなどが指摘されている。言語の入れ替えなど、現在から見れば奇異な主張であるが、20世紀前半においては、それほど突飛なことではなかった。

イギリスは植民地インドにおいて英語を公用語としたし、日本でも台湾において日本語国語化運動を推し進めた。インドには英語を用いて創作を行ったノーベル賞詩人・タゴールもおり、他言語を使って小説を書こう、という志賀の意見は決して異常なものではなかったのである。

もっともそれに対して、国文学者らを中心に猛反対が噴出し、志賀の意見は「老大家の耄碌」として片付けられてしまい、今日では省みるものもすくない。だが日本の現代文章語を確立させた志賀にとっては、その根底に、彼の作り上げた現代日本語文語への限界感があったのではないか。

なるほど、志賀は近世日本語を現代日本語に脱皮させ、簡潔でリアリズム溢れる文章を生み出すのに成功したが、その裏で切りおとされてしまった文語の美質もすくなくない。

たちまちに花のおん姿を散らし、痛ましきかな、分断の荒き波、玉体を沈めたてまつる。殿をば長生と名づけて、長き住処と定め、門をば不老と号して、老いせぬ鎖(とざ)しとはかきたれども、いまだ十歳の内にして、底のみ屑とならせおはします。十全帝位の恩光、申すもなかなか愚かなり。雲上のりよう下つて、海底の魚となりたまふ。だいぼんかうだいのかくのうへ、しやくだいきけんの宮のうち、古は槐門棘路(くわいもんきよくろ)の間に、九族をなびかし、今は舟のうち波の下にて、おん身をいつしに滅ぼしたまふこそかなしけれ。 (平家物語)

能登殿これをみたまひて、まづ真先に進んだる、安芸の太郎が郎党に、裾をあはせて、海へどうど蹴入れたまふ。続いてかかる安芸の太郎をば、弓手の脇にかい挟み、弟の次郎をば、馬手の脇にとつて挟み、ひとしめしめて、「いざうれおのれら、死出の山の供せよ」とて、十年に十六にて、海へつつとぞいりたまふ。(平家物語・能登殿最期)

文語のまろやかな響き、枕詞・掛詞といった言葉遊び、主語述語の入り組んだ迷路のような構造、これでもかとばかりの豊饒な修飾というものを、志賀はきっぱり削ぎ落としているが、この削ぎ落としたものこそを、志賀はフランス語の中に見ていたのでは、ないだろうか。

近現代フランス語こそは、豊かな音韻と豊穣なイマージュの炸裂する、芸術性ゆたかな言語であると同時に、明晰に哲学思念をもとらえうる思想の言葉でもあった。滋賀は日本語を研ぎ澄ませて、的確に写生をおこなえる言語を創出したが、それは芸術性においても、哲学性においても、フランス語にはかなわなかったと、志賀は痛感したのである。

そしてそれを求めて昭和の文学者らは試行錯誤を続けていくのだが、その試みは今なお十分な成果を見たとは言いがたいのである。

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