スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

逗子に死す

しかし鎌倉、というのは古ぼけたイメージが強かったが、近年は小洒落た町並みに変貌しつつある。

八幡宮参道など、かつては田舎の商店街のような良く言えば懐かしい、悪く言えば垢抜けないものだった記憶がある。妙に時代遅れの商品が並んでいたり、パッケージが日焼けしていたり、店の奥がそのまま民家に繋がっていたり。

だが今はそういう店はわずかで、主力はヨーロッパ風にデザインされた店舗が多い。といっても表参道のような派手さや、裏原宿のような先鋭さはなく、落ち着いたオトナの雰囲気がある。これが「文京都市」鎌倉の魅力なのだろう。

(一方で江の島は昔ながらの商店街が広がる。わずか数十キロを隔てただけなのに、こんなに違うというのは何か理由がありそうだ)

さて正月7日というのに、八幡宮は大変な賑わい。横須賀から来たのか、海軍軍人の一団まで詣でている。八幡宮は源氏の氏神なことから、武士、ひいては軍人の守り神となったという経緯があり、境内には明治帝の軍勲碑も建てられている。

景気が悪いというのに(悪いからこそ?)、ひっきりなしに宗教グッズが売れているが、それに飽き足らず「御印」まで売られている。これは額にハンコを押してくれるというサービスで、もろもろのご利益があるそうだが、一回千円。それでも行列ができているというから驚き。


荒稼ぎする八幡宮を後にして、西方、化粧坂方面へ。

鎌倉時代、八幡宮には役所が置かれ、近くの化粧坂には有力御家人の屋敷があった。鎌倉というのは極端に平地が少なく、谷間谷間にも家々が並べられていたが、その谷間はすぐに山に入っていく。逆にいえば谷筋さえ抑えれば、鎌倉に侵入することはできない。

そして侵略側は谷筋をどうにか突破しようと、この化粧坂に軍勢を差し向けた。時は1333年(覚えやすい)、将は新田義貞である。

新田氏は源義家を祖とする性和源氏でありながら鎌倉幕府での地位は低く、代々幕府に不満を抱いていたという。義貞は本拠地の群馬から南下。各地で北条軍を撃破し、瞬く間に鎌倉に攻め入った。

進軍がスムーズにいったのは北条体制の衰退もさることながら、鎌倉街道の存在も大きい。各地から鎌倉に馳せ参じるために設けられたこの軍事街道は、逆に反乱軍の速達を許してしまったのである。

しかし化粧坂で進軍はストップ。新田軍はこの隘路をどうしても抜くことができなかった。それは現地に行けば分かるが、兎に角無茶に急な坂で、腹這いになって進むほかないような斜面。刀を抜いたところで、切り上げることも難しい。しかも狭く、ここに障害物でも置かれ、弓矢で射られた日には、どうこうすることもできない。

結局新田はここからの突入をあきらめ、海側から鎌倉を攻略することになるのだが、ここでは坂を上りきってみる。坂下は寺や墓場になっているが、平地の乏しかった鎌倉では傾斜地は墓になっていることが多く、陰気なことこの上ない。

上りきると源氏山頂上となっており、でっかい頼朝像が鎮座している。遠くにはかすかに相模灘も見える。そこから裏を回って手掘り隧道を抜けると、銭洗弁財天。


銭洗弁財天は白ヘビを祀る、水神・龍神系の神社である。境内には洞窟と水源があり、古代人らはその荘厳さに打たれたのだろう。那智の滝など、日本には水を祀る神社は多い。

その後、弁財天がインドから請来されると、この河神は水神と混同され、水神系の神社の中には、弁財天を祭るものが出てくる。さらに時代が下ると弁才天は弁「財」天、つまり富を司るとされ、白ヘビ=水神=弁財天=富神、という複雑な関係が出来上がってしまった。

ただ水にはもともと豊作や水運のイメージがあるため、水神の富神化は自然なものだったようだ。さらに弁才天は女性で芸能神でもあったため、江の島弁才天では遊楽のシンボルとして祭り挙げられたが、これは江の島が行楽地に当たっていたからだろう。

ここ銭洗弁財天では、金銭を洗うと倍になって返って来るという信仰が生まれ、特に毎月巳の日には参拝客で賑わう・・・のだが、今日は2010年初の巳の日に当たっているので、大変な混雑だ。

噴水にコインを投げ入れるなど、水と金銭との繋がりはどうやら洋の東西を問わず普遍的なもののようだが、ここではザルにお札を入れ、上から柄杓で水をかけるというシステムを取っている。こうすれば参拝客は札を流さないし、神社はザル貸し賃で儲けられるという、賢しい知恵である。

以前はビニール袋に入れて洗っていた気がするのだが、今は直に洗う。当然お札は濡れ濡れになるので、後はお灯明などで乾かす。グループで参拝したので、同行者が札を流したり、焦がしたりと大騒ぎ。


参拝後は逗子へ。逗子は鎌倉の隣町で、駅前からバスに乗ると、山一つ越えた南側にある。鎌倉に比べると閑静さが売り物で、別荘やリゾートマンションが多い。

その一つ、逗子マリーナはリゾートマンションのはしりであり、大企業の別荘のほか、川端康成の仕事場があったことでも有名である。

川端は関西の出身だが、東京に出てからは鎌倉に居を構えていた。鎌倉は元々寺社が多く、アカデミックな雰囲気がある上、気候も温暖。横須賀線が通って交通の便も良いことから、文人・文化人が多く住んでいた。

小林秀雄、芥川龍之介、有島武郎、武者小路実篤、志賀直哉のほか、中原中也も鎌倉に住んだ経験がある。胸を病んだ中原中也は扇ヶ谷に療養し、そこで息を引き取った。また小林秀雄は鎌倉で批評活動を続け、鎌倉文人界の中心人物の一人として名を馳せた。

川端もまた鎌倉文人界の重鎮であり、戦前から鎌倉に住んでいたのだが、自宅とは別に仕事場として逗子マリーナに一室を持っていたのである。

そしてそこで昭和47年、ガス中毒死することになる。一般の見解としては自殺となっているが、川端には薬物依存があり、創作上のイマジネーションを膨らませるためにガスを利用して事故死、という見方もある。(当時のガスには幻覚を見せる効果があった)

いずれにせよ、現地の逗子マリーナは海に面した、陽だまりの中に今もある。


逗子マリーナでは、他に殺人事件も発生している。2000年、英国人女性がこの一室で殺害された。遺体はバラバラにされて近くの洞窟に隠されたという「ルーシー・ブラックマン事件」である。

犯人は資産家で、気に入った女性をマンションに連れ込み、薬物を嗅がせた上で、性行為に及ぶのを常にしていたというが、彼がその犯行場所に逗子マリーナを選んだのは、どこか川端に通じるものを感じる。川端もまた、性的に倒錯していたひとでもあったからだ。

マリーナの近くには、幽霊が出るというトンネルがある。子供のころ、何度かこのトンネルを通ったのだが、通るたびに真夏でも背筋が冷えたことを覚えている。おそらく海岸近くにあるので海水が冷媒となっているのだろうが、夜に通りぬけるには確かに肝がいった。

この付近は小坪といい、鎌倉と逗子の境地である。中世においてはそのような土地は葬送の場とされており、今も掘り起こすと人骨などが出てくる。

一体に鎌倉やその周辺は狭い割には墓が多く、合戦も度々あったので、人骨があちこちに埋もれている。逗子マリーナの北側には材木座という砂浜が広がり、夏には海水浴客でごった返すが、そこで昭和10年、多数の人骨が掘り起こされて騒動となった。

人骨の7割近くに傷跡が見られたことから、先の新田合戦の際の戦死者と推定されたが、研究が進むにつれ、その傷が意外に浅く、致命傷にはならなかったことが判明。むしろ傷は遺体を運ぶ際に付いた擦過傷ではないか、という説が浮上。どうやら材木座海岸もまた、境地として葬送が行われていたというのが今日の見解になっている。

しかし昭和10年ということは、川端などの文士らもこのことを知って鎌倉に住んでいたわけである。明るい湘南の陽光と、地下の暗い人骨の織り成す妖しい影芝居に、彼らは魅せられたのかもしれない。

コメントの投稿

非公開コメント

ブログ内検索
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
RSSフィード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。