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星の時計のLiddell

星の時計のLiddell (3)星の時計のLiddell (3)
(1986/10)
内田 善美

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星の時計のリデル

子供のころ、日が暮れるのを見つめていた。
日は傾くにつれ、眼前の丘は赤から紫、紫からプロシアンブルーへと変わっていき、最後に林のシルエットだけが浮かび上がったものだった。

瞬間、わたしはこの世のも一つ奥にある「永遠」というものに触れるのだが、その刹那的永遠性を漫画というかたちで見事に表現してくれたのが「星の時計のリデル」である。


ロシア難民の孫で、欧米を転々としてきたウラジミールは、学生時代を過ごしたシカゴに二年ぶりで戻って、旧友らとの友好を暖める。そして当時の友人、ヒューの無呼吸症候を目にする。

目覚めたヒューは不思議な夢を語る。その夢は洋館の夢であり、洋館の中には少女がいるのだという。少女はヒューのことを「幽霊」と呼び、その「幽霊」がやってくることを心待ちにしていた。

やがてヒューはこの少女を実在のものと思い込み、何とかしてその洋館と少女を探し出そうとする。そして探偵まで雇った結果、その洋館が実在することを突き止める。

早速洋館の持ち主に会いに行くのだが、驚いたことに、その持ち主は彼らが来ることを曽祖父の代から知っていた。百年以上も前に、その館には少女がすんでおり、ヒューが夢の中で出会ったのは、その過去の少女だったのである。

持ち主から屋敷を譲られた二人はそこに住むことにするが、そこで幻の少女との邂逅を繰り返す。少女は「幽霊」なのだが、少女からすると、彼らのほうが「幽霊」だという。つまり少女はこの世とずれた時空に棲む「実在」なのだ。

そして屋敷で寝ているうちに、ヒューは消失してしまう。明言はされていないが、少女の時空に転移してしまったことが示唆される。


この作品を描いた後、作者の内田善美は自身が消失してしまう。漫画界から姿を消し、二度と作品を発表することはなかった。その理由は、「この作品で描きたいことは描き尽した」からだそうだ。

では、彼は何を描き尽したのだろう。

内田の特異な作家で、現実と虚構、物語に複数の時空間が複雑に入り乱れる「万華鏡」のようなその作風は、それ以前も以後も、追随する作家はあらわれていない。

では、その特異な「万華鏡」を使って、内田は何を映し出したかったのだろう。

それは「刹那の永遠」である。内田はウラジミールのロシア、という言葉でそれを表現しているが、ロシア人の孫であっても、ロシアの地を踏んだことのないウラジミールにとってのロシアというのは、実在のロシアでなく、魂のロシアである。

あるいはまだ見ぬ故郷・ロシアという概念を借りた、「永遠の故郷」といったほうが近いかもしれない。

それは手のひらの中に、少年時代のメランコリイから、息を呑むような星空までを封じ込めた高純度なさみしさである。人はそのさみしさに耐えかねて、夜空を旅する存在なのだが、旅のなかで、そのさみしさこそが、自分のもとめていたものだと気づく。


その意味で、この作品は愛の物語などではない。たしかにヒューと少女の求め合いが描かれてはいるが、それはむしろウラジミールの「さみしさ」を掻き立てる黒子の役割しか、あたえられていないことに、読者は気づくであろう。

流れ者としてウラジミールは無意識のうちに自分の居場所、自分の目的を求めていた。彼は住んだことのある町をどれも愛していたのだが、そのような八方美人な愛は所詮、深い愛にはなりえない。

しかし強い愛をもとめるには、ウラジミールは流れに慣れすぎており、彼の愛は、「淡々としたさみしさ」および、それを実現しているヒューに向けられる。彼はヒューを-ソウルメイトという意味で-愛していた。ヒューを通してあけられる「さみしい刹那」を愛していた。

ウラジミールにとって幸福とはヒューとの接触のなかで、日常的に舞い降りてくる天使の永遠であり、そのヒューが消失した以上、彼はまた旅のなかに永遠を求める生活にもどっていく。

そしてウラジミールは、作者・内田の分身なのだ。


内田にとって、創作をする、いや生の目的そのものは、この作品のなかにあった。この作品を描き、読み返すことによって、内田は永遠を生きる。幻想の少女を実在と考えて恋したヒューは、内田のことでもある。

しかしそのような作品を作り出してしまった創作者は、不幸である。以後、どんな作品を作っても、二度とそのような永遠を生きることはできないのだから。ヒューは幻想のなかに転生することができたが、内田にとってはそれは許されない。

そのことに気づいてしまった表現者は、筆をおらざるをえない。筆でなく、日常のなかに永遠性を求めようとするのかもしれない。おそろしいほどの夕焼けを日々見られるのだとしたら、わざわざ絵や詩を書かなくてもいい。表現者の不幸を味あわなくてもすむのだから。

たぶん、当時の内田にとっての世界とは不完全なもので、その不完全を補完するために、彼は「星の時計」を描かなくてはならなかったのだろう。そしてそこで研ぎ澄まされた寂寥を体内に宿して、はじめて彼は世界を完全なものとしてみることが、できるようになったのでは、ないか。

そこで作家は、その筆を世界認識の道具から、世界建設の道具へ切り替えることになるが、あくまで認識に拘る作家は、創作の世界から去ることになる。

おそらく内田もまた、そのような作家だったのだ。

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