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<プレスター・ジョン伝説>

エフェソス公会議(431年)で異端とされたネストリウス派は、仕方なく布教活動を東方へ向け、その教義は中央アジアや中国に伝播した。中国では唐王朝の保護を受け、景教として流行したが、その後は廃れた。

一方、中央アジアではネストリウス派は支配階級の一部に伝えられ、それが誤解されて「東方にプレスター・ジョン率いるキリスト教国あり」という噂がヨーロッパに広まった。

十字軍でキリスト教勢が苦境に立たされると

その噂は真しやかに語られるようになり、東方キリスト教国が救援に来ると信じられた。その背景には西遼が、イスラムを奉じるセルジュク朝を打ち破った戦い(1141年)があったとされる。西遼はキリスト教国でなく仏教国であるが、その支配階級の一部がネストリウス派であることから、誤ってキリスト教国と伝えられたらしい。

その救援を得ようと、実際に教皇アレクサンデル3世は使節を遣わした(1177年)。使節は当然、プレスター・ジョンに行きつくことはなかったが、マルコポーロはその実在を信じていたという。

モンゴルの支配階級にもネストリウス派はおり、13Cにモンゴルのイスラム圏への快進撃が始まると、これはプレスター・ジョンのイスラムへの鉄槌である、との噂が流れた。

しかしその後、モンゴルがヨーロッパを侵略するようになると、中央アジアの事情が明らかになり、プレスター・ジョンの話は伝説化していった。


ところがエチオピアがキリスト教国(コプト派)であり、しかもその皇帝がプレスター・ジョンと呼ばれたことから、今度はアフリカにプレスター・ジョンの国があると考えられるようになった(15C)。中にはモンゴルに追われてアジアからアフリカに脱出した、というものさえあった。

それを探し出し、連携してイスラム勢力(オスマントルコなど)を叩こうと、航海王子エンリケはアフリカ沖に艦隊を繰り出したと言われる。またバスコ・ダ・ガマは、ソマリアをプレスタージョン国と誤認したりもした(1502年)。

その後ヨーロッパは世界の支配者となり、東方キリスト教国の救援など必要としなくなる。さらに19C、リビングストン、スタンリーらの活躍により、アフリカ内部が探索されることによって、最終的にプレスタージョンの伝説は霧散することになったのである。

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