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赤い実験

   のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり

言わずと知れた茂吉の代表作だが、この短歌のどこがいいのだろうか。「赤い」が効いているのだろうか。そこで「のど赤き」を削除してみる。

   玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり

悪くはないが、これだと何か、ツバメが二羽、仲良く連れ立って臨終中の母を見下ろすという、滑稽さが出てきてしまう。「のど赤き」は必要なのだ。。。。では「のど」は要らないだろうか。


   赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり

これも悪くはないが、赤いトリが梁に止まっている姿からは、悲しみというより不吉さ、血まみれ、を連想してしまう。「のど」もやはり、欠けてはいけない要素だということが分かる。

おそらく、ツバメは母の肉体を象徴しているのである。その赤いノドは、母の血の通うのど、あるいは胸、乳房へとつながっている。玄鳥を「二羽」でなく「ふたつ」いる、と表現した点からも、その連関が読み取れる。なんとなれば、乳房もまた、ふたつだからである。

ツバメを先置しておくことによって、読者はスムーズに、違和感なく「母」に誘導される効果を、茂吉は狙ったのだろう。


しかしツバメが母の肉体とすると、分からないことがある。母の肉体は滅びかけているのに対し、ツバメは躍動的で、今にも飛び立とうとするイメージがあり、両者はうまくかみ合わないように思える。

だが実際にこの歌を詠んでみると、この違和感は全くないどころか、却って「玄鳥」の存在が、母の死を引き立てているような印象さえある。

これは玄鳥はまた、「死」の象徴だからである。

茂吉はツバメを「つばめ」、または「燕」と表記せず、「玄鳥」としたのには、理由があるように思える。それは「玄」は「暗い」、「幽玄」をさし、つばめを「玄鳥」とすることで、彼はこの鳥に母の「死」というイメージを背負わせたかったからだろう。


ヤマトタケルは死後、白鳥となって大和にもどったという伝承があるように、鳥が死や魂を象徴するという発想は、日本古来からのものである。万葉集に通じていた茂吉がそれを知らなかった、とするのは無理がある。むしろ彼は、「鳥=魂」という発想を利用したとみるほうが自然だろう。

つまり玄鳥は母の肉体・生命と同時に、母の魂・死をも象徴する2義的な存在なのである。そう設定することによって、読者は

1)梁上のツバメ(のどの赤い=肉体の象徴)から
2)地上の母へ、
3)床上の死にたもう母から
4)再び梁上の玄鳥へ(黒い鳥=魂の象徴)

へ視点を移すことで、連続的に臨終前後のイメージを浮かび上がらせることができるという仕組みだ。

そして母が死に切ると同時に、ついに玄鳥は梁を離れて飛び立つのである、死の国に向けて。

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