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エルフェンリート

エルフェンリート 12 (ヤングジャンプコミックス)エルフェンリート 12 (ヤングジャンプコミックス)
(2005/11/18)
岡本 倫

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究極のヤンデレといえば、やはり、にゅうにゅうwこと、ルーシィだろう。「未来日記」の由乃も名高きヤンデレ女王だが、殺害したのは高々数十人。対してルーシィは数千とも数万とも。

何しろ近寄っただけで、首や胴体が千切れ飛ぶというのだから、桁違いの殺傷力だ。その上致死ウィルスのキャリア、核弾頭なみの破壊力をもつのだから、恐れ入る。

しかしその素顔は心優しい女の子、という作者のあざとい計算にうかうかとノせられてしまうと、涙涙の荒波に転覆させられてしまう。実際、「ハンター×ハンター」の作者はこの漫画に影響されて、漫画を描けなくなったという。

なんというか、被差別者の心理描写が巧みなのだ。簡単にいえば、角が生えているというだけで差別され、実験台にされた少女たちが、その復讐をしようとする話なのだが、結局復讐は果たせないで終わる。

それは彼女たちは実験台にした相手を恨んではいるものの、同時に愛されたいと願っているからであり、その希望が殺害をためらわせるのである。



この物語には、基本的に極悪人は登場しない。人体実験を繰り返していたマッドサイエンティスト蔵馬も、人類を守るためにしたのであり、自ら進んで非道を行っていたわけではない。人類を滅ぼそうとしていた研究所所長も、自らの娘だけは犠牲にすることができなかったし、凶暴な暗殺者もまた、少女ナナとの繋がりによって心を改めた。

そこには、「救い」が残されている。

その救いを求めて少女たち(ナナやルーシィ、マリコ)は手を伸べるが、冷たく拒絶されては憎悪をかきたて、救いの相手(父や主人公)を殺そうとするが、結局憎み切れない。

その愛憎の絡まりは、最後には少女の、相手を守ろうという自己犠牲によって終わることもあれば(ルーシィ、マリコ)、相手に受け入れられて救いが成就されることもある(ナナ)。

いずれにせよ、これは被差別者の愛憎と葛藤、そして救いを描いた物語ということができる。

作画的には非常に稚拙で、どれも同じ顔に見えたり、他の漫画家のパクリ?が見えたり、作画崩壊が頻繁に見られたりするが、シナリオ的にはよく練られている。


欧米やイスラム社会では、救いは神によってもたらされるが、日本では「人」によってもたらされる。人間集団の中で、暖かく迎え入れられたい、自分の居場所を見つけたい、というのが彼女たちの願いであり、その願いは日本的である。

というのは一神教社会の場合、願いは自己を超越した大願に自らをゆだねること、が多いからだ。ニュートンが万有引力の原理を発見したり、アポロが月を目指したりしたもの、その企ての背後に神を感じ、それに自己投入することで救われると信じるからである。

実は、そのような宗教的な救いは、「エルフェンリート」にも登場する。「現人類を絶滅させ、新人類の種をまく」、という所長の夢である。自らを超越した大それた夢、というのは正しく神を目指す企てであろう。「鬼」として差別されてきた所長は、この夢を成就させることによって、蜘蛛の糸をよじ登ろうとしたのである。

しかし、作者はそのような救いを否定し、所長は最終的に娘への愛によって救われる。


愛と書いたが、厳密には愛というより、思いやり及び、思いやりを受け入れる相手の存在、つまり「居場所」が、救いなのである。その意味で、物語の舞台が主人公の家「楓荘」で終始するのは大きな意味がある。

つまり、日本人の救いはイエにある、ということだ。

虐待によってイエを出たもの、殺害によって家族を失ったもの、人間ではないがゆえにイエを持たぬもの、がより集まって擬似家族「楓荘」をつむぐ。しかしそれは擬似であるがゆえに崩壊してしまう。そして、登場人物らはあるいは死に、あるいは真の家族になることで、救いが成就する。

そこには、日本的な救いの限界が露呈している。人と人の触れ合いによる救いは、安定的ではないからだ。それが安定するのは血縁関係による「家族」に昇華したときのみである。

マザーテレサやナイチンゲールが何十年もの献身的な奉仕活動を続けて来れたのは、人の後ろに神の姿を見ていたからであり、人が人だけを見て献身を続けるのは、むずかしい。日本でルームメイトや共同生活がはやらないのには、それなりに理由がある。


神をもたぬ日本の風土のなかでは、イエをもたぬものは、救われない宿命を背負っている。

昨年、秋葉原で大量殺人事件が発生したが、加害者もまた、イエから追われた青年であった。彼はネットに居場所を見つけようとしたが、そこでも追い出され、詰まるところ、ネット住民が多くたむろするであろうアキバの通行人を殺して回るという凶行に出た。

その姿は、次々に殺人を犯していくルーシィにかさなる。

ルーシィが救いを求めて殺戮を行ったように、青年もまた、愛を求めて、愛されたいがためにアーミーナイフをふるったのだろう。

血しぶきのなか、それでもなお救いが具現しようという場合に、はじめて悪人正機の教えが意味をもつのである。


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