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足利事件

足利事件。おそらく冤罪として、日本の犯罪史・裁判史に残るであろう事件だが、日本人の科学信仰と、司法信仰に風穴を開けた点が、印象に残った。

科学を生まなかった土壌をもつ日本では、科学に対する絶対的な信仰がある。南氷洋でクジラの数が増えていると調査隊が報告すれば、それをウノミして捕鯨を再開しようとしたり、温暖化が二酸化炭素のせいだ、と言われれば、その通りとせっせとCo2削減に血道をあげる。

しかし鯨数も温暖化もその調査は科学的であり、科学である以上限界がある。科学調査はサンプルで済ませるが、サンプル=全体という保証はないし、調査結果が未来永劫にわたって続く、ということも言えない。

あくまで鯨は増えている可能性が高い、温暖化はCO2が原因と考えられる、という程度にしか過ぎず、そこには常に一定の「留保」が残される。

だから科学という劇薬を生んだ欧米では、その留保を考慮に入れて、「確かに調査ではクジラは増えているが、間違っている可能性もある。捕鯨再開を許した後で、調査が間違っていると分かったら、クジラは絶滅してしまう。だからもう暫く様子を見ましょう」、とする意見が支配的だ。

(日本では、「欧米人はヒステリックに捕鯨文化を目の仇にしている」、「グリーンピースが悪い」、という極論ばかりが跋扈し、この辺りのロジックはきちんと理解されていないし、理解しようともしていない点に、危うさをかんじてしまう)


ひるがえって、DNA鑑定においても、科学的である以上、限界がある。特に足利事件当時、DNA鑑定の精度は低く、誤っていた可能性が高い。しかし裁判官はおろか、弁護人までそれを絶対視するに当たって、菅家氏の有罪は避けようもなかった訳である。

二審では新たに結成された弁護団がDNA鑑定のやり直しを求め、日本大学に依頼し、「犯人のDNAと菅家氏のDNAは異なる」、という鑑定結果を提出していた。97年のことであるが、それが認められるには、実に10年以上の月日が必要だったのである。

鑑定は絶対的とし、再審請求を門前払いしてきた裁判所の罪は重いと言わざるを得ない。

菅家氏を自白に追い込んだ栃木県警は過ちを認め、謝罪に応じたが、司法当局は応じるどころか、同じようにDNA冤罪の可能性がある事件の死刑執行を敢行。日本の裁判所は検察、警察と馴れ合っている、という批判を実証することとなった。

また痴漢裁判でも、「疑わしきは罰せず」の原則が守られず、実質上、起訴されたらおしまい、という「魔女裁判」がまかり通っていた状況が広く知られるにつれ、日本人のもつ司法信仰も揺らいできた思いだ。


補1)自分が死刑に反対するのも、日本ではこうした司法の硬直性があるからであり、無実の人が処刑されるという危険性が、じつは一般に考えられているよりも多数存在すると、思われるからだ。

補2)足利事件では、菅家氏を「小児性愛者」「性的倒錯状態」、などと鑑定した心理学者の責任が問われ、起訴されている。これは、「アダルトビデオ」を大量持っていた、「幼稚園」バスの「中年」運転手というキーワードから、当の学者が妄想したものと思われる。

ただ心理学というのはそういう限界があるし、彼の鑑定能力を責めるより、彼が警察や裁判所の「空気を読んで」異常者鑑定を下してしまった、その「過剰な察知能力」こそが、責められるべきものだろう。

一般に日本人は、空気を読むことに焚けているが、真実を読むことは、余り上手ではないが、これが足利冤罪の遠因となっている気がする。

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