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中央大学教授殺害事件

今年(2009年)一月、中央大学の教授が殺害された事件で、容疑者が逮捕された。

逮捕されたのは、教授の研究室に在籍していた卒業生で、愛憎 研究活動のもつれから、殺害に至ったのらしい。

被害者は滅多刺しにされており、そこから強い怨恨をもつ容疑者--教え子が犯人との憶測が浮かんだわけである。

もっともこのような校内でのトラブル、パワハラは、珍しい事柄ではない。

問題の背景としては、大学教授は卒論や修論、博士論文の審査権をもっており、言うなれば生徒の生殺与奪をにぎる「独裁者」だ、ということがあげられる。

そのような独裁者に文句があっても、生徒側は泣き寝入りするしかなく、勢い暴力沙汰に発展してしまうのである。

本来は学校側が教授と生徒の間に立ってトラブルを仲介すべきなのだが、日本の学校というものは役所のようなもので、単にハコと予算だけを用意し、あとはノータッチ、というのが普通である。下手すれば教授の言い分だけ聞いて、生徒に過酷な処分をくだすところも少なくない。

その結果、徒弟制度のような教育が今なお罷り通っているのが現状だ。これを解決するためには、やはり学校が救済者として、積極的にトラブルを仲裁すべきだろう。


また今回の事件は理工学部で起きたが、一般にトラブルは文系学部より、理工学部で起こりやすいといわれている。

それは、世界的な競争にさらされている理工学部の研究ノルマはきつく、有形無形の心労が関係者にかかるからだろう。

かてて加え、理工学なひとびとは世間にうとく、人間力がよわい。教授は教授で何気ない自分の仕草がどれほど生徒を傷つけるか知らないし、生徒は生徒で己の行動がどれほど非常識なものか認識できない。

大学では1,2年のときに幅広い教養を身につけることで、このような非常識さを払拭することが期待されているのだが、理工学部の場合、根底に「研究至上主義」があるので、研究と直接関係のない教養は「邪悪」なものとみなされ、形骸化しがちである。

もちろんセミナーや合宿などのイベントもおこなわれるが、そこでもまた、研究がいかにすばらしいかを鼓舞されるだけなので(ほとんど宗教w)、ゆがんだ教授に生徒が量産されてしまうわけである。

この原因をさぐっていくと、ひとつには日本特有の理系・文系という進路分けに問題があるようにおもう。そもそも人間は複雑で統合的な存在なのに、それを無理矢理10代のときからスッパリ分けてしまうと、色々きしみが生じてしまうのである。

○○学部、という堅く身動きのとれない枠組みに押し込める「単一専攻」より、いくつもの学部に同時に所属できるような「マトリクス専攻」が求められるゆえんだ。

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