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花のフィレンツェ~ボッティチェリ

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14世紀のペスト禍から百年を経て、人々が「死の舞踏」(*)の黴臭さに飽き飽きした15世紀、フィレンツェでは生を謳歌する新しい芸術が産まれようとしていた。

注)死の舞踏:死神や死人と人間がともに踊り、最後に墓場に誘われてしまうという、当時のペスト禍の状況をモチーフとした絵画。memento mori(死を思え)の表題とともに流行した。

確かにマザッチョの画風はすばらしいものではあったが、均整に過ぎ、そこに生の快楽を見て取ることはむずかしい。絵画というよりも幾何学的・写真的な印象さえある。(当時、写真と絵画、芸術と科学は未分離であった)

生の生らしさを描くことに成功した画家は、ボッティチェリである。



ボッティチェリは15世紀中ごろにフィレンツェに生まれ、ジョット、マザッチョの革命を受け継いだ上に、彼一流の官能性をつけくわえ、初期ルネサンスを大成した画家である。彼の絵画は未だ中世風のぎこちなさが残るが、その豊かな色彩や細やかな描写は、完全に中世絵画とは決別していた。

Botticelliというスペルから分かるように、その名はbottle(ボトル)と関係し、「小さな樽」をあらわし、あだ名である。先に紹介したチマブエもまた本名ではなく、「雄牛の頭」というあだ名。このことから、当時の画家の地位は、あまり高いものではなかったことがうかがえる。

ボッティチェリはフィリッポ・リッピの弟子として、フィレンツェ画壇に登場する。

現在ではむしろ弟子のほうで有名だが、リッピも当時はそれなりに著名な芸術家であった。もっとも著名なのは彼の芸術というよりは、むしろ彼の放埓な女性体験だったという。リッピの身分は一応修道士だが、身分にお構いなしに女性を遍歴し、その経験ををベースにした官能的な女性描写が得意であった。

ボッティチェリもその影響を受け、

Botticelli_Primavera.jpg

"Primavera (春)"のような、艶かしい傑作をものした。

この作品は連作「四季」の第一作で、「春」のほか、「夏」「秋」「冬」もあるが、「春」が最もルネサンス(新生)らしさを表現しているせいか、初期ルネサンスを代表する絵画として、たびたび引用される。

この絵はメディチ家のために描かれたものだが、メディチ家はリッピのパトロンであり、その弟子のボッティチェリも自然、メディチ家とつよい繋がりをもち、その庇護下に芸術活動をおこなった。

しかし15世紀末、修道士サヴォナローラがフィレンツェ市の独裁者となり、それまで市政を握っていたメディチ家が没落すると、ボッティチェリの絵画は精彩を欠くようになり、やがて筆を折るにいたったのである。


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NoTitle

フィレンツェにいって色々みると、「リッピも当時はそれなりに著名な芸術家」という印象は受けませんよ。イタリアでは今でも人気があり著名だから、あちこちで作品がみられます。ボッティチェリより数は多いんじゃないかなぁ… ただイタリア芸術はどれもこれもキリスト教的で聖書に関する絵ばかりだけど、ボッティチェリは明るい色調で、他者と作風が違うため眼にとまりやすいです。つまり優しい色合いが好きな日本人好みってかんじ。

NoTitle

やはり現地に行って見なければわからないもんですねw。イタリア人にしてみれば、リッピの方がよりストレートに現世を肯定していて、なじみやすいのかも。
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