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花のフィレンツェ~マザッチョ

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ジョットは1337年に死ぬが、その死後、14世紀後半のヨーロッパでは、黒死病が猛威を揮(ふる)う。

黒死病(ペスト)は、中央アジア原産と考えられていたが、近年、さらに研究がすすみ。四川から雲南にかけての地域の風土病という説が有力になっている。

この辺りは温暖で、氷河期には寒さを避けて動植物が集まったため、古生物が温存されており、茶や稲の原産地として知られている。

そしてペストも、どうやらそこが起源だったらしい。

このような風土病は、通常は地元での小流行を繰り返すのみに留まっているが、何かの拍子に外界に出ると、爆発的な感染に発展しやすい。エイズやSARS、エボラなどが有名な例であるが、中世のペスト大流行は、モンゴルの雲南侵略が遠因だったようだ。

それまで雲南には大理国が栄えていたが、中国を統一したフビライに降伏。雲南はモンゴル帝国に組み込まれる。

モンゴル帝国は挑戦半島からヨーロッパに至る長大な交易路を管理しており、それを伝ってペストが雲南から中国、中央アジア、そしてヨーロッパに上陸することになる。



ペストの猛威は凄まじく、ヨーロッパ全体では1/3の人口が失われたという。

現在の新型インフルエンザが、致死率50~70%という勢いで広まったのだから、最早絵を描いている場合ではない。何しろ人口の半分が失われた地域もあったわけで、とても芸術どころの騒ぎではない。

いちおう細々と絵画は続けられたものの、ジョットの革命は忘れ去られ、むしろ以前の中世的で、敬虔な宗教画の時代に戻った節さえあった。

その状況を一変させたのが、マザッチョである。

マザッチョはペストの惨害も、漸く昔語りになった1401年に生まれ、若くしてサンタマリア・ノヴェッラ寺院の壁画を任されるなど、フィレンツェを舞台に活躍した。

マザッチョはジョットの3次元描写をさらに進化させ、初めて透視図法を絵画に取り込んだ。それまでに遠近法を使った画家がいなかったわけではないが、厳密に、科学的に使用したのはマザッチョを嚆矢とする。

キャンバスの一点に釘を打ちこみ、そこを中心に放射線を何本か引く。すると、釘を消失点とした、透視図の骨組みができあがる。あとは線を目印に、正確な縮尺比率で風景を描けば、透視図が完成する。

マザッチョは、この技法をブルネレスキから学んだという。


ブルネレスキは15世紀初頭、フィレンツェやローマを舞台に活躍した大建築家で、サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花のマリア)大聖堂などを設計した人である。その影響を若きマザッチョも受けたのである。

ブルネレスキはローマに滞在したおり、コロセウムや列柱建築に代表されるローマの空間技法を学び取った。

雑多な要素や部分を寄せ集めることで構成された中世建築に比べると、古代ローマの建築は大胆に空間を切り取ることが多く、それに触発され、次第に彼は空間を統一的なプランでまとめあげる設計図法の研究にのめりこんでいく。

彼に示唆を与えたのが、同時代の幾何学者トスカネリである。トスカネリは地図法の研究で有名であるが、空間という3次元を、二次元化する数学的手法の第一人者であった。

彼から教えを請うたブルネレスキは、透視図法のアイデアを得て、サンタ・マリア・デル・フィオーレの設計などに利用したのである。

そして彼にまねてマザッチョも、自分の絵画に透視図法を応用してみたわけである。その結果は、たとえば下の絵画

masa.jpg


に如実にあらわれている。CGのように厳密に直線で描かれた家並みは画期的で、それ以後の西洋絵画の方向を決定付けたと言っても過言ではない。ダヴィンチからドラクロワまで、いや現在の漫画に到るまでの透視図法は、マザッチョによって切りひらかれたのである。


もっとも、単に透視図法を用いた、というのなら良くある若人の新しいもの好き、で話は終わったろう。マザッチョが巨匠として名を残しているのは、技法だけでなく、人物の描写にも芸術性が見られるからだ。

実際、顔の表情をみると、ぐっと現代風の描写に近づいている。この絵画を19世紀のものだ、として紹介しても、さほど疑われることはないだろう。

その意味で、マザッチョの技法、精神性は、すでに近現代人のものに迫っていたのである。


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テーマ : art・芸術・美術
ジャンル : 学問・文化・芸術

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