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花のフィレンツェ~暗黒時代

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屈服したエトルリアには、ローマ人が進出してくるが、彼らによって建設された都市のひとつが、Florentia(フロレンツィア:「花の土地」の意)である。

この都市はシーザーが、彼に従ってきた軍人の退役後の居住地として、アモ川のほとりに計画されたもので、軍事基地と同じ様式で造営された。

その地が選ばれたのは、花が咲き乱れるほど土地が肥沃だったことに加え、カッシア街道の通り道に当たっていたからだが、そのかいあってフロレンツィアは順調に発展を続け、3世紀にはトスカーナ地方の中心都市となるまでに成長した。

5世紀にローマが滅びると、フロレンツィアは東ゴート王国の支配下におさまるが、その支配は長続きせず、やがて勢力を盛り返した東ローマ帝国が支配するようになるが、それも不安定で、この都市をめぐって何度も攻防戦が繰り広げられた。

戦乱の影響で都市の人口は千人を数えるほどに激減。フロレンツィアは、トスカーナ地方の1寒村にまで落ちぶれてしまう。

その戦乱が収まるのは、6世紀にロンバルド族が建国してからである。ゲルマン諸族のうち、最後に移動を行ったロンバルド族は「蛮性」を多分に残しており、強力な軍事力で北イタリアを支配。フロレンツィアはその支配下で、ようやく平和を享受できるようになった。

しかしその支配も恒久的なものではなく、やがてロンバルド王国は、北方に勃興したフランク王国と反目。遂に8世紀、フランク王カール大帝は遠征軍を催し、アルプスを越えてロンバルドを制圧。フロレンツィアもフランク王国に組み込まれることになる。

だがそのフランク王国も9世紀には分裂し、北イタリアとドイツが「神聖ローマ帝国」として再統合されるのが10世紀である。


神聖ローマ帝国の領土はイタリアとドイツにまたがっており、その皇帝の即位には、ドイツ諸侯とローマ法皇の同意が必要だった。

そのためローマとドイツの中間地帯にあたる北イタリア諸都市では、ドイツ皇帝派とローマ教皇派に分かれて内部抗争を繰り返していたが、フロレンツィアも例外ではなく、13世紀を通して、騒乱が絶えなかった。

ただこの騒乱は貧困から生まれたものというより、豊かさの結果でもある。

古代ローマ帝国の崩壊から神聖ローマ帝国の成立までは、ゲルマン諸民族の侵入もあって、悲惨な暗黒時代が続いたが、10世紀までにはゲルマン族の動向も落ち着き、ヨーロッパの封建制度はそれなりに安定期を迎える。

戦乱が終わって人口が増大し始めると、その労働力を利用して開墾が盛んになり、そこから食糧増産がもたらされると、さらに人口が増えるという好循環が生じた。

人口増は十字軍の遠征をも可能にし、軍隊や糧食を東西に運搬する必要性から、流通が活発化し、ローマ以来途絶えていた貿易、広域商業も復活した。

このような経済力の向上は、往々にして新興勢力の台頭と、それを抑えようとする保守勢力との間の葛藤を招く。日本では平安後期の大開墾から武士という新勢力が生まれたが、それと同じように、北イタリアでも経済力向上を背景に、都市民の政治力が向上。自治を求めて支配層と争い始める。

もともと北イタリアはフランク王国、そしてそれを引き継いだドイツ皇帝の領土であり、支配層は皇帝派が多かった。そのため都市民は、新たに法皇の権威を利用して、これと対抗するに至ったわけである。


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