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花のフィレンツェ~エトルリア3

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エトルリア人は、ローマ北方の土地に住み着いたため、後にその地を「トスカーナ」と呼ぶようになった。

エトルリアとトスカーナではかけ離れているように聞こえるが、エトルリア人は、ラテン語では"Etrusci(エトルスキ)"または"Tusci(トスキ)"といい、その土地という意味で、"Tuscana(トスカーナ)"と発音されたのである。

エトルリアは前6世紀には都市国家を作り、前5世紀にはその勢力は北はアルプス、南はローマにまで達した。ローマ初期の王はエトルリア人だったと言われ、建国まもないローマは、エトルリアの支配下におかれていた状況がうかがえる。

しかしイタリア南部にはギリシャが、地中海にはカルタゴが勢力を広げており、それらと覇権を争う間に足元・ローマが離反。やがてそのローマに逆征服されるという事態に陥った。

エトルリアはギリシャ的な、都市国家連合を築いていた。そのような連合体は外敵にはつよい反面、外敵が去ると、今度は主導権をめぐって合い争って自滅することがおおい。

ギリシャのポリス連合は、盟主アテネと軍事大国スパルタが闘いあった隙をつかれて、北方に勃興したマケドニアに滅ぼされてしまうが、丁度エトルリアとローマも、そのような関係にあったらしい。

もっともエトルリアはカルタゴのように徹底的に滅ぼされたわけでなく、その住民はローマ市民権を得るなど、ローマの中に吸収されていった。

たとえば英語の"auspice(占い)"の原義は「鳥占い」で、鳥や獣の動向を見て、吉兆を占うというものであったが、これはもとをただせば、エトルリア人の占いの習慣であった。(エトルリアの占術がラテン語に入り、後に英単語になったわけである)

鳥占いだけでなく広く宗教や、優れた建築術などの文化もまた、ローマ文化の中に受け継がれていったのである。


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