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花のフィレンツェ~エトルリア2

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エトルリアが小アジア出身というもう一つの傍証は、その言語にある。

ヨーロッパの真ん中にありながら、エトルリア人の言葉はインド・ヨーロッパ語族ではなく、孤立した言語となっている。

もちろん言語と民族は同一ではないが、エトルリア語がインド・ヨーロッパ語族でないという事実は、その使い手がインド・ヨーロッパ系民族ではないという可能性を示唆している。

もっとも言語が違うだけでは、エトルリア人が外来民族だとは言えない。逆に、ヨーロッパの先住民だという可能性もある。彼らはクロマニヨン人の直接の子孫で、氷河時代からイタリアに居住していたという可能性だ。

実際、帝政ローマ期の歴史家・ディオニュシオスは、エトルリア人が元々そこにいた先住民だと記している。

似たようなケースに、バスクがある。

バスク語はやはりヨーロッパにおける孤立語として有名だが、DNA分析などの結果から、その使い手であるバスク人は古ヨーロッパ人だろうと推測されている。

これと同様に、エトルリア人の原住民説もあるわけだ。文献だけだと、邪馬台国論争のように賛否両論があって、どちらが正しいかは分からない。


そこで考古学の出番になるわけだが、エトルリア人の住んでいたトスカーナ地方の墳墓を調査したところ、初期の段階で、埋葬様式が変化し、埋葬品に舶来物が多くなることが分かった。

これは、この地方に外来文化が流入したことを示しているが、古代においては、そのような流入は往々にして、人間集団の移住を伴っていた。つまり、エトルリアの歴史の早い段階で、外来集団がやってきた可能性がたかいわけである。

まとめると、紀元前千年以前のヨーロッパでは、クロマニヨン人の子孫とおもわれる古ヨーロッパ人が栄えていた。バスク人やブリトン人、そして古エトルリア人は、その仲間である。

しかしその後、東方から新たに外来民族が押し寄せて、イタリアの地にも、小アジアからリディア人がやってきて、古エトルリア人を征服・混血した結果、紀元前7世紀には「新エトルリア人」が誕生。そして余勢を駆って、イタリア全土に勢力圏を拡大した、というシナリオが描ける。

このようなシナリオは、ヘロドトスの外来説とも、ディオニュシオスの先住民説とも矛盾しないし、そもそもヘロドトスの記述をよく読むと、リディア人の集団が「既に他民族が割拠していた地を避けて」、新たに町を作った、とある。

つまり、移住リディア人の周りには、先住民が住んでおり、リディア人はその先進的な技術や統治法を駆使して、彼らを徐々に征服していったのでは、ないだろうか。


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