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泪橋

「この橋はな、人呼んでなみだ橋という。いわく人生にやぶれ生活に疲れはててこのドヤ街に流れてきた人間たちがなみだで渡る悲しい橋だからよ。
 ……
だが今度はわしとお前とでこのなみだ橋を逆に渡り、あしたの栄光を目指して第一歩を踏み出したいと思う」

ご存知、「あしたのジョ-」の名場面だが、この泪(なみだ)橋はもう存在しない。川自体、暗渠化されて、地上から消えているからだ。ただ「泪橋」の名前だけは、ぽつりと近くの交差点に残されれている。

東京には、泪橋の地名が二つある。一つは千住・泪橋、もう一つは品川・泪橋だ。千住、品川、ともに処刑場があったことから、生死の「別れの泪」の意味で命名されたらしい。


かつて、処刑は再犯防止や「娯楽」のために、見せしめとされた。そのために刑場は多くの人々が集まる市場や宿場で行われた。そこで品川・千住という、江戸の二大宿場町に仕置き場が設けられたのである。

品川は東海道の第一宿場、千住は日光道中の第一宿場で、明治になってもその賑わいは衰えず、品川には東海道本線が通され、工業化が始まる。京浜工業地帯の嚆矢だ。

一方、千住にも隅田川の水運を利用した工場が、続々と建設された。なかでもカネボウ(鐘紡)は有名だが、この社名は「鐘ヶ淵」紡績に由来する。

鐘ヶ淵、というのは千住の隅田川をはさんだ向こう側。東京東部の二大河川、隅田川・荒川に挟まれた地区で、淵に鐘が沈んでいるという伝説があるほどの、水郷だ。

既に明治の中ごろから鐘紡工場が開かれ、のちには久保田鉄工や鐘ヶ淵スチールなどの大工場を筆頭に、無数といっていいほどの中小工場が存在していた。「お化け煙突」で有名な千住火力発電所も、この付近にあった。

戦争で発展は一時頓挫するが、日本経済の復興とともに再興。高度成長期にはピークに達する。

工場労働の職を求めて、農村から労働者が殺到したが、千住は常磐線の要衝に当たることから、主に東北地方からの出稼ぎ・日雇いが上京。南千住地区には彼らの住む簡易宿泊施設-ドヤ-が形成された。その場所を「山谷」といい、東京はおろか、日本でも1,2を争う大規模なドヤ街であった。

ジョーたちが住んでいた「ドヤ街」は、その山谷地区であった。


宿(ヤド)を逆さに読んで、ドヤ。

元々は、「木賃宿」がルーツといわれる。宿場には「旅籠」と言うれっきとした旅館があったが、その宿泊費(現在価格で5千円ほど)が払えない客もあり、そういう人は木賃宿に泊まった。

木賃宿は燃料の薪代(=木賃)だけ徴収するという、激安な宿泊施設だったが、食事も寝具も出ず、客は自分で食事を作って、広間でごろ寝するだけだったという。

千住宿の南外れは「浅草山谷町」といい、浅草寺、吉原、刑場、隅田川に囲まれた場末。そこに木賃宿が立てこみ、貧困層の宿として知られるようになったのは、かなり早くのことらしい。

宿場制が廃止された後も、山谷は明治・大正の繁華街たる浅草の裏町として、木賃宿が錯綜していたという。


その伝統をひくドヤ。「ジョー」の時代は昭和3、40年代だが、当時は一泊2、3百円、今でも1,2千円で宿泊ができるのだが、泊まる人は少ない。なぜなら、工場自体、ほとんど無くなってしまったからである。

元々、隅田川工業地帯は中小企業が多く、労働環境は決して褒められたものではなかった。そのため高度成長が一段落すると、工場の発展は停滞してしまう。

それに甥打ちかけたのが、東京都の発した工場等制限法(昭和34年)であった。これによって大工場は拡大を制限され、鐘紡工場などはそれを嫌って移転してしまう。

そもそも東京のような大都市に、工業地域が隣接しているのは公害などの問題があり、移転は時代の要請であった。隅田川工業地帯だけでなく、京浜地区の工業地帯も、当初は品川にあったものが、次第に沖合いの埋立地に移転していく経過を辿った。

しかし移転後にも、京浜地区の中小工場は蓄積された技術を利用して生き残ったのに対し、雑貨製造が主だった千住地区では大した技術も蓄積されず、中小工場はそのまま廃業の一途を転がり落ちて行く。


実際、この辺りを歩くと、道幅は無駄に広いのに、商店がやたら少ないことに気づかされる。

南千住駅から南下していく大きな通りは「住吉通り」。かつての奥州街道だが、歩行者自体、余りいない。

実は住吉通りは、かつての奥州街道。奥州街道は、日本橋から北上し、蔵前、浅草橋、浅草寺を経て、住吉通りに入るのが本来のルートだったが、奥州街道が住吉通りから昭和通りに付け替えられたため、交通量が激減。二級道路に格下げされた。

もっとも、住吉通りだけでなく、国際通りなど、浅草から千束、南千住の界隈は、東京にしては非常に寂れた地区である。東洋一の繁華街と謳われた浅草六区は、今ではさみしげな遊園地があるばかりだし、不夜城・吉原はその名を歌舞伎町に渡し、人目を盗むようにして風俗店が並ぶのみ。

江戸の地図を開いてみよう。江戸城大手門の東側は日本橋であり、商業の中心地だった。その商業地は、江戸の物流の主役であった隅田川を遡って蔵前、浅草まで伸びる。浅草には浅草寺があり、寺といえば歓楽街が付き物だったため、浅草は江戸の一大歓楽センターとして発展する。

そして歓楽に欠かせない春街-吉原-も、浅草の北側に作られた。その北が山谷木賃宿、そして奥州街道をそのまま北上すれば千住宿に到る。そういう風に江戸城の東北部は作られていた。

お城にも日本橋にも近く、浅草寺、吉原と遊び所にもこと欠かない。そのため浅草とその界隈は大変な賑わいを見せ、東北本線、東武・京成がこの地区をターミナルとしたのも当然と言えば当然である。日本初の地下鉄・銀座線も、浅草が出発点だったのだ。


浅草商人の計算がずれていくのは、震災と戦災である。

大正12年に関東を襲った大震災は、浅草を根こそぎ焼き尽くし、日本初の高層建築だった凌雲閣も崩壊した。

復興は迅速に行われたものの、生憎人間の欲望は一時も抑えられないようで、東京府民は歓楽を求めて震災の被害が少なかった神楽坂や渋谷、新宿へ移っていく。

浅草も負けじと、江戸時代から引きずる町並みが軒並み消失したのを機に、仲見世は真新しい鉄筋コンクリートに変貌、感染道路は3、40mまで拡張される。現在見る浅草の、ごみごみとした横丁が多い割りには、広々とした直線的な道路、という組み合わせは、この時に作られたものである。

しかし時代はそのような浅草人の努力をあざ笑うかのように、また空襲という災害をもたらす。

戦争が終わった後も、浅草は奇跡の復興を遂げるが、その時には既に中心地は、池袋・新宿・渋谷という東京西部に移っていた。


浅草の衰退理由は、住民の既得権が強すぎ、大規模な再開発ができなかったこと、保守化が進み、新進先取の気風を失ったことなど、幾つか挙げられるが、最たるものは、その立地の悪さだろう。

浅草の東はすぐに隅田川であり、それを渡って市街を拡張しづらい。現に東武鉄道浅草駅は隅田川がネックになって延長ができず、6両編成の電車しか入線できず、実質上のターミナルを北千住などに譲ってしまっている。

川を越えて無理に拡張しても、さらに荒川・江戸川が待ち構えており、その向こうは住宅地としては人気の落ちる千葉県に入ってしまう。

これは背後に東京都下や川崎・横浜という広大な新開地を抱える新宿、渋谷との大きな違いであった。

さらに山手線から離れているのも、浅草の決定的な弱点であった。東京の交通網は山手線を中心に整備されており、そこから取り残された浅草の衰退は必然でもあった。


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