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Paper Moon

ペーパー・ムーン スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]ペーパー・ムーン スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]
(2004/02/20)
ライアン・オニールテイタム・オニール

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大恐慌時代、未亡人に聖書を売りつける詐欺男Mozesと、その娘かもしれない少女Addieとのコミカルで、ペーソス溢れる道行。

9歳の小娘でありながら、「父親」を上回る機転と度胸の持ち主で、少女は詐欺商売を切り盛りするうちに、父親と親しくなっていく。だが父のほうは淫売女にのめりこみ、身を持ち崩していく。見るに見かねて少女は一計を案じ、淫売女を追い出す算段をする・・・

監督はピーター・ボグダノヴィッチ。70年代初頭、彗星のように現れて、「ラストショー」「おかしな大追跡」で人気監督となり、「peper moon」は散策目で、これもヒット作となった。

カンザス、ミズーリといった中西部を旅する中年男性と少女。これだけでも充分にコ惑的な上、全編モノクロ撮影。これによって、郷愁的なimpressionが盛り上げられ、アメリカ人の琴線をくすぐった。公開当時は大恐慌から40年も経っておらず、50代以上のアメリカ人なら、リアルタイムな感覚でこの映画を追体験できたに違いない。

これにアメリカ映画らしいコミカル性、ショートドラマが付け加えられて、ヒットしないはずが無い。実際、この映画は年間興行成績トップの記録を残した。


タイトルにもなった"Paper Moon"だが、これは当時流行した紙製の三日月の撮影セット。この三日月の上に座って記念写真を撮るのだが、移動遊園地などの定番アトラクションであった。

移動遊園地というのは、地方を巡回する遊園地のことで、サーカスの一種と思えば良い。サーカスでは芸人が芸を見せてお金を取るが、移動遊園地ではその代わりにアトラクションでお金を取るわけだ。

そのアトラクションは、ローラーコースター、観覧車、メリーゴーランドなどがポピュラーであるが、終了後は荷造りして移動しなければならないので、いずれもこじんまりと小さいのが特徴。

(丁度、東京浅草にある「花やしき」のアトラクションとよく似ている。花やしきは、日本最古の遊園地と言われ、半世紀以上続いているアトラクションもあり、その意味で「Paper Moon」の時代に通じるものがあるのだろう。)

携帯式だから、あまり良い設備でなく、古びてガタが来ているのが多い。観覧車に乗ったりすると、あまりに振動がひどくて恐怖さえ感じることもあるのだが、却ってそこに郷愁を感じるアメリカ人も多い。


しかし、原作には"Papaer Moon"のシーンはない。実は「Paper Moon」のタイトルは、30年代当時の流行歌"It`s Only a Paper Moon"から、監督が取って付けたもの。原作は"Addie Pray"だから、断然、引き締まった題名になっている。この監督のセンスには脱帽だ。

Paper Moonという遊園地のアトラクションから、浮ついた楽しさ、見せ掛けの家族関係という、「にせ父娘の詐欺生活」を象徴的に浮かび上がらせている。

もっともそのシーンはほんの一瞬で、映画の中に挿入されているだけにしか、過ぎない。過ぎないが、その一瞬が、作品の全てを、いや全て以上を決しているという数少ない例の一つである。

似たような作品に、「ガラスのうさぎ」という小説がある。この本も、ガラスのウサギが出てくるシーンは数ページでしかないが、それによって戦争の悲惨さ、生命のはかなさを、きわめて印象的にあぶりだすことに、成功している。


原作からの変更点は、他にもある。原作では舞台は南部になっているが、監督はそれを中西部に変えた。

原作が南部なのは、作者が南部出身だからだろう。作者ジョー・デヴィッド・ブラウンは雑誌「TIME」の記者を長年勤めた後、71年にこの作品を書いて、5年後に没した。享年61歳。だから、この作品を書いていた時点では作者は50代で、ちょうど、主人公Mozesと重なる。

しかし、監督は南部の風景は、この映画には多情すぎる、と判断したらしい。彼は、この映画でもっと乾いた親子関係を表現したかった、とインタビューで述べている。

「AddieはMosesを愛していただろう。しかし、Mosesは分からない。どちらかと言えば、愛してなかったんじゃないかな」、とまで言ってのけている。

AddieもMosesを愛してなければ、二人の関係は単なるビジネスでしかない。大人に頼るしか生きる術のない孤児と、いたいけな少女を商売に利用する詐欺男との冷酷な関係。

もちろん、そんな関係を監督は描きたかったわけではないだろう。ドライでありながら、その裏にはウェットな心情、本当の親子でありたいとする心情が、Addieの態度から見え隠れする。それにほだされて、Mosesも次第にAddieに近寄っていく。

ただ、たぶん、二人は日本的な意味での「親子」にはなれないだろう。Mosesは心のどこかに空虚さを抱えており、その空虚はAddieでは埋め切ることはできない。ただ広大で寒々とした中西部の風景だけが、埋めることができる。監督が中西部を舞台に選びなおしたのは、その点を感じ取ったからに他ならない。

そして、そのような本質的に冷徹な男に、楽しく細やかな親子の愛情を求めようという、Addieの試みもまた、はかない虚偽の「Papaer Moon」であり、おそらくは、Addieの行く末を予言してもいるように思われてならない。


ちなみに本作品の後、主要人物が全て不運に見舞われたのも、決して単なる偶然ではないのかもしれない。

Mosesを演じたライアン・オニールは良作に恵まれず。Addie役でアカデミー賞を取り、一躍スターダムにのし上がったテータム・オニール(二人は実の親娘)も、子役を脱し切れず、成人後は鳴かず飛ばず。

しかし何と言っても、悲惨なのは監督ボグダノヴィッチだろう。この作品以後、才能が枯渇したのか、その後、作成した映画は失敗続き。すっかりハリウッドから忘れ去られた映画人となり、私生活でも、愛人が元夫に射殺されるという劇的な生涯を送った。

彼らは、思うにPaper Moonという虚構の世界に、余りに深く足を踏み入れてしまったのだろう。そして虚構の中で、虚構の幸福にリアリティを感じてしまった瞬間、彼らはそれ以来、無意識のうちに、その「虚飾の幸せ」を人生に求めてしまうのかもしれない。

元来、幸せとは、空想を現実に結びつけ、足を地面につかせることで成り立つ営みだが、彼らの場合、むしろ現実を空想に気化してしまうことで、幸福感を感じ取るような心的枠組みが出来上がったように思われる。

それを象徴的に表しているのが、監督の二番目の妻だろう。ボグダノヴィッチは死んだ愛人の美貌が忘れられず(彼女は雑誌プレイボーイのモデルだった)、彼女の妹を引き取って養育し、後に結婚したのだが、その際、妹に整形をほどこし、姉とそっくりな顔にしたという。

彼にとっては、現実は嘘で、それを演出して作り上げた「映画」の方にこそ、真実があったに違いない。


だが映画の真実は、紙の月のような虚飾であることが、その映画の中で語られる。何と言うことだろう。映画の中にこそ真実はあり、また同じく映画の中に、そのような真実は嘘だ、とささやかれる。そのような錯綜した矛盾の中で、関係者らは幸福の立位置を見失い、不幸に陥って行ったのである。

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通りすがりのものですが、あの当時の1ドルって、いくらぐらいなんでしょうね?

> > 通りすがりのものですが、あの当時の1ドルって、いくらぐらいなんでしょうね?
>
> そうですね、映画中、聖書が$10~$20で売られていたので、現在の贈答用聖書の価格$100~$200と比べると、大体、現在の価格の1/10くらいでしょうか。
>
> 別ソースでは、アメリカのインフレ率は年3%とあるので、逆算すると、1930年代初頭は大体1/9。ただ、大恐慌のころはデフレが進行していたので、実際にはもっと価値は低かったでしょう。
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