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岡本太郎

渋谷に岡本太郎の壁画「明日の神話」が飾られることになった。

場所はJR渋谷駅と、マークシティを結ぶ廊下。足場を組んで、エスカレータを止めて工事をしていたかと思うと、意外に早く出来上がった。

壁画の正面には上階の通路があり、そこから全体像を見下ろせるので、立ち止まって写真を撮る人が多い。

仕掛け人は「アートの街、渋谷に岡本太郎を、と思って招致した」と言っているが、確かに渋谷に相応しい壁画であると言えるだろう。「アート」=ディレッタント、という意味においてだが。


芸術の街と言われる渋谷だが、「芸術」というには些か薄っぺらい。確かに町並みやそこを歩き過ぎる群集にパワーや奇抜さは感じないこともないのだが、それが芸術には昇華していかない。

(実際、渋谷にはライブハウスやギャラリーは多いが、本格的な本屋も図書館も存在しない。書物を読まずにして何の芸術か、と批判されても仕方がないだろう。)

そしてそのパワーや奇抜さと、岡本太郎は大いにマッチするのである。


岡本太郎。奇妙な人物である。

漫画家・岡本一平、歌人・岡本かの子の長男として、百年ほど前に生まれた。生地は母の実家、川崎市・高津区二子。今では東急田園都市線が走っており、多摩川を渡ってすぐ、「二子新地駅」の近くである。

もっとも当時は電車は通っておらず、田園都市線(当時は玉電)は手前の二子玉川駅で渋谷に折り返していた。多摩川を越える橋がなかったからである。

この路線は江戸と大山を結ぶ大山街道にあたり、江戸時代には「二子の渡し」として渡し場が設けられ、二子は宿場として繁盛を極めたという。かの子はそんな土地の大地主の家に生まれ、浮世離れした娘に育ったそうだが、その気質を太郎も受け継いだといえる。


夫婦は渋谷の隣の青山にアトリエを構え、漫画や短歌の創作に励んだが、世間知らずの芸術家カップルのこと、夫婦仲はあまり芳しいものではなかったらしい。それに加え、かの子は育児に興味を示さないタイプの芸術家であり、太郎は自由奔放に育てられたという。

それが祟って小学校にあがるも長続きせず、最終的に慶応義塾に落ち着くまで、何度も転校を繰り返した。

やがて父がフランスに転勤になると、太郎もついていき、そこで十年過ごすことになる。その間ピカソを知って、抽象画の世界に足を踏み入れる決意を固め、帰国後、シュールな作品を次々と発表する。

50~60年代を通して日本シュールレアリズム界の第一人者としての地位を確立した岡本は、次第に日本的なものに回帰し、縄文土器をピカソよりも優れていると評価するまでに至るが、その「和」な姿勢が、日本万博の美術監督に相応しいと判断されたことは、想像に難くない。

そしてそこにおいて設立した「太陽の塔」によって、その名を不動のものにするわけである。


・・・のだが、40年近く経た今から振り返ってみると、奇妙な印象をぬぐえない。それは形式主義的、伝統主義的な日本において、どうしてあのような型破りな岡本の画風が受け入れられたのだろうか、という疑問である。

岡本の絵画は単に既存芸術から見て珍妙であるばかりでなく、シュールレアリズムの文脈から見ても珍妙である。彼の抽象絵画は力はあるものの、逆に言えば力しかなく、その背後にある思想や芸術性が読み取りにくい。前衛芸術としては質が落ちる珍なるものである。

そのような劣悪な絵画が日本画壇に広く受け入れられたのは、皮肉にも彼が形式と伝統をまとっていたからだろう。

つまり一流の芸術家を父母に持ち、当時貴重だったおフランス帰り、そして時代の最先端を行くシュールレアリズム。これだけ形がそろっていれば、形式が好きな日本社会のこと、受け入れられない方がおかしいとも言える。

それに疑問を呈する人がいても、滞仏経験がない以上、逆に物事を知らないとして排除されるのが落ちでもあり、また前衛絵画という、いわば「ヘタウマ」なジャンルも、批評を困難なものにしただろう。

かてて加え、戦後日本は過去からの決別、時代の最先端なイコンを必要としていた。

最先端であり、かつ毛並みのしっかりしたもの。それが当てはまるのは岡本太郎だったわけである。


実際、渋谷駅の「明日の神話」を何度見てみても、名画から得られる興奮や深みが与えられない。これだけ大きな作品をしあげるパワーや形の珍妙さには感心しても、そこからは芸術性は感じにくい。

もちろん、芸術性というのはおよそ定義が不可能で、それについて議論しても水掛け論に終わることの多い厄介な概念である。であるが、その厄介さを承知で言うと、岡本の芸術には、「人間」が欠けている。

人間というのも難解な概念だが、ここでは世界との全人的な結びつき、というほどの意味である。一般に、芸術家はその身体や人格を通して世界と接触を保ち、作品をものすことで、その接触を純化・深化させる。

だから鑑賞者は絵の形や色使いだけを見て感動するのではなく、その絵の背後に、その作者がどう世界と関わったかという軌跡を感じ取って、恐れおののくのである。

たとえばゴッホの「星月夜」という絵がある。これは星や月の光が、まるで子供や近視者が描いたように大きく鈍く波打つように配置されているが、見る者に奇妙な感慨を与える。それはその絵を通して、見る者はゴッホが(描くことで)感じ取ったこの世界への畏れ、揺らめき、憧れといった根源的なものを、追体験することができるからである。

しかし、残念ながら「明日の神話」には、そのような高揚感は感じ取れない。

それは思うに、岡本がその表皮でもって、絵を描いていたからでは、ないか。これは不真面目という意味でなく、彼は真面目すぎるほど熱心に、作品に取り組んでいたとは思う。だが、そのエネルギーは単に爆発や珍妙さに向けられており、人間存在の探求には向けられなかったのでは、ないか。


たとえば「明日の神話」と良く似た絵に、「ゲルニカ」がある。両者とも戦争の悲惨さをモチーフとした絵画だが(前者は原爆、後者はゲルニカ空爆)、そこには歴然とした差がある。

一言でいえば、「明日の神話」は大人しく、「ゲルニカ」は破壊的だ。

両者ともシュールレアリズムの手法を採ってはいるが、前者はあくまでシュールの範疇、絵画の範疇で創作し、後者はそれを越えて、何かに迫ろうという意気込みが感じられる。

ピカソは絵画をむしろ手段に使って、戦争という原罪を告発しようとしたのに対し、岡本はむしろ戦争を手段に使って、自分の中の芸術を純化させようとした。つまり人間存在の芸術と、芸術のための芸術の差が、この両作には現れているのである。

芸術のための芸術、つまり芸術至上主義がまったく無意味と言うわけではないが、そこには限界があるのは明らかだろう。芸術は人間存在の深奥をたまさか揺り動かすことはあっても、それを永続的に動かすことはできないからである。

岡本が絵画を描いていたのは、自分の根源存在に突き動かされてと言うより、むしろ環境に影響されて、という面が大きいように感じる。漫画家である父や、青年時に過ごした画壇の中央・フランスによる影響をあまりに強く受けすぎた結果、岡本は芸術=世界、人間と誤解してしまったように思う。

そしてそのフランスから切り離された彼が、次第に芸術の動機付けとして、縄文という日本の伝統文化に魅了されるようになったのも、当然の成り行きだったのだろう。

その意味で岡本太郎は、ゴッホやピカソという正当な芸術家というより、芸術的なものの中に生息し、芸術を人間存在から切り離し、芸術のみを皮のようにまとった「dilettant」と言うに相応しい存在だったように思える。

そしてそのdilettant性こそは、彼が過ごした街、渋谷と通じるものが、あったのである。

テーマ : 絵画・美術
ジャンル : 学問・文化・芸術

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岡本太郎といえば、物心ついて最初に知った芸術家が彼かもしれません。近くに“鳥のおばけ”のような太陽の塔があって、なんだこれ?と不思議に思ってみてました。だから大人になっても私はピカソが好きなのかも… そういや「げ、芸術は爆発だ!」と目を剥いて叫んでた挙動不審なおじさんという印象も残ってます。

Re: タイトルなし

> 岡本太郎といえば、物心ついて最初に知った芸術家が彼かもしれません。近くに“鳥のおばけ”のような太陽の塔があって、なんだこれ?と不思議に思ってみてました。だから大人になっても私はピカソが好きなのかも… そういや「げ、芸術は爆発だ!」と目を剥いて叫んでた挙動不審なおじさんという印象も残ってます。

岡本太郎は芸術家というより、芸術がかかったタレント、という印象でしたね~。良くも悪くも。片岡鶴太郎と良く似た臭いがしました。

ピカソは作風がコロコロ変わるので、好きな作品と何も感じない作品に分かれちゃいますね。ゲルニカや泣く女などは、結構好きですが。

太陽の塔については、アステカ芸術の影響が見られ(当時、岡本太郎はメキシコに行き来していた)、これについても一言言いたかったんですが、またいづれ、ということでw。
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