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猿が京から

東京から新潟に抜ける道には上越線や関越道がある。どちらも関東と越後のあいだにある谷川連峰を、「国境の長いトンネル」で抜けていくルートである。

しかしトンネルが掘られる前には、道は急峻な谷川岳を迂回し、西側にある三国峠を越えて伸びていた。この道は「三国街道」と呼ばれ、謙信の関東遠征にも使われた古街道である。

三国街道は高崎を発し、上越線に沿いながら、渋川、沼田と北上。後閑から西に進路を変え、赤谷川に沿って三国峠をめざす。峠を越えた後は浅買川を下り、越後湯沢で上越線に合流する。

この部分は江戸時代には参勤交代の行列も通るなど、かなりの賑わいを見せたが、鉄道ルートから離れてからは、見る影もなく寂れた。


猿が京もその一つ。三国峠のふもとに位置するこの地には関所が置かれ、温泉も湧いたことから宿場宿として栄えたという。

「さるがきょう」という面白い名前は、謙信がこの地に訪れたとき「申の日は今日か?」と訊いた逸話から名づけられたというが、おそらくそれは後付けの理由で、もともとは「猿が峡」くらいの意味だったとおもわれる。

今も保存されている関所跡は、箱根関所に比べると小さなものだが、この地区の重要性を時の政府が認識していたことを示している。

関所の向かいは湖になっているが、これは腎臓湖「赤谷湖」である。利根川治水のためにこの地は水没。ダム湖の底にはかつての宿場村が水没している。

幸い源泉は水没を免れたため、村は温泉郷として復活。温泉客、スキー客を集めて再び賑わいを取り戻した。


しかし21世紀になると、小泉改革、平成不況などを受けて、再度過疎が進むことになる。

小泉改革の骨子は自由化、市場経済である。市場経済を生き抜くには、自らの短所をカバーし、長所を積極的にアピールしなくてはならない。

猿ヶ京のウリは温泉だが、周辺には草津、水上という強力なライバルが幾つも存在する。日本三名湯の一つ草津温泉、JR駅に隣接する水上温泉に対し、湯質もアクセスも悪い猿ヶ京は全く太刀打ちできていない。

イオウ分を濃厚に含む、「いかにも温泉に入った気分」が味わえる草津に対し、猿ヶ京の湯質は単純な塩化泉で、味わいに乏しい。特急の止まる水上駅さえ存在する水上温泉に対し、猿ヶ京は後閑駅からバスで半時間以上かけて行かなければならない。

そうなると食事で勝負するなり、送迎バスを設定するなりして対抗する必要があるが、通常、人間は怠惰なものであり、大多数の経営者は努力を惜しむ。

結果、猿ヶ京では数軒の比較的繁盛している宿と、数十軒もの閑古鳥が鳴く宿とに分化してしまった。よくも悪くも典型的な、観光地の実情である。


思うに、日本の観光地には工夫が欠けている。ディズニーランドや世界遺産などの例外を除けば、山か海、温泉に寺社くらいしか、楽しむものがない。

工夫したところで、スキーや陶芸、スパにキャンプ場と、どこに行っても金太郎飴的な娯楽しか、提供できていないように思える。

また下手に工夫すると、素人の学芸会風な観光地に仕上がってしまうことも、珍しくはない。まあ、それはそれでキッチュ感覚を楽しむことはできるのだが、市場競争力があるとは言えない。

重要なのは、その土地の本質に沿ったデザインを統一的に施した町並みやサービスを提供することなのだが、意外なほどそれが出来ていない。

ただこれは日本全体にいえることで、一般に日本人は市場における自分の価値を認識し、その価値を伸ばしたり、勝負軸を設定したり、欠点を補う努力をあまり行っていないように見える。その必要性は知られてきたものの、では具体的に何をしようとすると、権威に頼ったり、周囲に流されたりしてしまう。

受験戦争が激化したり、カツマー現象がはやったりするのも、その流れに乗っているからだろう。一流校出身、公認会計士という権威は、今なお多くの日本人に安心感を与えている。世界が流動化している今、頼りになるのは自らの力であるのに、なおも権威に頼って生き残ろうとする。その点が、日本衰退の最大級の原因といっても過言ではないだろう。


猿ヶ京に戻れば、生き残りは困難と言わざるを得ない。市場価値に乏しいからである。価値は比較優位で決まるが、温泉の点でもアクセスの点でも、比較劣位にあるからだ。

それでも価値を上げようというのなら、三国街道という歴史資産を利用する方法がある。つまり外観を歴史的町並みに揃える、というアイデアだ。京都、鎌倉、川越、馬籠、銀山など、幾つもの都市がその手法で成功を収めている。

ただそうした所では増改築の自由が制限されるという種々の束縛があり、それを嫌って町が一つにまとまらないなど、必ずしも前途は容易ではない。

アクセスにおいても、高速道の千円化を利用し、東京からの送迎に積極的に取り組むべきだろう。草津温泉も鉄道駅から遠いが、高速バスが整備され、東京から日帰りできるほどにサービスが良くなっている。


その種の工夫と努力を積み重ねて行けば、生き残りは不可能ではない。。。が、キャパシティなどから考えて、生き残るのはほんの一部の旅館だけだろう。

大競争時代においては、一握りの勝者だけが生き残る。そして残りは勝者の下にひれ伏し、雇用される側に回る。

つまり地方においては一部の中核的観光地に集客がすすみ、残りの観光地の従業者は、その中核地に雇用されていくだろう。地方のひとたちは、必死にこの流れを押しとどめようとしているが、おそらくこの流れは逆転させることはできない。(鎖国でもしないかぎり)

むしろその流れを是認し、被害を最小におさえたり、流れに乗って新たな雇用を生み出したほうが生産的だろう。

そのなかで中核観光地では大規模な歓楽街や娯楽センター、過疎地では豊かな自然、秘湯を楽しめる設備をつくるなど、役割分担が進められて行くだろうし、またそうでなければ衰退に歯止めはかけられないだろう。
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風景から

人は風土の産物である。

蘇州のぬれた庭園は人を情緒に沈ませ、ロサンゼルスの乾いた街角は、人からポエジーを蒸散させてしまう。ニューヨークの強引な車道は人を合理化し、香港の街路で人は複雑化される。

そんな中で、わたしは東京を歩いている。

歩くたびに風景は伸び縮みし、わたしを包んで動いていく。学者が本と紙に包まれながら思考を深めるというのなら、風景という紙にもまた、そのような作用があるといっても差し支えないだろう。

わたしは東京という皴の寄った紙をたどりながら、思いを深めていく。

思いは折れ曲がり、七曲がり、一様には収束しない。かつてサンフランシスコで思索を広げたときには、思いは常に直線的で、結論を要求されたものだった。。。誰に?街路に。

街路が直線的で、短絡的であるときには、そこを歩く人はストレートな思考を無意識に身に付ける。アメリカ人が直情的であるのは、その風土の賜物である。

あのサンフランシスコの街路は、山の周りをゆっくり上るなんて迂闊なまねはせず、ただひたすらまっ直ぐに山を切り開いていた。あの信仰にも似たひたむきさこそが、アメリカの原精神である。

翻って東京の街路は曲がりくねり、そのなかで考えは屈折・反射を繰り返すしながら、次第に熟成していく。


また複雑な路地は、人と風景の境目をあいまいにしてしまう。風景を見ていたはずなのが、風景に見られ、ついには風景の一部となってしまう。

夜ともなれば、わたしは風景に溶け込み、街という意識体の一部となってしまう。そう、わたしはかつて、街だったのだ、と心だか街だかは理解している。

ともすれば神秘主義に傾いてしまう妖しい傾斜を、それでも跳ね除けもせずに漂っていく。そのなかでわたしの感覚は広がり、不思議な鋭敏さを備えていく。

おそらく、古代人が狩りをするという心性は、このようなものだったのかもしれない。あるいは、能舞台にたつ、という行為はそのようなものなのかもしれない。

それはあなたとわたし、が切り裂かれた近代以前の交渉方法であり、肉体を極限まで開いた言語だったのだと、おもわれる。

そのような古いやり方に、光を当てたのが現象学者たちである。彼らは存在とは意識と環境が織り成す音楽だと看破。なかんずくブーバーは世界とは、意識が世界に問いかけることで成り立つものだと捉えた。

それはたとえば、王陽明が竹と対話し、それと一体化しようとした逸話を思い起こさせる。そこには一体化と問いかけという違いはあるが、「世界を自己と同等なものと認識し、対話を行う」ことで、自分と世界との関係を捉えなおすという智慧は共通している。

対話先が神であったり、竹であったり、死であったりするが、原理は似通っている。


そのような対話を通して、わたしたちは街とそれぞれ秘められた繋がりをもつようになり、街の時空間的な広がりをも共有することになる。

ここから「歴史」と「地理」が具体的な意味をもつようになり、ここから「国」という共同体がはじまる。

ただそれは、ひとを同一民族的な直線に回帰させてしまう危険性をも、多分にもつ。街に文化的多様性が必要とされる所以である。

たとえば渋谷には一つの外交官の家があった。外交官は韓国を振り出しに、欧米各国を歴任し、日本に帰る暇もないほどだったが、定年も近づいて家を建てることにした。

設計は白人の建築家に任せたのだが、その建築家は立教大学の校長であり、もともとはセントルイス出身の教会員であった。

完成した家では、各国の外交官を招いてのパーティが開催され、戦争のさなかには辛くも爆撃をまぬがれ、やがて主が死去したのちには、市に寄贈されて記念館となった。

このようにたった一軒の家にも日本とアメリカが交差し、韓国やセントルイスの物語が錯綜する万華鏡、あるいは戦争やパーティといった協奏曲のような舞台が内包されてある。

それこそが人間という複雑性の具現化であり、それを識るということは、あたかも構図や細部に複雑な意志がこめられた、水墨画を鑑賞するようなものと分かるのである。

そこに至ってわたしは街をあるくと言う行為が、自分の複雑性を、街の複雑性に照らし合わせながら深めていく行為だということに気づく。その意味で風土(風景)は、ひとを作るのだと、悟るのである。
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