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にこにこフリマ

日ごろコメントを付けてもらっている、にこまるさんがフリーマーケットに参加するというので、のこのこと出かけてみた。

にこまる探検隊は、都心から電車を乗り継ぎ乗り継ぎ、一時間半かけてC県北郊のK駅に着いた。ここから南口に降りて、歩いて11分、と案内図にはある。。。。のだが、そもそも南口がない。

うろうろ探して分かったことは、K駅には北口しかなく、一旦そこから出て、線路を渡って南へ行かなければならない・・・・のだが、今度は踏み切りがない!

駅前商店街の地図を見てみると、どうやら陸橋を渡って南へ行くしかないようなので、それに従って南下を試みる。そして十分ほど歩けば、目的地が見えてくる・・・・はずなのだが、一向に見えてこない。

20分、30分と歩き続け、さすがに不安になってくる。道を聞こうにも、路上を歩く人は一人も居らず、トラックが行きかうばかりである。

道の両脇は「霊園」になっており、さらなる不安感を煽り立ててくれる仕組みになっている。その霊園のネーミングが「メルヘンランド」というから、泣けてくる。こんなことなら、自転車を持って来るんだった。

腹は減るわ、喉は渇くわ、でへろへろになりながら過度を曲がると、幸運なことに、そこが目的地であった。



にこさんはここで、自分でペイントした木工品を売っているのだという。開場は20ほどの出店があるだけなので、それらしき店はすぐに発見できた・・・のだが、店主は男性で、にこさんではない。ご主人の7まるさんかもしれないが、単なる店番という可能性もある。

そこでちょっと会話してみると、「妻がペイントしたんですよ」と応えてくれたので、この店主が7まるさんと判明。そしてこちらも正体を暴露w。

にこさんは他の店を見に行っていたらしく、すぐに戻ってきた。

にこさんの写真は以前見たことがあるのですぐに分かったが、写真よりずっと背が高く、美人。7まるさんも爽やかな好青年という感じで、お似合いの夫婦という印象。

折角なので、工芸品を買っていく。ベランダにおけるような鉄線椅子をもらおうと思ったのだが、持ち帰れそうもないのであきらめ、丁度欠けていたコースターを一つ買うと、も一つおもけで付けてくれた。

結構模様が細かくて、精密で立体感がある。どうやってラインを引いたのか、というと、引いたんじゃなくて、テープを貼るのだという。それでも木工の形にあわせて貼るのは大変だろうな、と思ったが、集中してやれば、1、2日で描ききれるものという。

考えてみると、こういうものは何日もかけてコツコツやる類のものでなく、一気呵成に仕上げるものなのだろう。またそうでないと、日によってタッチが違うから、仕上がりも統一感を欠くものになるのだろう。



木工も自分で作るのか、と聞くと、流石にそれは買ってくるのだという。そして小さいものほど、却って高いのだという。なるほど、材料費より加工費がかかるということらしい。確かにコースターは千円なのに、その4倍くらいの大きさのお盆は500円ほどでしかない。

ティッシュいれになると、2000円くらいになるが、これは直方体に穴が開いているので、工賃がかかるのだろう。

などと、ティッシュいれをなでなでしていると、物干しそうに見えたのか、「これもどーぞ」とお土産に付けてくれた。いやぁ、いい人達だw。

話はブログ話になり、7まるさんの骨折や自動車の事故、新居や共通のブロ友の話になったが、そういった電子上でのエピソードが、実際に眼の前の人の口から発せられるのを聞くと、何か軽い違和感を感じてしまう。

そうこうしている内に、「めがねケースもどーぞ、ペン立てもどーぞ」と段々とサービスが加熱し、店先がさびしくなってきた。店を潰すのが目的でないので、ここらが潮時と、お開き。

こうして無事、にこまる探検隊は任務を果たし終えた。そして木工品の山を引きずりながら、遥かなる帰還の途についたのであった。。。。あ、しまった、写真を撮るのを忘れたぞ。
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鄙文化としての日本文化

日本にいるとなかなか気づきにくいことだが、日本文化は地方文化である。

およそ世界にはフランス文化、中華文化、インド文化など、「中央」と呼ばれる文化があるが、日本文化はその範疇には属していない。むしろ朝鮮やベトナム、インドネシアやアイスランドなど、独自の文化はあるが、世界の人々からこぞって受け入れられたり、世界の中心を目指さしたりしなかった「鄙の文化」に属するものと思う。

弥生の昔から19世紀後半に到るまで、日本文化は中華文化の支流に位置づけられてきた。そして大陸という文化中心では、文化がどんどん移り変わっていくのに対し、地方たる日本では、緑茶や五重塔などの、いにしえの大陸文化が保存されてきたのである。

明治に至って日本は欧米文化に宗旨変えするが、基本的には「地方文化」たる、日本文化の性質は変わっていない。確かに時折、世界的に高い評価を受ける芸術家や文学者はいるものの、総じて日本文化が注目されるのは珍しい。(ナバホインディアン文化が、カウンターカルチャーという意味以上で注目されることが少ないのと同様に)

ここで、それは単に文化相対主義的相違である、と言ってしまえば話は簡単だし、筆者も余計な恨みを買わずとも済むw。だが鄙の文化、中央の文化、それぞれに長所・短所があり、同等である、と言うのは楽でもあるが、形式に過ぎ、本質には迫っていない。

そもそも「同等」であるならば、なぜ中央に憧れ、中央を高く評価する人が多いのだろうか。

その点を考えると、実は文化相対主義における「同等」とは、「芸術的に等価」という意味を表しているのではなく、「多用な価値観を認めた上での等価」ということが分かる。つまりミケランジェロの壁画もマヤの壁画も、「格調高い芸術」と「素朴な宗教性」という別々な価値観のものさしで測れば等価ではあるが、芸術性で測ればその差は歴然として存在する、ということである。

その意味で日本文化は「素朴さ」「通好み」としては高く評価できるものの、「芸術性」「普遍性」としては評価が低いということなのである。

事実、歌舞伎は京劇やオペラに比べると、舞台運びがもっさりして、田舎じみている印象はぬぐえない。もちろん田舎芝居は田舎芝居として面白く、読み込んでいくと味わいもあるのだが、普遍的な芸術とも言いがたいように感じる。
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