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<プレスター・ジョン伝説>

エフェソス公会議(431年)で異端とされたネストリウス派は、仕方なく布教活動を東方へ向け、その教義は中央アジアや中国に伝播した。中国では唐王朝の保護を受け、景教として流行したが、その後は廃れた。

一方、中央アジアではネストリウス派は支配階級の一部に伝えられ、それが誤解されて「東方にプレスター・ジョン率いるキリスト教国あり」という噂がヨーロッパに広まった。

十字軍でキリスト教勢が苦境に立たされると

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クライスラー・レクイエム3

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32年に当選した大統領ルーズベルトは「New Deal=新規撒き直し」政策を行い、不況退治に乗り出したが、最終的に不況が終息するのは第二次世界大戦に入ってからになる。

クライスラー社も軍需を大量受注し、経営面ではAirflowの失敗を挽回するが、デザイン面では以後長く、斬新なデザインを採用することはなかった。

またクライスラーはモノコック・ボディの長所を見抜き、他社が製造していない間も、モノコックの車種を世に送り出していた。軽量性、衝突吸収性にすぐれたモノコック・ボディは、1975年以降、乗用車のスタンダードとなるが、ここにもクライスラーの先見性があらわれている。

50、60年代には、アメリカ経済は頂点に達し、高価格だが高性能なクライスラーはフォードやGMよりも高級なメーカーとして、高い人気を誇っていた。

そして余勢を駆って、ヨーロッパを中心に世界展開をはじめる。もっともこれはクライスラーに限ったことではなく、60年代前後のアメリカ経済は全盛期で、コカコーラ社やマクドナルド社のように、世界中に展開していった。その波にクライスラーも乗ったのである。


ところが70年代に入るとベトナム戦争が泥沼化。そこに石油ショックが加わって、アメリカ経済は大打撃を受ける。

それまで無制限だった高速道路にも速度制限が設けられ、都市化の進展とあいまって、高性能車の売れ行きは悪化していく。

これは大出力、したがってガソリンをがぶ飲みする車を量産するクライスラーにとっては、大きな痛手であった。

海外からは高燃費、低故障率を旗印に日本車、ドイツ車が上陸。たちまちアメリカ市場を席捲する。しかし既に40年に創業者クライスラーは死去しており、大企業に膨れ上がったクライスラー社は方向転換ができず、大型車に固執して、傷口を広げ、70年代後半には深刻な経営不振に陥ってしまう。


そこに現れたのが救世主・アイアコッカである。

もともとフォードの社長であったアイアコッカは、会長とソリが合わず、解雇されていたが、クライスラーにスカウトされ、社長におさまる。

新社長はまず政府に掛け合い、破綻すれば大量の失業者を出すと脅迫することで、国から資金援助を取り付けることに成功した。GMやフォードの経営者は国防長官や大統領に就任するなど、ビッグ3は連邦政府とつよく癒着していることも、その背景にはあった。

「国に泣きつく」という手法は以後、クライスラーだけでなく、ビッグ3全体に引き継がれる経営手法となり、自助努力の意志を削ぐことで、最終的にアメリカ自動車産業の息の根を止める劇薬となるのだが、79年当時は、そこまで見通せる人間はいなかった。

アイアコッカは不採算部門を処分するなど、大規模なリストラを敢行。一方で成長分野たる小型車部門に梃入れしたり、ミニバンを他社に先駆けて導入するなど、社長就任から9年後には黒字化を達成。見事にクライスラーを救った。

このようなトップの強いリーダーシップによって経営危機を克服する手法は、当時流行し、GEのウェルチ会長などが有名である。彼らはともにアイアコッカ革命、ウェルチ革命と呼ばれる徹底的なリストラ、経営資源の集約化、新しい企業文化の創出などの共通点を持っていたが、これは大統領制度をもつアメリカ社会の風土でもあった。


クライスラーは87年にはジープ・ブランドを買収。ダッジ、プリマスなどのブランドはあるものの、どれもぱっとしなかった当社への福音となる。

ジープは第二次世界大戦中に開発された、汎用軍用車である。その単純な構造、驚異的なタフネスによって陸軍に採用され、アメリカ軍の世界展開とともに、世界的名声を獲得した車種である。

ジープはクライスラーの売り上げに貢献し、またそのオフロード技術を活かし、SUVチェロキーが開発されるなど、有形無形の利益をクライスラーにもたらし、SUVなどライトトラック部門は売り上げの過半数を占めるまでに成長する。

94年には攻勢の手を緩めない日本車にたいし、そのコンセプトを真似した「ネオン」を発売して対抗する。

しかしクライスラーの疾病は、そのようにコンセプトをいじることではどうにもならないほど、進行していたのである。


ビッグ3が共通して抱えていた問題は、QCだった。

QCという概念自体は、大量生産方式を確立したアメリカ社会が生み出したものだったが、それはゆるいアメリカ社会にとっては「あだ花」のようなものだった。

アメリカでは手紙を出すと、100通に2,3通は届かないと言われている。アメリカ製の机を買うと、足の高さが揃わないことも、まれではない。

一般に単一的民族社会では物事に細かくなり、多民族社会ではゆるくなる、と傾向があるようにおもう。日本やドイツは前者の、そして中国やアメリカは後者の好例であり、前者は職人に、後者は商人に向いている。

そのような社会で造られた機械は、どうしても雑で、故障しやすく、燃費もあまりいいものではない。当初はアメリカ人もそれが当たり前と思っていたが、そうでない日本車、ドイツ車に触れる機会が増えると、その欠点に気づくようになる。

だが気づいたところで、行動というものはなかなか変えられるものではない。危機に瀕したときはさすがに「ネオン」のような日本的コンセプトの車を開発するが、すぐに政府による救済策が講じられて危機を脱するため、なかなか抜本的改革には至らない。


その中でクライスラーは次第にシェアを低下させ、ついに98年、ダイムラー社に吸収されてしまう。

しかし小型車への転換はなかなか進まず、21世紀に入ると景気後退と原油高のダブルパンチに見舞われる。ビッグ3の中でも優良ブランドが少なく、ライトトラックへの依存度が高かったクライスラーは特に苦境の度合いがいちじるしかった。

そして金融危機の荒波をもろに受け、09年には倒産してしまう。クライスラー誕生から、84年後のことである。

クライスラーは連邦倒産法の適用をうけ、従業員、イタリアのフィアット社、アメリカ・カナダ両政府の持ち株会社として経営再建に取り組むこととなったが、ジープやダッジ以外に優良ブランドがない当社の再出発は困難が予想されている。

クライスラー・レクイエム2

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しかし70年後、レースは再開される。サブプライムローンに代表される金融革命は、アメリカばかりでなく全世界に未曾有の好景気をもたらす。

アメリカの輸出に沸くマレーシアでは、98年、452mのペトロナスツインタワーが建てられ、エンパイア・ステートビル、シアーズタワーを破って、世界一のビルとなる。

だがその栄光も長くは続かなかった。

6年後の2004年には、半導体基地として高度成長を遂げた台湾に「台北101」が完成。509mの高さで王座についた。

しかし折からの原油高で好景気に沸くドバイでは、07年にブルジュ・ドバイがこれを追い越す。高さは実に800mを超え、台北101の栄光は3年でしかなかった。

これに対抗してクウェートや中国ではさらなる高層ビルが計画されたが、歴史は繰り返す。金融危機が訪れ、計画は霧散。このブルジュ・ドバイの天下が、しばらくは続きそうだ。(世界経済が元にもどっても、果たしてドバイにそれほどのオフィス需要があるかどうかは疑問だが・・・)


とまれ、1汽車工から、マンハッタンに世界一のビルを建てるまでに成り上がったクライスラーは、一躍、時の人となる。

当時の自動車産業は、少し前のIT産業にも似ており、ビルゲイツよろしく、そのトップは莫大な利益を得ていたことが窺える。

クライスラー社の特徴は、その技術力にあった。

技術者であったビュイック、クライスラーの伝統を受け継いで、クライスラー社はフォード、GMに先駆けてつぎつぎと新機軸を盛り込んだ。

特に34年に発表された「Airflow」は、当時、普及しはじめた航空機の流線型スタイルを取り入れた画期的なモデルであり、初めて空気力学にもとづいた空洞実験を行ったモデルとしても有名である。

ところが時代は大恐慌の真っ只中で、アメリカ人は保守化しており、このような斬新なスタイルを好まず、Airflowはほとんど売れず、「失敗作」として終わる。現在では当たり前のように定着した空力モデルも、草創期にはこのような苦労があったのである。


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クライスラー・レクイエム1

かつて、カンザス生まれの汽車工がいた。

汽車工は蒸気機関の弁装置の調整にすぐれ、次第に頭角をあらわし、やがてアルコ社の管理職にまで上り詰めた。

(アルコ社はアメリカの代表的な蒸気機関車メーカーで、そこの従業員というのはエンジニアにとって、ひとつのステータスでもあった。)

しかし時は20世紀初頭。自動車の時代に移りつつあった。1908年に発売されたT型フォードは爆発的な人気を呼び、年間1万台を売り上げる大ヒット。自動車市場が小さかった当時としては、破格の数字である。

T型フォードの成功に刺激され、他の自動車会社も拡張をはじめる。その一つ、GM社のビュイック部門では工場の管理者を探しており、汽車工はスカウトされて、会社をうつった。


そこでも彼は高く評価され、やがて部門長の座を任されることになる。

第一次世界大戦前後。馬に代わって輸送の主役となった自動車の重要性が認識され、軍隊はもとより、民間でも自動車の人気が世界的にたかまっていた。

さらに戦後、アメリカには一大好景気「金ぴか時代」が訪れ、経営は順調だった。しかし彼は経営方針や報酬をめぐって、次第に本社と対立しはじめる。

GMとしては技術力に優れるビュイック部門を、キャデラックにつぐトップブランドに据えておきたかったが、ビュイックの経営者としての彼は、ハイエンドからローエンドまで、全クラスの車種をつくりたかったらしい。

結局彼は莫大な退職金をもらって社を辞め、その金でマックスウェル社とチャーマーズ社を買収し、自分の名前をとって「クライスラー」と改名した。1925年のことである。


クライスラーはエンジニア出身だったが、その経営手法はむしろ、金融的であり、買収を繰り返してクライスラー社を急成長させるものであった。

29年には軍用トラックとして名をあげていたダッジ社を吸収。そこに中・下級車種の生産を任せ、念願の全クラス車種生産を達成すると同時に、GM、フォードとならぶ大メーカーにのしあがった。「Big Three」の誕生である。

翌30年にはマンハッタンに、尖塔で有名なクライスラービルを建てる。完成当時は283mと世界一の高層ビルであった。

もっとも、このビル、もともと尖塔を付ける予定はなかった。ただし完成した途端、同じマンハッタンに立てられたウォールタワーに「1m」背を越されたため、急遽尖塔を追加。世界一の座を奪い返した。

だが翌31年には、このどんぐりの背比べをあざ笑うかのように、449mの高さをもつエンパイア・ステートビルが竣工。再び王座が奪われる。

くやしがったクライスラー側は、さらに尖塔を伸ばそうと画策したが、その前に大恐慌が到来し、結局NYの高層ビルレースは強制終了させられてしまう。


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花のフィレンツェ~地中海交易

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一時は住民千人にまで落ちぶれ、ひとびとから忘れ去られたフィレンツェが、再び歴史の表舞台に躍り出るきっかけは、毛織物にあった。

十字軍遠征の兵士らは帰国したものの、慣れ親しんだ香辛料や絹織物が忘れがたく、これをはるばる中東から買い付けた。買うからには対価が必要だが、幸いなことに、当時ヨーロッパではフランドル地方を中心に毛織物が盛んになっており、これを輸出することで、香辛料を購った。

そしてこの貿易を中継したのが、北イタリアの商人だったのである。

ヴェネツィアやジェノヴァ、ピサといった港湾都市は、シリアやレバノン、エジプトあたりから豪奢品や胡椒を買い付け、フランスのシャンパーニュの大市などで売りに出した。大市ではハンザ同盟に代表される北方商人らがこれを買い、代わりに毛織物や銀を売った。

そしてイタリア商人はこれを買うと、今度は地中海を戻って、中東世界にこれらの商品を売りつけ、莫大な利益を得たのである。しかし港を持たないフィレンツェは、その交易を指を咥えてみていることしか、できなかった。

だがフィレンツェ商人は毛織物に眼をつけ、これを自国生産することを思いつく。

幸い、中東から遠いフランドルに比べると、フィレンツェは、インディゴなどの高価な中東の染料をふんだんに使うことができた。

さらに13世紀頃になると、フランドル地方はイギリス国王とのいざこざから、イギリス産の高品質な羊毛を利用できなくなり、代わってフィレンツェ商人がイギリス羊毛を扱うようになった。めざといフィレンツェ商人は、この羊毛を自国に運び込み、フランドル産をしのぐような毛織物を生産することに、成功する。

これを地中海市場で売りさばくことで、フィレンツェも巨額の利益を獲得。その富を金融業につぎ込むことで、さらなる繁栄がもたらされることになる。


もっとも、フィレンツェだけでなく、周辺のルッカやピサといった都市も金融には注目し、それの育成には心がけていた。

しから彼らは金融を貿易を助ける手段と考えていたのに対し、フィレンツェ商人は金融自体を金儲けの手段と認識していた点に、大きなちがいがあった。

フィレンツェは、世界初の近代金貨・フローリンを発行。これを全欧で流通させることで、機軸通貨国としての利益を享受した。もっとも、フローリンの金質は一貫しており、フィレンツェが改鋳を繰り返して利鞘を稼いでいたというわけではない。フローリンを安定供給したのは、むしろ通貨圏を創出し、為替差益を稼ごうとしたのが目的だったようだ。

同様の戦略を採ったのが、アドリア海の女王、ヴェネツィアである。ヴェネツィアの金貨・ドゥカティもまた、広く流通した通貨だったが、フローリンとドゥカティは重さも材質も同じだったので、混乱なく使われたのである。

そして13世紀から15世紀にかけて、ヴェネツィアとフィレンツェは全盛期をむかえるのである。


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花のフィレンツェ~暗黒時代

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屈服したエトルリアには、ローマ人が進出してくるが、彼らによって建設された都市のひとつが、Florentia(フロレンツィア:「花の土地」の意)である。

この都市はシーザーが、彼に従ってきた軍人の退役後の居住地として、アモ川のほとりに計画されたもので、軍事基地と同じ様式で造営された。

その地が選ばれたのは、花が咲き乱れるほど土地が肥沃だったことに加え、カッシア街道の通り道に当たっていたからだが、そのかいあってフロレンツィアは順調に発展を続け、3世紀にはトスカーナ地方の中心都市となるまでに成長した。

5世紀にローマが滅びると、フロレンツィアは東ゴート王国の支配下におさまるが、その支配は長続きせず、やがて勢力を盛り返した東ローマ帝国が支配するようになるが、それも不安定で、この都市をめぐって何度も攻防戦が繰り広げられた。

戦乱の影響で都市の人口は千人を数えるほどに激減。フロレンツィアは、トスカーナ地方の1寒村にまで落ちぶれてしまう。

その戦乱が収まるのは、6世紀にロンバルド族が建国してからである。ゲルマン諸族のうち、最後に移動を行ったロンバルド族は「蛮性」を多分に残しており、強力な軍事力で北イタリアを支配。フロレンツィアはその支配下で、ようやく平和を享受できるようになった。

しかしその支配も恒久的なものではなく、やがてロンバルド王国は、北方に勃興したフランク王国と反目。遂に8世紀、フランク王カール大帝は遠征軍を催し、アルプスを越えてロンバルドを制圧。フロレンツィアもフランク王国に組み込まれることになる。

だがそのフランク王国も9世紀には分裂し、北イタリアとドイツが「神聖ローマ帝国」として再統合されるのが10世紀である。


神聖ローマ帝国の領土はイタリアとドイツにまたがっており、その皇帝の即位には、ドイツ諸侯とローマ法皇の同意が必要だった。

そのためローマとドイツの中間地帯にあたる北イタリア諸都市では、ドイツ皇帝派とローマ教皇派に分かれて内部抗争を繰り返していたが、フロレンツィアも例外ではなく、13世紀を通して、騒乱が絶えなかった。

ただこの騒乱は貧困から生まれたものというより、豊かさの結果でもある。

古代ローマ帝国の崩壊から神聖ローマ帝国の成立までは、ゲルマン諸民族の侵入もあって、悲惨な暗黒時代が続いたが、10世紀までにはゲルマン族の動向も落ち着き、ヨーロッパの封建制度はそれなりに安定期を迎える。

戦乱が終わって人口が増大し始めると、その労働力を利用して開墾が盛んになり、そこから食糧増産がもたらされると、さらに人口が増えるという好循環が生じた。

人口増は十字軍の遠征をも可能にし、軍隊や糧食を東西に運搬する必要性から、流通が活発化し、ローマ以来途絶えていた貿易、広域商業も復活した。

このような経済力の向上は、往々にして新興勢力の台頭と、それを抑えようとする保守勢力との間の葛藤を招く。日本では平安後期の大開墾から武士という新勢力が生まれたが、それと同じように、北イタリアでも経済力向上を背景に、都市民の政治力が向上。自治を求めて支配層と争い始める。

もともと北イタリアはフランク王国、そしてそれを引き継いだドイツ皇帝の領土であり、支配層は皇帝派が多かった。そのため都市民は、新たに法皇の権威を利用して、これと対抗するに至ったわけである。


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花のフィレンツェ~エトルリア3

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エトルリア人は、ローマ北方の土地に住み着いたため、後にその地を「トスカーナ」と呼ぶようになった。

エトルリアとトスカーナではかけ離れているように聞こえるが、エトルリア人は、ラテン語では"Etrusci(エトルスキ)"または"Tusci(トスキ)"といい、その土地という意味で、"Tuscana(トスカーナ)"と発音されたのである。

エトルリアは前6世紀には都市国家を作り、前5世紀にはその勢力は北はアルプス、南はローマにまで達した。ローマ初期の王はエトルリア人だったと言われ、建国まもないローマは、エトルリアの支配下におかれていた状況がうかがえる。

しかしイタリア南部にはギリシャが、地中海にはカルタゴが勢力を広げており、それらと覇権を争う間に足元・ローマが離反。やがてそのローマに逆征服されるという事態に陥った。

エトルリアはギリシャ的な、都市国家連合を築いていた。そのような連合体は外敵にはつよい反面、外敵が去ると、今度は主導権をめぐって合い争って自滅することがおおい。

ギリシャのポリス連合は、盟主アテネと軍事大国スパルタが闘いあった隙をつかれて、北方に勃興したマケドニアに滅ぼされてしまうが、丁度エトルリアとローマも、そのような関係にあったらしい。

もっともエトルリアはカルタゴのように徹底的に滅ぼされたわけでなく、その住民はローマ市民権を得るなど、ローマの中に吸収されていった。

たとえば英語の"auspice(占い)"の原義は「鳥占い」で、鳥や獣の動向を見て、吉兆を占うというものであったが、これはもとをただせば、エトルリア人の占いの習慣であった。(エトルリアの占術がラテン語に入り、後に英単語になったわけである)

鳥占いだけでなく広く宗教や、優れた建築術などの文化もまた、ローマ文化の中に受け継がれていったのである。


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花のフィレンツェ~エトルリア2

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エトルリアが小アジア出身というもう一つの傍証は、その言語にある。

ヨーロッパの真ん中にありながら、エトルリア人の言葉はインド・ヨーロッパ語族ではなく、孤立した言語となっている。

もちろん言語と民族は同一ではないが、エトルリア語がインド・ヨーロッパ語族でないという事実は、その使い手がインド・ヨーロッパ系民族ではないという可能性を示唆している。

もっとも言語が違うだけでは、エトルリア人が外来民族だとは言えない。逆に、ヨーロッパの先住民だという可能性もある。彼らはクロマニヨン人の直接の子孫で、氷河時代からイタリアに居住していたという可能性だ。

実際、帝政ローマ期の歴史家・ディオニュシオスは、エトルリア人が元々そこにいた先住民だと記している。

似たようなケースに、バスクがある。

バスク語はやはりヨーロッパにおける孤立語として有名だが、DNA分析などの結果から、その使い手であるバスク人は古ヨーロッパ人だろうと推測されている。

これと同様に、エトルリア人の原住民説もあるわけだ。文献だけだと、邪馬台国論争のように賛否両論があって、どちらが正しいかは分からない。


そこで考古学の出番になるわけだが、エトルリア人の住んでいたトスカーナ地方の墳墓を調査したところ、初期の段階で、埋葬様式が変化し、埋葬品に舶来物が多くなることが分かった。

これは、この地方に外来文化が流入したことを示しているが、古代においては、そのような流入は往々にして、人間集団の移住を伴っていた。つまり、エトルリアの歴史の早い段階で、外来集団がやってきた可能性がたかいわけである。

まとめると、紀元前千年以前のヨーロッパでは、クロマニヨン人の子孫とおもわれる古ヨーロッパ人が栄えていた。バスク人やブリトン人、そして古エトルリア人は、その仲間である。

しかしその後、東方から新たに外来民族が押し寄せて、イタリアの地にも、小アジアからリディア人がやってきて、古エトルリア人を征服・混血した結果、紀元前7世紀には「新エトルリア人」が誕生。そして余勢を駆って、イタリア全土に勢力圏を拡大した、というシナリオが描ける。

このようなシナリオは、ヘロドトスの外来説とも、ディオニュシオスの先住民説とも矛盾しないし、そもそもヘロドトスの記述をよく読むと、リディア人の集団が「既に他民族が割拠していた地を避けて」、新たに町を作った、とある。

つまり、移住リディア人の周りには、先住民が住んでおり、リディア人はその先進的な技術や統治法を駆使して、彼らを徐々に征服していったのでは、ないだろうか。


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花のフィレンツェ~エトルリア1

ローマ帝国が隆盛する以前、イタリアに割拠していた先住民族を「エトルリア」という。

エトルリア人の出自は分かっていないが、ヘロドトスは「アナトリア(現在のトルコ)からやって来た」と記している。

アナトリアからメソポタミア、エジプトにかけて-いわゆるオリエント-は当時の先進地域で、そこからさまざまな民族がイタリアに移り住んできた。

最も早くからイタリアにやってきた民族は、フェニキア人で元はレバノンの出身である。レバノンは交通の要衝に当たり、また良質なレバノン杉を利用して造船が盛んであった。そこで早くからレバノン人は商船の民として栄え、イタリア南部にいくつもの植民市を築いた。

そしてその後、エルトリア人がイタリアに流れてきたのらしい。

その経過について、ヘロドトスは以下のように述べている。

「・・・リュディア全土に激しい飢饉が起こった。リュディア人はしばらくの間はこれに耐えていたが、一向に飢饉がやまぬので、気持ちをまぎらす手段を求めて、みながいろいろな工夫をしたという。そしてこのとき・・・(サイコロ遊びなど)あらゆる種類の遊戯が考案されたというのである。・・・さてこれらの遊戯を発明して、どのように飢餓に対処したかというと、二日に一日は、食事を忘れるように朝から晩まで遊戯をする。次の日は遊戯をやめて食事をとるのである。このような仕方で、18年間つづけたという。

 しかしそれでもなお天災は下火になるどころか、むしろいよいよはなはだしくなってきたので、王はリュディアの全国民を二組に分け、籤によって一組は残留、一組は国外移住と決め、残留の籤を引き当てた組は、王自らが指揮をとり、離国組の指揮は、テュルセノスという名の自分の子供にとらせることとした。国を出る籤に当った組は、スミュルナに下って船を建造し、必要な家財道具一切を積み込み、食と土地を求めて出帆したが、多くの民族の国を過ぎてウンブリアの地に着き、ここに町を建てて住み付き今日に及ぶという。彼らは引率者の王子の名にちなんで、・・・テュルセニア人と呼ばれるようになったという」

リュディアは、紀元前7~6世紀に、アナトリアにあった王国で、テュルセニア=エルトリアのこと。もちろん、ヘロドトスの「歴史」は、現在の眼からすれば歴史というより伝承で、そのまま受け取るわけには行かないが、なにがしかの真実は伝えているものとおもわれる。

実際、DNA調査によると、エトルリア人とアナトリア人の血縁は近く、ヘロドトスの記述を裏付けている格好だ。


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泪橋

「この橋はな、人呼んでなみだ橋という。いわく人生にやぶれ生活に疲れはててこのドヤ街に流れてきた人間たちがなみだで渡る悲しい橋だからよ。
 ……
だが今度はわしとお前とでこのなみだ橋を逆に渡り、あしたの栄光を目指して第一歩を踏み出したいと思う」

ご存知、「あしたのジョ-」の名場面だが、この泪(なみだ)橋はもう存在しない。川自体、暗渠化されて、地上から消えているからだ。ただ「泪橋」の名前だけは、ぽつりと近くの交差点に残されれている。

東京には、泪橋の地名が二つある。一つは千住・泪橋、もう一つは品川・泪橋だ。千住、品川、ともに処刑場があったことから、生死の「別れの泪」の意味で命名されたらしい。

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我が家の大師さま

さて、どこに発毛出に行こうか。(注:この文章は1月3日に書かれたものです)

近場としては明治神宮があるが、ここは以前、痛い目に逢ったことがあるので遠慮しておく。何しろ原宿駅から既に行列は並び、ひたすら後は賽銭箱までベルトコンベア状態。

屠殺を待つ家畜のような気持ちにさせられ、最後には金まで出さなければならないと言うのだから、踏んだり蹴ったりとはこのこと。ただ幅広の帽子をかぶっていると、そこに賽銭がどんどん投げ込まれるので、小銭が稼げるというメリットはある。

関東には3大初詣というのがあり、明治神宮、成田山、川崎大師がそれにあたる。それぞれ2百万人以上の参拝客を集める古刹・名刹であるが、明治神宮はごらんのありさま。成田山は成田空港のそばにあり、ちょっと遠い。そこで比較的ちかい川崎まで行くことにした。

川崎までは自転車で行けるが、今回は子連れなので、電車で行くことに。

川崎と言えば、京浜急行である。おあつらえ向きに、川崎大師までは京急の支線も走っている。。。。のだが、川崎駅ホームから、既にすし詰め状態。正月も3日を迎え、参拝客も減っているだろうと目論んだのがあさはか、と言うことを思い知らされる。


今でこそ、大京急のしがない1支線だが、そもそもこの大師線というのは、京浜急行の本線であった。

東海道の川崎宿と、そこから2kmはなれた川崎大師を結ぶ「大師電気鉄道」が、京急の発祥である。開通してみると、予想を肥える大人気に気を良くし、川崎から南北に路線を広げ、終には東京から横浜、三浦半島をつなぐ一大私鉄となったわけである。

その川崎駅を出ると、次は「港町駅」という、詩心をくすぐるような名前の駅になるが、横浜港のようなエキゾチックな雰囲気はなく、工場労働者を運ぶ通勤駅で、およそ殺風景。近くには競馬場さえある。

その次の次の駅が、川崎大使駅だが、ここから寺までは5分くらい歩く。もう少し近くに駅を作れば良かったと思うのだが、門前町の反対などでできなかったのだろう。


川崎大師。俗に関東三大大師と呼ばれる寺の一つである。関東三大大師というのは諸説あるが、巷では川崎大師、西新井大師、佐野厄除け大師と捉えられているようだ。

だがこのうち、佐野厄除け大師の方は大師は大師でも、天台宗の元三大師を祀るものであり、川崎・西新井の大師は、真言宗の弘法大師を祀るものである。

真言宗には幾つか分派があるが、そのうちの智山派は、関東に3つの支店(=大本山)をもつ。東京・高尾山の薬王院、千葉・成田山の新勝寺、そして川崎・金剛山の平間寺が、川崎大師である。

平間寺は、海中から引き上げられた大師像を祀るために建立された、という由来伝承を持つが、これは浅草寺と同じ伝承で、事の真偽は疑わしい。

ただ、平安末期に、この地に真言宗の根本道場が造られたのは事実のようである。真言宗は既に千葉成田に寺を持っていたが、関東が開けるにつれ、支店網を拡張する必要に駆られたらしい。

当時、この辺りは海岸で、地元漁師らの自然発生的な寺社が、真言宗に組み込まれたと見るべきだろう。

やがて江戸に幕府が置かれ、川崎宿が開かれると、平間寺は東海道の旅人で繁栄し、将軍も参拝するほどの寺格となった。現在の川崎大師の基礎は、江戸時代に築かれたと言っていい。


そんな川崎大師だが、門前町からすでに混雑している。もう少しいくと、混雑は行列になり、びっちりと足の踏み場もない状態に。

そしてそこから一時間半も並ばされて、ようやく山門に着いた。

子供など、もう疲労困憊の呈である。そして参拝だが、参拝も入場制限があり、放送の指示に従って本殿に入ることを許される。階段を上って賽銭を投げ入れ、後ろから押し寄せる参拝客にせっつかれて、階段を下りる。

なんだ、これじゃ明治神宮と同じだ。

そう気づいたときは既に遅く、日は暮れにけり。来年は家でじっとしていよう、と決意した草臥れ損の初詣であった。

大恐慌時代のアメリカの物価

大恐慌時代、アメリカの物価はどれくらいだったのだろう。

一つの手がかりは、1925年から2004年までの80年間、アメリカの物価上昇率が3%だった、というデータ。

ここから逆算すると、大体25年には物価は04年の1/10ぐらい、と分かる。多いか少ないか微妙なところだが、日本やドイツのような敗戦後のハイパーインフレを経験していないアメリカなら、大体、そんなものだろう。

この計算をそのまま30年代初頭にあてはめれば、大恐慌時代の物価水準がはじき出せるように、一見思えるが、実はその時代はデフレであり、物価がピークの40%にまで落ち込んでいる。

仮にピークを25年とすれば、30年代前半では、大体その半分くらい、つまり現在の1/20ほどの物価水準だったろう、と推測できよう。

1$=100円。それで缶ジュースが買えるとすると、大恐慌時代のアメリカでは、たったの5円でジュースが買えたことになる。

映画"Papaer Moon"のなかで、聖書を$12で売りつけるシーンが出てくるが、これは今では$240≒2~3万円。贈答品としては高いが、出せないというほどでもない。そのような微妙な価格に設定するのが、Mosesの小詐欺師たるゆえんなのだろう。

またAddieがMosesに向かって「$200返すまで離れない」と言うシーンもあるが、これも現在価格では$4000=40万円になる。$200=2万円といえば小金で、そう捉えればAddieは小金に固執するセコイ少女となるが、40万円なら孤児にとっては大金。Addieの大物さがうかがえるエピソードになる。

湯湯婆2

湯たんぽが日本に伝えられたのは、室町の頃。当初は陶器製であった。

その後、室町から江戸にかけてから大衆化していくが、その背景のひとつは、先に述べたように陶器の改良、もうひとつは「綿」の普及があったらしい。

室町以前には木綿は伝来されておらず、代わりに麻が防寒具に使われていた。麻布団では湯たんぽの上にかけても、熱が逃げてしまう。

一方、綿で作った布団で湯たんぽをくるむと、熱が逃げず、一晩中暖かい。そんなわけで、綿が広まった江戸時代以後、湯たんぽはポピュラーなものになる。


やがて明治から大将時代になると、金属製の湯たんぽが登場する。銅やアルミ、真鍮、高価なものでは銀製の湯たんぽまであったという。

これは大正時代に新しい鋳物技術(die casting)が伝えられ、安価で大量に金属器を鋳造することができるようになったからと思われる。

それまでにも鋳物はあるにはあったが、もろい砂や石膏で型を作るため、一回きりしか鋳造できず、大量生産には向かなかった。しかしダイキャスト法は金属製金型を利用して、繰り返し鋳造するため、大量生産が可能となったのである。

この手法のおかげで初めてエンジン部品などの大量生産が可能となり、自動車産業や航空機産業が可能となったのだが、日本でも金属加工業が盛んになり、その余勢を駆って、バケツや玩具の金属化が行われ、湯たんぽにもその波が押し寄せたわけである。


金属湯たんぽは軽く、割れないという利点がある反面、歪みやすいという欠点があった。そこで表面にひだを入れ、ゆがみにくくしたものが考案され、普及していった。ひだがあるおかげで熱も放散しやすいという副効果もあった。

湯たんぽ、というと昭和生まれの人は、大体、銀色に光る金属製容器を思い浮かべると思うが、それはそんな時代に創出されたものである。

戦後になると、石油化学工業が日本の基幹産業のひとつとして、育ちはじめる。それを受けて、ゴム製、プラスチック製の湯たんぽが作られるようになるが、ファンヒーター、エアコンの普及を受けて、昭和の終わりには廃れてしまったのである。


そんな湯たんぽが復活し出すのは21世紀に入ってから。燃料費はお湯代だけ、というコストパフォーマンスの良さが、経済的に疲弊した日本社会に再アピールした。

昭和レトロやエコという流行の追い風も無視できない。

実際、使ってみると、お湯を注ぐだけ、というだけで、手軽に暖をとることができる。人間、足元が暖まるだけで、結構しのげるもの。ストーブを使わずに湯たんぽで冬をすごす人もいる。

日本製糖史

サトウキビはイネ科の植物で、イネと同じく、高温多湿をこのむ。原産地はニューギニアか、その近辺といわれている。

一体にイネ科の植物はムギやトウモロコシなど、人間のエネルギー源となりうるものが多いが、サトウキビもその例に漏れず、エネルギー値が高く、古くから利用されてきた。

東南アジアではそのまま噛んで味わったり、絞ってジュースにしたりと素朴な形で利用されているが、絞り汁は腐りやすいので、生産地以外には余り広まらなかったようである。

砂糖が広範囲に流通するようになるのは、絞り汁の結晶化、つまり「砂糖」が作られるようになってからである。砂糖になると、長期保存、長距離輸送ができるようになるのだが、実はサトウキビの絞り汁をそのまま煮詰めても、砂糖にはならない。不純物が多く、糖蜜にしかならないのからである。そこで不純物を沈殿させたり、少しずつ結晶を成長させるなどして砂糖にするのだが、その精製技術はインドで創始された。

インドは大陸国であり、内陸部にまで塩を運ぶ必要があったため、海辺で海水を精製して塩にする製塩技術が古くから発達しており、それを応用して「砂糖」が作られたと、推測される。

英語で砂糖をsugar, sakkaro(砂糖の)などというが、これはサンスクリット語で砂糖を意味するsakkaから来ている。インドからアラビア、イタリアを経て、ヨーロッパに持ち込まれたのである。一方、日本ではsatou、中国語ではsatanというが、これもやはりsakkaの音訳である。




砂糖の製法は唐代、南洋貿易などを通して、インド、東南アジアから南中国にもたらされた。日本にも遣唐使や鑑真を通じて伝えられたが、寒冷地である日本ではサトウキビは栽培できず、砂糖は長らく高価な舶来品であった。

15世紀になると、ブラジルなどでプランテーションを利用した大規模な砂糖栽培が始まり、砂糖は世界商品となる。(時代は下るが大西洋を股にかけた三角貿易では、砂糖が重要な構成要素であった。)17世紀中国の産業書「天工開物」を読むと、この「洋糖」は中国にも輸入されていたことがうかがえる。

世界的に砂糖の流通量が増えた結果、明代中国では砂糖を使った菓子が盛んになり、落雁、外郎などの原型が作られるようになった。それまでの中国菓子は砂糖を使わず、果実や水あめ、蜂蜜を使っていたのだが、明代になると砂糖の輸入量・生産量が増え、新しい菓子が創作され始める。

この新菓子は日本にも伝わり、「和菓子」の源流ともなった。一方、洋糖を使ったカステラやポーロ、金平糖もポルトガル商人などを通じて、日本にもたらされた。

その結果、日本でも砂糖需要が増加し、国産化が求められるようになった。それに応えて南西諸島や琉球ではサトウキビの栽培が始められたが、これは低精製の黒砂糖であった上、薩摩藩の独占販売だったため、価格は高かった。

そのため他藩でもサトウキビの栽培が試みられ、高松藩や徳島藩ではそれに成功した。そして製糖技法にも工夫を凝らし、「和三盆」という高品質な製品を作ることに成功した。

和三盆は見かけは粉砂糖に良く似ているが、精製方法が異なり、化学的精製法用いて純度を上げていく粉砂糖に対し、和三盆は粗糖を何度も水洗いして糖蜜物を取り除いていく。一説には盆に入れて三回洗うことから、「和三盆」という名前がつけられたという。

出来上がった和三盆は純度が高く、糖蜜分も残されており、それ自体でもお菓子として通じるほどの上質な味覚を持った製品に仕上がっている一方、その水洗い過程にはロスも多く、明治以後、海外から大量の洋糖が入ってくるとそれに押されて市場から姿を消した。

そして数十年の間、日本は砂糖の純輸入国となるのだが、そのトレンドが変わるのは日清戦争からである。




日清戦争の結果、日本は台湾島を獲得し、その植民地経営から利潤を得るために、砂糖に目をつけた。台湾のサトウキビ栽培は、この地を領有したオランダによってすでに17世紀より始められていたが、そこで作られていたのは黒砂糖であり、これを近代化することで、世界商品に仕立て上げようと考えたのである。

まず台湾総督の要請を受けて、1900年、三井財閥が台湾において台湾製糖会社を興した。そして数年後には明治製糖が創始され、日本本土からも大日本製糖が台湾進出を果たした。

この中では大日本製糖が最も古参であり、その分よく言えば手堅い、悪くいえば保守的な経営方針を保持した。台湾だけでなく、インドネシアなどからも粗糖を買い付けることで粗糖の安定確保に努め、それを日本にある工場で精製・販売した。

一方台湾製糖・明治製糖は元々台湾での粗糖生産・精製から出発し、発展するにつれて日本内地での精製をも開始するなど、垂直統合を推し進めた。

各社が競争して生産量を伸ばした結果、1938年には砂糖生産は137万トン以上になり、国内の需要を満たし、かつ輸出もできるほどに成長した。

しかし敗戦によって日本は台湾を失い、台湾にあった全ての製糖施設は国民党政府によって接収され、国営企業「台糖(台湾糖業公司)」として再出発することになる。

50年代から60年代にかけて、製糖は台湾の重要な輸出産業であり、当時、台糖は台湾随一の企業であった。しかし台湾産業が工業化を果たすと、製糖業は斜陽産業となり、現在ではコーヒー製造からガソリンスタンド経営まで、経営の多角化を進めている。




一方、日本に残された砂糖産業も壊滅したわけでなく、砂糖の消費量が増加するにつれ、順次復活を遂げた。

台湾製糖は台糖と名を変え、その後三井製糖に吸収された。一方、明治製糖と大日本製糖は合併し、大日本明治製糖となった。

ちなみに明治製菓、明治乳業は、元々明治製糖の一部門として出発した。その意味では大日本明治製糖、明治製菓、明治乳業はグループ企業といえないこともないが、設立されたのが戦前であり、現在ではグループとしての関係は薄い。
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