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猿が京から

東京から新潟に抜ける道には上越線や関越道がある。どちらも関東と越後のあいだにある谷川連峰を、「国境の長いトンネル」で抜けていくルートである。

しかしトンネルが掘られる前には、道は急峻な谷川岳を迂回し、西側にある三国峠を越えて伸びていた。この道は「三国街道」と呼ばれ、謙信の関東遠征にも使われた古街道である。

三国街道は高崎を発し、上越線に沿いながら、渋川、沼田と北上。後閑から西に進路を変え、赤谷川に沿って三国峠をめざす。峠を越えた後は浅買川を下り、越後湯沢で上越線に合流する。

この部分は江戸時代には参勤交代の行列も通るなど、かなりの賑わいを見せたが、鉄道ルートから離れてからは、見る影もなく寂れた。


猿が京もその一つ。三国峠のふもとに位置するこの地には関所が置かれ、温泉も湧いたことから宿場宿として栄えたという。

「さるがきょう」という面白い名前は、謙信がこの地に訪れたとき「申の日は今日か?」と訊いた逸話から名づけられたというが、おそらくそれは後付けの理由で、もともとは「猿が峡」くらいの意味だったとおもわれる。

今も保存されている関所跡は、箱根関所に比べると小さなものだが、この地区の重要性を時の政府が認識していたことを示している。

関所の向かいは湖になっているが、これは腎臓湖「赤谷湖」である。利根川治水のためにこの地は水没。ダム湖の底にはかつての宿場村が水没している。

幸い源泉は水没を免れたため、村は温泉郷として復活。温泉客、スキー客を集めて再び賑わいを取り戻した。


しかし21世紀になると、小泉改革、平成不況などを受けて、再度過疎が進むことになる。

小泉改革の骨子は自由化、市場経済である。市場経済を生き抜くには、自らの短所をカバーし、長所を積極的にアピールしなくてはならない。

猿ヶ京のウリは温泉だが、周辺には草津、水上という強力なライバルが幾つも存在する。日本三名湯の一つ草津温泉、JR駅に隣接する水上温泉に対し、湯質もアクセスも悪い猿ヶ京は全く太刀打ちできていない。

イオウ分を濃厚に含む、「いかにも温泉に入った気分」が味わえる草津に対し、猿ヶ京の湯質は単純な塩化泉で、味わいに乏しい。特急の止まる水上駅さえ存在する水上温泉に対し、猿ヶ京は後閑駅からバスで半時間以上かけて行かなければならない。

そうなると食事で勝負するなり、送迎バスを設定するなりして対抗する必要があるが、通常、人間は怠惰なものであり、大多数の経営者は努力を惜しむ。

結果、猿ヶ京では数軒の比較的繁盛している宿と、数十軒もの閑古鳥が鳴く宿とに分化してしまった。よくも悪くも典型的な、観光地の実情である。


思うに、日本の観光地には工夫が欠けている。ディズニーランドや世界遺産などの例外を除けば、山か海、温泉に寺社くらいしか、楽しむものがない。

工夫したところで、スキーや陶芸、スパにキャンプ場と、どこに行っても金太郎飴的な娯楽しか、提供できていないように思える。

また下手に工夫すると、素人の学芸会風な観光地に仕上がってしまうことも、珍しくはない。まあ、それはそれでキッチュ感覚を楽しむことはできるのだが、市場競争力があるとは言えない。

重要なのは、その土地の本質に沿ったデザインを統一的に施した町並みやサービスを提供することなのだが、意外なほどそれが出来ていない。

ただこれは日本全体にいえることで、一般に日本人は市場における自分の価値を認識し、その価値を伸ばしたり、勝負軸を設定したり、欠点を補う努力をあまり行っていないように見える。その必要性は知られてきたものの、では具体的に何をしようとすると、権威に頼ったり、周囲に流されたりしてしまう。

受験戦争が激化したり、カツマー現象がはやったりするのも、その流れに乗っているからだろう。一流校出身、公認会計士という権威は、今なお多くの日本人に安心感を与えている。世界が流動化している今、頼りになるのは自らの力であるのに、なおも権威に頼って生き残ろうとする。その点が、日本衰退の最大級の原因といっても過言ではないだろう。


猿ヶ京に戻れば、生き残りは困難と言わざるを得ない。市場価値に乏しいからである。価値は比較優位で決まるが、温泉の点でもアクセスの点でも、比較劣位にあるからだ。

それでも価値を上げようというのなら、三国街道という歴史資産を利用する方法がある。つまり外観を歴史的町並みに揃える、というアイデアだ。京都、鎌倉、川越、馬籠、銀山など、幾つもの都市がその手法で成功を収めている。

ただそうした所では増改築の自由が制限されるという種々の束縛があり、それを嫌って町が一つにまとまらないなど、必ずしも前途は容易ではない。

アクセスにおいても、高速道の千円化を利用し、東京からの送迎に積極的に取り組むべきだろう。草津温泉も鉄道駅から遠いが、高速バスが整備され、東京から日帰りできるほどにサービスが良くなっている。


その種の工夫と努力を積み重ねて行けば、生き残りは不可能ではない。。。が、キャパシティなどから考えて、生き残るのはほんの一部の旅館だけだろう。

大競争時代においては、一握りの勝者だけが生き残る。そして残りは勝者の下にひれ伏し、雇用される側に回る。

つまり地方においては一部の中核的観光地に集客がすすみ、残りの観光地の従業者は、その中核地に雇用されていくだろう。地方のひとたちは、必死にこの流れを押しとどめようとしているが、おそらくこの流れは逆転させることはできない。(鎖国でもしないかぎり)

むしろその流れを是認し、被害を最小におさえたり、流れに乗って新たな雇用を生み出したほうが生産的だろう。

そのなかで中核観光地では大規模な歓楽街や娯楽センター、過疎地では豊かな自然、秘湯を楽しめる設備をつくるなど、役割分担が進められて行くだろうし、またそうでなければ衰退に歯止めはかけられないだろう。
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東方明珠電視塔

上海は観光地に乏しく、豫園や南京路くらいしか見るものがなかったが、近年新たに展望台が加わった。東方明珠電視塔である。

180px-Shanghai_oriental_pearl_tower.jpg

この468mのテレビ塔は94年に竣工し、世界三位、東洋一位の高さを誇り、展望台も設置されている。

がこの展望台、入場料がかなり高い。100元(1400円)もするのだ。もちろん二本ならそれぐらいはするが、中国の物価水準からすると、高価なもの。上海の平均年収は3.5万元≒50万円。都市平均で3万元、農村平均は5千元になる(ちなみに日本は300万円)。

だから上海市民ならともかく、農民にとっては年収の1/50の入場料で、日本でいえば6万円に当たるとんでもない額だ。

しかも展望台は高中低と3箇所あり、100元というのは一番低い展望台の入場料でしかない。上に行くにつれ、中は135元、高は150元と値段が跳ね上がる仕組みになっている。恐るべし、上海商人。


入り口でチケットを買い、中に入るとディズニーさながら、行列整理柵が一面に並べられた巨大な待合室が眼に飛び込む。客は十人もいないのに、この巨大さは何?と思う。

建てられて15年を経て、物珍しさもなくなって観光客も減っていると思われるが、それでも柵を残しているのは社会に染み付いた官僚制の悪癖なのか、それとも休日はもっと人が多いのか。

やたら揺れるエレベータを降りると、そこは展望台。展望台は球体というおもしろい形をしている。設計者はこれを「真珠」と称しているが、赤茶色に塗られているので真珠というよりは、「ダンゴ」に近い。この球体が2、3個縦に連なっているので、なおさら「串ダンゴ」にみえてしまう。

「東方明珠塔」と名づけられているところを見ると、コンセプトはオリエント(というより中華)なのだろうが、この種の伝統主義はたとえば京都のローソク・タワーに似て、どこか恥ずかしい。

京都タワー

さて、ダンゴからは360度、上海の風景がたのしめる。上海は長江デルタに開けた街で、清代までには城壁も築かれていた(豫園あたり)。ただ長江下流の都市としては、隣にある蘇州のほうが栄えており、上海は1地方都市にしか過ぎなかったのである。


しかし19世紀に開港されると上海は急速に発展し、市内を貫く黄浦河を中心に栄えていく。その河岸には外国の商館が立ち並んだため、ここを外灘(外国人の河岸)と呼ぶようになったとされる。

外灘の西側・南京東路は一大繁華街になり、上海の中心を形成。周囲には競馬場、新世界(歓楽街)などが設けられ、1920~30年代は上海の絶頂期であった。

だがその後、日中戦争・国共内戦で上海は衰退。新中国成立後は中国経済そのものが失速し、上海は停滞期に入る。

上海が発展を再開させるのは、90年代に入ってからだ。広東で成功を収めた開放路線を上海に導入。長江交流路が、太平洋という国際交流路に出合う位置にある上海は、中国の経済中心としての地位を取り戻していく。

市街は急速に拡大。用地確保のため、湾岸地域である黄浦河の東側である「浦東地区」が開発され、空港、国際金融センター、団地などが建設された。そしてこの明珠塔も、浦東に建てられている。

都市開発は一段落したとはいえ、来年(2010)の上海国際博覧会をめざし、今も街中到るところ建設ラッシュだ。外灘一体は掘り返され、瓦礫の山となっている。ちょっと見、空襲でも受けたようだ。南京西路では、ホテルや商店の新設・改良工事が真っ盛りで、クレーンが3機、4機と立ち並ぶ。


shanghai.jpg


ただ香港などに比べると、あまり景色は華々しくない。ビルの数などは東京の3、4倍はあろうかと思われるが、それがただ広い長江デルタにのぺーっと配置されているので、おもしろみに欠ける。

おまけに土埃がひどく、ところどころ霞がかかったようになっている。

しかし展望台には仕掛けがあって、床が透明になっていて、下が透けてみえる。つまり地上数百メートルの空中散歩を楽しめるのだ。。。。が、高所恐怖症や、中国のビル管理を信用できない人にはオススメしない。

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この明珠塔も、11年に完成の東京スカイツリー(610m)に追い越され、アジア1の座を明け渡す。スカイツリーはカナダのCNタワーをも抜いて、世界一高いタワーになる予定だ。スカイツリーの設計は東京タワーを洗練させたようなものになっており、よくも悪くも東京人のスタンスを反映させている。

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伝統を保ちながら、西洋技術を活かして発展していこうという「中体西用」上海人と、西洋技術のみならず文明まで取り入れて発展していった「文明開化」の東京人。百年たって、ようやく中体西用の効果があらわれてきたようだ。

テーマ : 中国旅行
ジャンル : 旅行

熱海にて

ええ、買い取ったのは2年前ですよ。いくらかは、ちょっと秘密ですけど、そこそこの金額です。このペンションは築25年。宇佐美にしては、高い建物だったと後で分かりましたが、後悔はしてません。ただ、やはり最初は焦りましたね。早く借金返そう、返そうとかんがえて、ムリして働きました。夏の二ヶ月、ぶっ通しで働いた挙句、寝込んじゃいましてねw。

それからは、バイトの方を入れたり、休みを取ったりしたりしてます。そうそう、明日から3週間、休みに入ります。さすがに古い建物ですから、サマーシーズンの前に手入れしておかなきゃってこともあるんですが、まあそれより来襲出産なんですよw。そうです、臨月です。おかげさまで身体が丈夫なもんですから、寝ているより働いたほうが、楽なんですよ。

宇佐美はいい所です。いえ、私は静岡市出身で、主人は松戸市出身です。このペンションで知り合っての職場結婚なんです。あ、元のオーナーは今は別館の方に移ってます。このすぐ上で。正面にももう一軒ありますが、そちらは休業中ですね。もうこっちも寂れちゃって。

熱海全体が一時はゴーストタウンみたいになっちゃいましたね。なんですかね、時代に付いていけなかったんじゃないでしょうか。熱海はもともと社員旅行など、団体旅行向けに開発された土地ですから、今のように社員旅行しない会社が増えると、きびしいですね。

でも、色々努力はしてるみたいです。新幹線の割引切符を発売したり、ビーチを綺麗にしたり、商店街を整備したり。去年からは不景気のせいか、客足もだいぶ戻ってきました。でも、やはり駅から海岸まで遠かったり、見所がなかったり、高齢化で活気がなくなったりして、「ちょっと良くなった」という程度なんですけど。

熱海さんは「日本のモナコ」を目ざされているようですが、どうでしょうね。大型ホテルや分譲マンションを大々的に建てても、売れないで途中で潰れることが多くて。それよりも、個人を隠れ宿やペンションなど、個人を相手にした旅館のほうが将来性があると思ってるんですが・・・。ただ熱海・伊豆、というのは東京から一時間で来れるという地の利があるんで、やり方さえ良ければ、また復活できるという思いはあるんですけども。

青山墓地

「人間到る処、青山あり」

これは幕末の僧侶、釈月性が書いた詩の一節。漢詩なので、「青山」はセイザンと読み、草木茂る青々とした山の描写だが、ここでは墓地の意味である。

「世の中、どんな場所でも、墓地にするような緑豊かな山があるのだから、躊躇せずに故郷を出て、広い世界で活躍せよ」、というのが、全体の意。

釈月性は尊王の詩を多くものし、維新の志士たちは、それをこぞって口ずさんだため、維新以後、この詩は日本中に流布するようになった。

そのため東京・青山墓地の語源を、この漢詩の「青山」と誤解する人がいるが、それは誤り。青山墓地は、譜代大名・青山家にちなんでいる。

江戸時代、この場所に青山家の屋敷があったのだが、明治以後は、公共墓地として整備されたので、この名前が付けられたのである。

もっとも青山家の土地が墓地となったのには、冒頭の漢詩が全く無関係とは言えないだろう。東京の市政を担ったのは維新に関わった人々であり、彼らが月性の詩を知らなかったとは考えにくいからである。


青山霊園は雑司が谷霊園と同じく、都心部にある霊園だが、雑司が谷と違って、明るいイメージがある。これは、やはり青山という一等地のもたらすイメージに由来するものだろう。

六本木、赤坂、表参道に囲まれたこのエリアは、一等地でありながら緑地が多く、都心にしては長閑な風景が広がる。このギャップを気に入ったのが、佐々木倫子。

彼女は、この青山霊園を「Heaven?」の舞台とし、霊園の真っ只中に開業したフランス料理店「ロワン・ディシー(この世の果て)」の奮闘をえがいた。

作品では、霊園で花見する豪儀な人たち、女主人にいたぶられながらも、それを楽しみとしているかのような鱸(マゾ)石材店、ロワン・ディシーが間借りする霊園事務所「やすらぎ会館」などなどが登場するが、これらは全て実在するw。

最初見たときは驚いたが、墓石の下で酒盛りを交わす人が、存在するのである。それも一人や二人でない。数十、数百もの人々が、死体の上で花見をしている姿は圧巻。

メキシコには「死者の祭り」というのがあり、死者と生者がともに楽しむのだが、この姿を見ると、メキシコ人と日本人は、ルーツが同じなようにおもえてしまう。


泪橋2

前回はこちら


そんな浅草を歩いてみる。

浅草の中心はやはり浅草寺で、その裏手を北上すると、すぐに千束にぶち当たる。千束といっても何のことか分からないかもしれないが、改名以前の名前は「吉原」。その名残で、今もソープランドが軒を連ねている。

ただ新宿・歌舞伎町ほどの賑わいは全くなく、東京でありながら地方都市のさびしげな佇まいを示している。行きかう人も高齢者が多く、ひょっとしたら、高齢者専門の店店なのかもしれない。

千束からさらに奥州街道を北に行くと、日本堤に入る。ここが先ほど紹介した「山谷ドヤ街」である。こちらも旧名を嫌って、1966年に改名されたが、今でも安宿やビジネスホテルが軒をつらねている。もっともこちらも余り人通りはない。

中心部は「いろは会」と呼ばれるアーケードだが、ここはうかうかと散策できない商店街である。というのは路上で「寝ている」人が多いからだ。



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それも新宿などのようにダンボールを敷いて申し訳なさそうに寝転がっているのでなく、あたかも自分の正当な権利かのように、堂々と布団を敷いて寝ている。昭和レトロな商店街とあいまって、雰囲気はほとんど「修学旅行」か「社員旅行」。

実は「いろは会」の後ろ側はドヤ街で、そのドヤに入る金もないホームレスが、アーケードに屋根がついているのを幸い、布団を並べて宿泊しているのである。

商店街の面子もそれを嫌うでなく、ホームレスらも食糧や必需品を商店街から買い入れるなど、持ちつもたれつの関係が成り立っている。

東京ではその場合「立ち退き→再開発」、という流れになることが多いが、そもそもこのアーケード自体、シャッター商店街で、開いている店の方が少ない。店主の方もどこか投げやりで、その日を凌げればいいという考えのようにみえる。


このままでは早晩、商店街は消滅すると思われるが、日本堤という立地自体は、上野から1,2キロと交通の便がよいため、跡地にはマンションやビジネスホテルが場外れのキノコのように、にょきにょき生えてきている。

ただここに住むには多少の勇気がいる。

何しろ、買い物に出るにも路上の布団や、(花見でもないのに)酒盛りしている車座をかき分けないとならないのだから。

また他の場所と違って、ここのホームレスらもいやに眼光が鋭く、次々と歩行者にガンを飛ばす。それを知ってか、住民らは自転車に飛び乗ってそのガン付けを交わすのである。おそるべし、山谷。

アンテナショップ・ふくい南青山291

「291」とかいて、「にくい」・・・ではなく、「ふくい」と読ませる。

この憎いセンスの建物は、南青山は喜多流会館の後ろにある。辺りは高級ブティックや結婚式場などが立ち並ぶ、ファッショナブルな一角。

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この洒落た小物ショップのような建物が、「ふくい南青山291」だ。建物自体はひじょうに小奇麗に設計されており、どこぞのヨーロッパの建物と言われても違和感はない。

ただ残念ながら、中にはそれほど洒落た物は置いていない。福井の名産という木工や漆器、刃物。あるいはソバ、カニ、コンブなどが、だらだらと陳列してあるのみ。

それを知ってか、人ごみでごったがえす青山にありながら、この建物には客は自分しか居ない。そしてその客の4倍ものスタッフが、後ろで見張っているので、おちおちグッズを手にとってみることもできない。

あきらめて二階に上がると、そこは図書室と、商工業会の集会所となっており、業界員らしき初老のおじさんがノートパソコンを打っているのみ。上がるなりギロリと睨み付けてくれるので、これまた長居はむずかしい。

ほうほうの呈で退散したが、「アンテナショップ」という割りには、ちょっとも売ろうという気が感じられないのが、福井らしいと言えば福井らしい(←失礼なw)。

せめても少し、魅力的な品物を置いてくれれば良いのに、建物が素敵なだけにもったいない。

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1960年代、東京の過密に悩んでいた日本政府は、研究学園都市計画を発表する。これは東京に集積した研究施設を地方に分散することで、過密を解消しようというものだ。

富士山麓や赤城山麓が候補地に選ばれ、最終的に筑波山麓に決定したのだが、よく考えてみると、おかしな点がある。というのは研究を主体とする街づくりは雇用が確保しづらく、せいぜいが2,30万人の人口移転しか、期待できないからである。

現在、研究学園都市に住む研究者は1万人強で、家族や支援人員を含めても、数万~十数万人程度の人口しか、移転していない。東京からの人口移転という面から言えば、筑波研究学園都市計画は、完全な失敗だったのである。

その点を捉えてこの計画を批判する声もある。だが、実は研究学園都市の目的は人口移転ではなく、「跡地利用」にあった。

筑波に移転した東京教育大学(現・筑波大学)、土木研究所、農業試験所など、全部・一部移転した研究所は多く、その跡地は都市開発に利用されたのである。また理化学研究所、高エネルギー研究所など、都内では拡張が難しい研究所の幼稚確保も、筑波の大きな目的であった。


しかし計画は、地元住民の強い反対に出会うことになる。

同時期の国家プロジェクトには「成田新東京国際空港」があるが、成田・筑波の両者に共通した問題は、「地元民の軽視」にあった。計画はほとんど国と地方トップの間でのみ進められ、実際に用地を提供する農民らほとんど寝耳に水のまま、強制的に「地上げ」されることも、たびたびだったという。

結果、千葉・茨城では反対運動が盛り上がり、成田は今なお滑走路が全通できない状態に、筑波は当初の計画から大幅に縮小するというハメに陥ってしまったのである。

今日、筑波を歩くには、車か自転車が欠かせない。反対運動を受けて計画が縮小、変更され、研究施設が飛び飛びに散在し、相互連絡がうまく機能していないからである。研究学園都市の目的であった「研究者相互の交流」も、十分に果たせているとは言いがたい。

その上、東京からのアクセスの不便さが、この両施設には災いする。

成田空港には早々に京成電鉄が支線を延ばしたが、線路は空港手前で途絶。乗客は一度降りて、バスに乗り換えなければならないという理不尽さを強いられた。

それでも、鉄道が通じている分、成田はましであり、筑波には東京から通じる鉄道は一本も通らなかった。東京からは常磐線で土浦へ行き、そこからバスに乗り換えるか、高速バスを利用するかしか、無かったのである。


1985年、筑波万博が開催されると、筑波の認知度が大きく高まり、それにつれて、そのアクセスの細さもクローズアップされるようになった。そして筑波に新鉄道を通す「第二常磐線」のプランが、現実味を帯びることになる。

第二常磐線のアイデアは、すでに70年代から存在していたが、高度成長期の終わりとともに下火になった。しかしその火は消えたわけでなく、80年代のバブル景気で再着火する。91年には第三セクター方式で運営会社が設立され、94年には着工の運びとなった・・・のだが、そこにバブル崩壊の荒波が押し寄せる。

建設は紆余曲折を繰り返し、一時は工事中止もささやかれる中、予定より5年遅れ、漸く05年に開通にこぎつけた。首都圏最後の長距離路線と呼ばれる、「つくばエクスプレス」の誕生である。

テーマ : 国内旅行
ジャンル : 旅行

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つくばねの峰よりおつるみなの川こひぞつもりて淵となりける   陽成院


百人一首でお馴染みの短歌だが、意味は「筑波山より落ちる川が積もって淵となったように、私の恋心も積もり積もって淵のように深く淀んでしまった」。

詠み人の陽成院は平安中期の上皇で、清和天皇の息子。清和源氏の事実上の創始者であるが、政治的には恵まれず、時の実力者である藤原氏の怒りを買い、10代の若さで引退、上皇にさせられてしまう。だから称号も陽成「院」なのである。

しかし彼は優れた歌人だったと言われ、度々歌合せを催したという。その中で披露されたであろうものが、冒頭の歌である。


ここでは「つくばね」つまり筑波山が詠み込まれているが、これは筑波山が歌垣の舞台だった故事による。歌垣とは、いわば歌による集団見合いで、男女が求愛の歌を掛け合うというもの。お互い気にいればカップルの出来上がりとなる。

このような歌垣は日本各地で行われたが、関東平野では筑波山が有名であった。それはこの山が関東では珍しい独立山なこと、男体山、女体山の2つの峰があること、によるものらしい。

元々、筑波山周辺には、古くから人が住んでいた。東には当時海であった霞ヶ浦があり、古代人はそれを漁業や製塩、交通などに利用していたと伝えられている。

ヤマトタケルが来訪したり、万葉集にも歌われるなど、筑波山一帯は常陸国の一大センターとして機能していたことがうかがわれる。


その後、中世になると霞ヶ浦は内陸湖と化し、製塩業は廃れていくが、交通の要衝としての地位はむしろ強まったらしい。

筑波山といえば、ガマの油が有名だが、単なるカエルの軟膏なら、筑波産に限る必要もなかったろう。カエルは日本全土にいるのだから。だがその中で、筑波のものだけが全国に行き渡ったのは、霞ヶ浦を利用した水運によるところが大きい。筑波ではないが、鹿島の剣術もまた、そういう文脈の中で全国に広がって行ったものと、おもわれる。

近代ではこの一帯は大都市・江戸向けの近郊農業が盛んになり、とくに醤油の名産地として知られた。筑波で生産された醤油もまた、霞ヶ浦や利根川を伝い、江戸に回送されていったのである。


明治以後には、鉄道(筑波鉄道)が敷かれたり、陸軍飛行場が開設されたりするものの、基本的には一地方都市としての範疇を出ることは無かった。

むしろ、茨城県南部の繁栄は、隣接する土浦の方が上だったと言ってもいい。土浦は霞ヶ浦に隣接し、また常磐線が開通したことから、その優位性が高まった。

その常磐線、実は、当初は筑波を通るルートも考えられていたである。常磐地区と東京を結ぶ場合、むしろこちらを通る方が近い。しかしその間には流山、野田、三郷という水運の要衝があり、彼らはこぞって鉄道建設に不賛成であった。

今からすると、のろのろとした水運に頼るなど、愚かなように見えるが、むしろ当時(明治初期)においては、水運の方が盛んだったのである。また西洋の最新技術を導入した新運河など、新機軸も次々に投入され、技術革新も盛んであった。

実際、常磐線開通の9年前には、オランダの技術により、この地区には新運河が開削されてもいる。江戸時代から連綿と続き、真新しく完成した運河を目の前にしては、彼らが鉄道建設に反対するのは無理もないと言える。

しかし常磐線開通後、土浦は海軍基地が置かれるなど、着実に発展していったのに対し、筑波地区の地盤沈下は振興していった。その筑波地域が一変するのは、1960年代からである。

テーマ : 国内旅行
ジャンル : 旅行

江ノ島岩窟

湘南モノレールから歩いて20分ほどで、江ノ島に着く。

江ノ島は天武天皇の時代に開かれたと言われているが、実際に文献に現れるのは鎌倉、室町になってからである。

江戸期にはちょっとした行楽地として賑わい、サイパンやグアムのような地位を占めていたという。江戸から50km弱、往復で二泊三日ほどの旅だったことが、「東海道中膝栗毛」などから窺える。

参拝客は江ノ島に鎮座する「弁財天」が目当てだったという。江ノ島の弁財天像は良く言えばリアル、ありていに言えばエロチックに造られており、エロ動画などなかった時代のこと、わんさと男性客が繰り出したという。

もっとも弁才天は中世以後に広まった神であり、それ以前からこの島は聖域として崇められていたようだ。

それは一つには、この島には洞窟があるからである。

島に入り、辺津宮を上り、中津宮を抜け、奥津宮を過ぎる。山道をえっちら登って下る。江ノ島は交通の便が良い割には、昭和な雰囲気が色濃く残っている町であり、最近ではそれを逆手にとって、「ピンボール」や「射的」なども置かれるようになった。

海の見える場所はことごとく海の家が置かれ、暗い室内から、呆れるほど明るい海がのぞける。欧米人や中国人らしき外国人観光客が行きかう。その脇の急階段を降りると、岩屋である。

江ノ島は地質がもろく、南岸は太平洋に面しているので侵食を受けやすい。侵食された場所は細長い岩窟となり、古来から信仰の対象とされた。(お隣の鎌倉では岩山に穴をあけて、堂や墓を造る「やぐら」という習慣があったが、それと関係しているようだ)

昭和46年に落盤事故があって以来、立ち入り禁止になったが、平成5年に安全装備を施して復活。中は照明はあるものの、ほとんど真っ暗。蝋燭を貸し出してはくれるが、ほとんど役に立たない。

天井がやたら低く、何度も頭をぶつける。暗いのでスリリングというより心もとない。富士の鍾乳洞と良くにているが、実際、この洞窟は富士山まで繋がっているという伝承がある。

本当に江ノ島から地下を通って富士山まで行った人がいるのかもしれないが、それよりも江ノ島信仰と富士信仰は、岩窟信仰という接点があったと見た方が近いだろう。

現在後悔されているのは第一・第二の二つの岩屋だけだが、周辺にはまだ岩屋が散在しており、往時の繁盛ぶりがうかがえる。

テーマ : 国内、史跡・名勝巡り
ジャンル : 旅行

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