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ダンス イン ザ ヴァンパイア バンド

ダンス イン ザ ヴァンパイア バンド5 (MFコミックス)ダンス イン ザ ヴァンパイア バンド5 (MFコミックス)
(2008/06/23)
環望

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dance in the vampire band...。おまけに作者が「環」で、狼男がヒーローというので、輪のなかで狼と吸血鬼がダンスするわけのわからんアニメかと思いきや、原作を読むとbandでなく「bund」。

bundとは、戦前に上海に作られた外国人租借地のこと。もともとは堤防やダムを意味するウルドゥ語だったが、上海では海岸通り、海岸沿いの地区の意味として使われた。中国語では「外灘」と称されたが、これは外国人の海岸、という意味である。

この作品は、東京湾岸に設けられた吸血鬼の租借地「外灘(バンド)」。そこを舞台に、吸血鬼と人間との葛藤と共存をテーマにした、割合シリアスな物語である。


狼男のアキラは、幼時より、真祖の姫君ミナの親衛隊員として育てられた。元来親衛隊は4名からなる予定だったが、訓練中の裏切りにより親衛隊は崩壊。残されたアキラだけが、ミナ姫を近侍・護衛することになる。

姫はドラキュラ真祖で最後の女性であり、彼女を殺害すればドラキュラ種族は絶えてしまうため、吸血鬼は誰もが彼女に危害を加えられないという不可侵の力を持つ。その力の上に3有力氏族の均衡が成り立っており、姫の権力は傀儡的なものであった。

その状況から脱するために姫は独立を決意。日本政府の借金を肩代わりする代わりに、拠点として租界を譲り受け、そこに城を築き、配下の吸血鬼らを住まわせることにしたのである。

だが当然3氏族はこれを快く思わず、頭ごなしに租界を作られた日本人もこれに反感をもつ。さらに部下の反抗、吸血鬼に敵対する謎の組織の登場など、事態は四面楚歌。

だが彼女は自分を慕っている臣下のために、独立を敢行。刺客やテロリズム、謀略と術数の渦巻く世界に立ち向かうのであった・・・


東京に「バンド」を設定する、というアイデアがいい。今までにも大都市に租界を設ける話はいくらもあったが、それは大抵上海や香港が舞台。それに大志、今回は東京が舞台。日本の地盤沈下が、フィクション世界でも感じられるようになった。

実際、一世帯500万とも600万とも言われる莫大な借金を肩代わりしてくれるなら、人工島のひとつや二つ、売ってやろうじゃないか、と思う人は意外と多いのでは、とおもう。経済特区や東京湾カジノと同じような発想である。

反面、「国家主権が脅かされる」「吸血鬼が増えると治安が乱れる」などという反対派も多いだろう。吸血鬼=外国人労働力と置き換えると、このあたりの話はぐっと現実的になる。

失われた10年が20年になりつつある日本経済の宿痾(ア)は、人口減である。様々な少子化対策が打ち出されたが、ほとんど功を奏していない以上、それを打開するには外国人労働力の移入しかない、ということも分かりつつある。

だが市民の間には「外国人が増えると治安が乱れる」「外国人に参政権を与えると、国家主権が脅かされる」などの理由で根強い反対論がある。

それを解決するひとつの手法は、外国人居留地を作ることである。外国人を一箇所に集め、そこで働いてもらうか、外で働くときにはID提携を義務付けるというやり方である。珍しい手法ではなく、イスラエルではパレスチナ労働者をそのように扱っている。

もっともこのやり方は基本的人権に抵触する恐れが強い(外国人には人権はない、とする意見はさておき)。それでも、やろうとするならば、素行良好な外国人には居住制限は緩和される、などというオプションがつけられるかもしれない。


作中でも巧妙にその設定が取り入れられ、牙を抜いて「去勢」した安全な吸血鬼は、次第に人間社会と融合していく過程が描かれている。

たとえばバンド近隣の学校では吸血鬼と人間との驚愕となり、お互いが学びあうようになる・・・のだが、つまりこの作品は学園ものでもある。

日本のコミックやライトノベルは、やたら学園が舞台だったり、少年少女が主人公になったりすることが多い。実際の消費者は20代、30代であっても、学園もの、というケースも珍しくないが、考えてみると、これは奇妙なことである。

もしその人が30代なら、職場や家庭での出来事を描いたものの方が、売れるはずなのに、そうでないというのは、そこに理想と現実とのギャップがあるからだろう。

つまり日本人は学生時代を楽しく、自由で闊達な時代と位置づけ、それ以後の時代を暗く辛いものと捉えているようだ。そして大衆文化はその楽しい時代を追及するあまり、アイドルの年齢は大学生から高校生、高校生から中学生、中学生からロリへと、次々に低下していくかのようである。

日本男性にロリ、女性に少女願望が強いというのは、日本で最も優遇されている人種というのは「子供」という、その表れなのかもしれない。


さて、姫は吸血鬼なので、実年齢と肉体年齢が乖離している。身体はロリ。心は大人。このギャップが萌え~要素なのだが、本当の萌えはその肉体描写にある。

幼女で○○なのをよいことに、あれでもか、これでもか、と裸体シーンが登場する。時にはサービス過剰と思われるほどだが、これは作者がエロ作家出身だということに由来する。

環望は1966年生まれで、現在の萌え系統の漫画家らよりも、一回りも二回りも年配である。少年向け、成人向け、分泌家、という複雑な経歴を経て、一般誌に登場したが、そのタッチは昭和昭和しており、正直古臭い印象もないではないのだが、こと、ロリの描写になると、奇妙なエロチシズムを奏でだすのである。

その秘密は「ずん胴」だ。

現在はやりのタッチは、痩身。「百舌谷さん」や「怪物王女」で見られるように、少女の身体というものは、1グラムの負担にも耐えられないかのように、極端に細く細く描写されている。

だが現実の子供というのは、意外に太く、たくましいものである。むろん絵画というものは空想の産物であり、現実にトラわれる必要はないのだが、それでも過度のデフォルメは現実性(およびその一枝としてのエロス)を失う。

実は作者が基本的タッチを学習した80年代においては、あずまひでお、ゆうきまさみ、などに見られるように、少女像というのは太く丸まるとしたものが多かった。その系譜を環は引いており、そのアナクロニズムが却って新しい「萌え」をもたらしたといえる。


物語はそのロリ姫と、狼男の少年との恋愛をもう一本の縦糸としながら、進んでいく。吸血鬼と人間との恋愛は、たとえば「かりん」などに描かれており、どう種族の違いを乗り越えて二人は結ばれるのか、が作者の腕の見せ所である。(まあ結ばれず、サブヒロイン由紀と結ばれる、という展開もあるにはあるが)

しかし姫は少年の出生時より、彼を愛していた、という設定は、少々強引に見える。もちろん幼馴染の恋愛というのはオーソドックスだが、生まれた時からの恋愛、というのは無理があるだろう。

そこに何らかの秘密が仕込んであるのか(前世の因縁とかw)、いないのか。8巻にして謎はまだ解けてないので、まだまだ楽しめそうだ。
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百舌谷さん、逆上しちゃう

百舌谷さん逆上する 3 (アフタヌーンKC)百舌谷さん逆上する 3 (アフタヌーンKC)
(2009/07/23)
篠房 六郎

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当初はツンデレブームに便乗しただけの美少女コミックかと思いきや、二巻で方向が変態に傾き始め、三巻にして変態を突き抜けて愛に至った。

いやぁ篠房、ただもんじゃないなw。

代表作とされる「空談師」や「ナツノクモ」は正直、凡庸な印象しか受けなかった。氏の持ち味というのはむしろ「家政婦が黙殺」で発揮されたような、変態ギャグにある。幸いなことに、「百舌谷」は「黙殺」の延長上にある作品だ。

好意をもった相手には暴力を振舞うという「ツンデレ病」の患者・百舌谷さんは、その病気のせいで肉親からも見捨てられ、養父母の下で暮らしていたが、何しろ親子の愛情も暴力の対象となるため、正常な家族関係を築けずにいた。

学校でも暴力事件を繰り返し、転校につぐ転校の生活を送っていた彼女の前に現れたのが「ドM男」樺島であった。

そのような彼を、当初は単なるSのはけ口として、イジメにイジメぬいていた百舌谷さんだったが、次第に樺島の包容力に惹かれ、終には鯉に落ちるのだが、ツンデレな以上、まともな恋愛にあるはずもなく・・・


読了感としてはツンデレというか、ヤンデレに近い印象を受けた。孤立無援で自ら愛されることを拒否している少女が、愛を取り戻すという、なんてか、むしろ王道ストーリー。

ただちょっとデレるのが早すぎるかな。ツンデレを病気にするのなら、もうちっとやそっとではデレないような。それこそ「ドロヘドロ」のように連載10年にして始めて愛を語るぐらいが、ちょうどいいw。

百舌谷さんが幼女になる経緯というのも、設定を細かくしすぎて面白みを損ねている。それとも闇のフィクサーとか大財閥とかいう大風呂敷には何か複線があるのかな。

上達したとは思うが、まだまだタッチが荒いのもマイナスだ。時々樺島の顔がポリゴン化してしまうのは興ざめ。


もっとも全体としてはよく仕上がっている良作だ。(傑作とまでは言わないが)

百舌谷さんの心理描写も丹念にされており、「気を抜いたら(クラスメートに)とり殺されてしまう」なんて台詞には妙にリアリティがあるw。自分もイジメられた経験があるが、クラスが集団でイジメにかかってきたときには、気を引き締めて心につっかい棒をしないと、折れてしまう。そんな心情をうまく表現している。

愛されたいのに暴力でしか愛情を表現できない、という厄介な性癖は成人男性なら暴行魔としか認識されないが、美少女だと甘美なプレイとみなされるのは面白いところ。まあ結局この作品のキモは、なんといっても樺島君を殴ったあとの、彼女のすばらしい「笑顔」に尽きるわけだ。

マンガ雑誌をよむ

少年チャンピオン~少年誌の中ではイカ娘、三つ巴、バキと一番読んでる雑誌。バキはもう大分前からつまらなくなっているけど、惰性で読んでしまう。父上も丸くなってきたことだし、最後には大円団の可能性も。三つ巴もアニメ化されたけれども、最近パワーがなくなってきた。無敵看板娘の作者は、方向性を探して苦しんでる感じですね。

少年マガジン~ねぎまは、時々チェックしてストーリーを追ってます。ヒマなときは絶望先生も。

ヤンマガ~みなみけ、カイジ。カイジは展開がもたついているというか、変則麻雀編以降、小手先の策に溺れているかんじ。彼岸島は打ち切り的に終わりましたね。以前はユキポンも読んで焚けども、マンネリズム。

ヤンジャン~やはし「ガンツ」でしょう。最終章?突入な割には、展開がスローでやきもきさせられる。タフも長年連載している格闘ものだけど、バキほど傲慢さがないところがいい。あとは美少女いんぱらも目が話せない。

ヤングガンガン~Working!は毎回見てもおもしろいが、とうとうアニメ化。漫画家とアシもポイント高いので、アニメ化の流れか。

モーニング~へうげものはついつい見てしまう。あと時々、西遊記が載っているのでやはり毎号チェック。

スピリッツ~余りめぼしい連載はないが、バーディだけはストーリーチェック。

電撃大王~超電磁砲。苺ましまろは復活するんだろうか・・・

アワーズ~ヘルシング亡きあとは、ブロッケンブラッド、それ町。

近代麻雀~やはりワシズ様の最期はチェックしないとw。

マンサン~静ドン。

星の時計のLiddell

星の時計のLiddell (3)星の時計のLiddell (3)
(1986/10)
内田 善美

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星の時計のリデル

子供のころ、日が暮れるのを見つめていた。
日は傾くにつれ、眼前の丘は赤から紫、紫からプロシアンブルーへと変わっていき、最後に林のシルエットだけが浮かび上がったものだった。

瞬間、わたしはこの世のも一つ奥にある「永遠」というものに触れるのだが、その刹那的永遠性を漫画というかたちで見事に表現してくれたのが「星の時計のリデル」である。


ロシア難民の孫で、欧米を転々としてきたウラジミールは、学生時代を過ごしたシカゴに二年ぶりで戻って、旧友らとの友好を暖める。そして当時の友人、ヒューの無呼吸症候を目にする。

目覚めたヒューは不思議な夢を語る。その夢は洋館の夢であり、洋館の中には少女がいるのだという。少女はヒューのことを「幽霊」と呼び、その「幽霊」がやってくることを心待ちにしていた。

やがてヒューはこの少女を実在のものと思い込み、何とかしてその洋館と少女を探し出そうとする。そして探偵まで雇った結果、その洋館が実在することを突き止める。

早速洋館の持ち主に会いに行くのだが、驚いたことに、その持ち主は彼らが来ることを曽祖父の代から知っていた。百年以上も前に、その館には少女がすんでおり、ヒューが夢の中で出会ったのは、その過去の少女だったのである。

持ち主から屋敷を譲られた二人はそこに住むことにするが、そこで幻の少女との邂逅を繰り返す。少女は「幽霊」なのだが、少女からすると、彼らのほうが「幽霊」だという。つまり少女はこの世とずれた時空に棲む「実在」なのだ。

そして屋敷で寝ているうちに、ヒューは消失してしまう。明言はされていないが、少女の時空に転移してしまったことが示唆される。


この作品を描いた後、作者の内田善美は自身が消失してしまう。漫画界から姿を消し、二度と作品を発表することはなかった。その理由は、「この作品で描きたいことは描き尽した」からだそうだ。

では、彼は何を描き尽したのだろう。

内田の特異な作家で、現実と虚構、物語に複数の時空間が複雑に入り乱れる「万華鏡」のようなその作風は、それ以前も以後も、追随する作家はあらわれていない。

では、その特異な「万華鏡」を使って、内田は何を映し出したかったのだろう。

それは「刹那の永遠」である。内田はウラジミールのロシア、という言葉でそれを表現しているが、ロシア人の孫であっても、ロシアの地を踏んだことのないウラジミールにとってのロシアというのは、実在のロシアでなく、魂のロシアである。

あるいはまだ見ぬ故郷・ロシアという概念を借りた、「永遠の故郷」といったほうが近いかもしれない。

それは手のひらの中に、少年時代のメランコリイから、息を呑むような星空までを封じ込めた高純度なさみしさである。人はそのさみしさに耐えかねて、夜空を旅する存在なのだが、旅のなかで、そのさみしさこそが、自分のもとめていたものだと気づく。


その意味で、この作品は愛の物語などではない。たしかにヒューと少女の求め合いが描かれてはいるが、それはむしろウラジミールの「さみしさ」を掻き立てる黒子の役割しか、あたえられていないことに、読者は気づくであろう。

流れ者としてウラジミールは無意識のうちに自分の居場所、自分の目的を求めていた。彼は住んだことのある町をどれも愛していたのだが、そのような八方美人な愛は所詮、深い愛にはなりえない。

しかし強い愛をもとめるには、ウラジミールは流れに慣れすぎており、彼の愛は、「淡々としたさみしさ」および、それを実現しているヒューに向けられる。彼はヒューを-ソウルメイトという意味で-愛していた。ヒューを通してあけられる「さみしい刹那」を愛していた。

ウラジミールにとって幸福とはヒューとの接触のなかで、日常的に舞い降りてくる天使の永遠であり、そのヒューが消失した以上、彼はまた旅のなかに永遠を求める生活にもどっていく。

そしてウラジミールは、作者・内田の分身なのだ。


内田にとって、創作をする、いや生の目的そのものは、この作品のなかにあった。この作品を描き、読み返すことによって、内田は永遠を生きる。幻想の少女を実在と考えて恋したヒューは、内田のことでもある。

しかしそのような作品を作り出してしまった創作者は、不幸である。以後、どんな作品を作っても、二度とそのような永遠を生きることはできないのだから。ヒューは幻想のなかに転生することができたが、内田にとってはそれは許されない。

そのことに気づいてしまった表現者は、筆をおらざるをえない。筆でなく、日常のなかに永遠性を求めようとするのかもしれない。おそろしいほどの夕焼けを日々見られるのだとしたら、わざわざ絵や詩を書かなくてもいい。表現者の不幸を味あわなくてもすむのだから。

たぶん、当時の内田にとっての世界とは不完全なもので、その不完全を補完するために、彼は「星の時計」を描かなくてはならなかったのだろう。そしてそこで研ぎ澄まされた寂寥を体内に宿して、はじめて彼は世界を完全なものとしてみることが、できるようになったのでは、ないか。

そこで作家は、その筆を世界認識の道具から、世界建設の道具へ切り替えることになるが、あくまで認識に拘る作家は、創作の世界から去ることになる。

おそらく内田もまた、そのような作家だったのだ。

かしまし

かしまし~ガール・ミーツ・ガール~4 [DVD]かしまし~ガール・ミーツ・ガール~4 [DVD]
(2006/07/28)
植田佳奈堀江由衣

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(↑少女のように見えるが、実は・・・)

「かしまし」は、百合もの、あかほりさとる原作、ということもあって、なんとなく自分のアンテナにかからなかった作品だ。

別段、あかほりが嫌いなわけではない。下品、下劣。外道、底が浅い、と批判されがちなライトノベル書きだが、彼の下品さは嫌いではない。

ただ大声で叫びながら家に駆け込んだりの、安っぽい感動話に涙せよと言わんばかりの、あかほり作品の騒々しさ、ガキっぽさが、最近はついていけなくなっただけである。

また自分には百合属性がないので、百合ものを読んでも面白いと思えない。そんなこんなで見過ごしてしまったわけだが、これって、実は半百合ものだったのですね。

主人公はずむ(このネーミングセンスのなさも、あかほりの欠点だが・・)は、実は性転換した少女。その彼(女)を少年時代から愛していた幼馴染と、少女として愛する百合っ娘との三角関係があたらしい(といっても数年前の作品だが)。

つまり主人公は一種両性具有で、読者は少年としての恋愛と、少女としての恋愛の二粒を同時にたのしめるという親切設計だ。


恋愛ものを読むとき、通常(男性)読者は、主人公に感情移入しつつ、嫉妬も感じるというダブルバインドをあじわう。あたるとしてラムちゃんとの恋愛を楽しみながらも、「けッ、あたるのような、いい加減な男のどこがいいんか」という感情をも抑えきれない。

ところが、そんな煩悩まみれの人間にも「かしまし」はやさしい。何しろ主人公に男として感情移入できると同時に、主人公のなかに女性を感じて、(はずむとの)恋愛感覚をもたのしめるからだ。

つまり、通常の作品では、男性読者は

読者→主人公→ヒロイン

という回路を通してヒロインとの擬似恋愛を堪能するが、この作品ではその回路のほかに、

読者→主人公(実は女性)

という恋愛回路も存在するわけだ。

もっともこの構図はBLの構造でもある。BLにおいては、女性読者は

読者→主人公→ヒーロー
読者→主人公

を通して男性キャラ2人との恋愛を同時にたのしむことができる。あかほりもおそらくBLから「かしまし」のアイデアを得たのだろう。


「かしまし」はヒットし、アニメ化もされ、今なお高く評価している読者も少なくない。ただ男性の間に、「百合もの」はあまり流行っていない。百合専門誌「百合姫」(園芸雑誌と間違えるヒトが後を絶たないという)によると、購入者の7割は女性という。

なぜ同性愛-百合もBLも-が女性の間でのみ流行るのか。

男性に同性愛の話を持ちかけると、たいてい「キモい」「興味ない」という反応が返ってくる。何がキモいのか、突っ込んでみると、要するに「男の尻を見ても楽しくともなんともない」、ということらしい。

一見当たり前のことのように思われるが、英米社会では、男性の尻に浴場する男性が1割いるという説もある。また日本でもかつては男色が公認されていた時代もあった。男性の間で同性愛が否定的なのは、日本の現代的特徴であり、普遍的現象ではないのである。

ツッこむと色々おもしろそうな話題だが、ここでは「かしまし」の書評が目的なので、深くは突っ込まないことにしよう。


「かしまし」で秀逸なのは、性転換した主人公の心理描写が、巧みに自然に行われていることだ。普通、この種の「ケレンもの」は、アイデアの面白さにすがってストーリーが進み、心理描写はおざなりにされることが多かった。「マリオネット」や「らいむ」でもその傾向はつよかったといえる。

だが「かしまし」では性転換、死という運命を粛々と受け入れ、悩みながらも後悔しないように行動する主人公の姿が淡々と描かれている。そこにはかつてのあかほりのような騒々しさは影を潜め、丁寧に人間を描写しようとする姿勢がかいま見える。

もちろんその描写はまだまだ底の浅く、紋きり的なものではあるが、SFという突飛な舞台を借りて、極限下における人間性を描こうというのは、現代文学にも通じる思想であり、あかほりも成長したなあ、という感慨しきり。(まあ彼も40代だしな)

惜しむラクは、主人公の愛を受け入れたヒロインが、その愛をどう処理するのかが書けていない点だ。もちろんレズっぷるで生涯を通すというのもアリだが、それにしてはその覚悟に欠けている。

ライバルのほうは、自分の人生を賭けて(命や進学)まで、主人公を愛し抜こうとしているが、ヒロインの方は単に弟いや、妹のように、主人公を愛しているだけにしか過ぎない。恋愛というより、家族愛、姉妹愛にちかいものをかんじる。

まあライトノベルの恋愛感には、その種のものが多いので、あかほりの欠点というのは酷だとは思うのだが。

そらのおとしもの

そらのおとしもの 限定版 第1巻 [DVD]そらのおとしもの 限定版 第1巻 [DVD]
(2009/12/25)
保志総一朗早見沙織

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毎期毎期、数多くのアニメがラインアップされ、ネタ切れしないかとハラハラして見ているがw、さすがに昨今はめぼしい作品が少なくなったてきた。

00年代初頭、世界的なサブプライム景気をうけて日本でもプチバブルが発生。アニメはカネになる、というので、余剰資金がア大量にニメ業界に乱入した。

2005~6年には、当時外務大臣だった麻生太郎が「アニメ好き」を表明したこともあって、ブームはピークをむかえる。

当時のラインアップは、「苺ましまろ」、「ローゼンメーデン」、「ケロロ」、「マリみて」、「プリキュア」、「なのは」、「ARIA」、「ねぎま」、「地獄少女」・・・などがあり、いかに豊作だったかが窺える。

しかし金融危機以後は注目を浴びるような話題作は減り、息切れが心配される事態に陥っているが、今期の「そらのおとしもの」は、その中で気を吐いている一作だ。


平和に暮らしていたスケベな少年・ともきに、ある日「そら」から降ってきた美少女アンドロイド・イカロスが巻き起こす、いわゆる「押しかけ女房だっちゃもの」。(エロ要素が強い点からは、むしろ「ユリア100式もの」に近いか?)

だが、それでは芸がないというので、そのアンドロイドが実は大量殺戮ロボであった、という伏線が張ってある。しかもその戦闘力がハンパなく、日本一国を丸焼きできるほどっつーのだから、「最終兵器彼女」や「エルフェンリート」を彷彿とさせる。

んで、そのアンドロイドの正体は「浮遊大陸(そら)」にすむ、先進人類の工芸品なのだ。そこに囚われている女性科学者(アンドロイドの海の親)が主人公に託したもので、主人公らはやがて彼女を救いに「そら」に上っていく・・・というわけだが、当然作品の醍醐味はそこには「ない」w。

醍醐味はイカロスと、ともきとの掛け合いだ。感情がなく、人間世界にも疎いイカロスの日常は「ボケ」に満ち満ちており、それを主人公が広いあげて笑いにしていく。この「白痴美」は既に様式化されているのだが、やはり笑いと萌えを両立させるのには、センスがいる。

この作品はそれをクリアし、かつほのぼの感とスリル感を高い地点でバランスさせた良作だが、アニメ化ペースの速い角川(「少年エース」掲載)にしては、アニメ化は遅かったといえる。「大人の事情」があったのだろう。


物語は、この世界が空上世界の住民らの「夢」だった、という地点で終わっている。主人公は、彼に恋する少女の夢、もしくは妄想なのである。

少女が目覚めれば主人公は霧散し、主人公が生きながらえようとするなら、少女は永遠に眠りについている必要があるという、ジレンマがそこにはある。

そのような設定の場合、かつては「少女を無理やり覚醒させ、現実に直面させる」、という解決が多かったように思う。「果てしない物語」でも、苦悩しながらも、少年は物語世界から脱出したものである。

(「ナルニア」では、最後に4兄弟は死に、アスランの世界に入り込む。一見現実逃避のようにみえるが、実はアスランの世界こそが真実世界だという含意がそこにはあり、その意味で4兄弟は最後になって、はじめて「現実」に直面したのである)


しかしディズニー映画「トロン」や、板橋しゅうほうの「アイ・シティ」ころから、虚構世界のなかにリアリティを見出して行こうという動きが見られるようになった。いわゆる「Virtual Reality」に基づいた世界観である。

その流れは「甲殻機動隊」や「電脳コイル」などに引き継がれ、今では虚構と現実が入り乱れて世界観が、逆にリアルになってきている。

そうすると、「そらのおとしもの」も、単純に少女が目覚めて「夢でした」、で終わるとも思えない。そこには何らかのドン伝返しがあると、期待したほうがいいだろう。

自分的には、夢の世界たる地上世界が実体化し、トモキと少女が結ばれるというハッピーエンドを描いているが、そうするとイカロスら、トモキに恋するアンドロイドらのラインはどう処理するか、という問題がある。幼馴染の準ヒロイン、そはらの処理も頭が痛い。

「エルフェンリート」はそのヘンをヒロインの自死、という形で解決したが、作者にはそのような安直な形でなく、ぜひとも全員が幸せになるような終わりを用意してほしい。

テーマ : そらのおとしもの
ジャンル : アニメ・コミック

Prison Break 試写会

プリズン・ブレイク ファイナル・シーズン DVDコレクターズBOX1 <初回生産限定版>プリズン・ブレイク ファイナル・シーズン DVDコレクターズBOX1 <初回生産限定版>
(2009/06/03)
ウェントワース・ミラードミニク・パーセル

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Prison Breakの試写会が行われるというので、のこのこ渋谷にやってくる。渋谷は円山町。ライブハウスやパーティ会場が密集している地区だが、その一つ、「Alcatraz」にやってくる。

alcatraz

ここは「刑務所医療レストラン」という世にも変わったレストランで、中には檻や囚人服がdecorateされ、ウェイトレスは「ナース」、食事は「院内食」と徹底されている。

corridor
(檻の中は小部屋レストラン)

もっとも刑務所と医療がごっちゃにされているので、コンセプトが分かりづらい。医療なら医療、刑務所なら刑務所と、しっかり分けて作りこめば、もっと楽しめるものになったろう。

さて、試写会の入りは上々で、当初用意してあった20名ほどの大部屋はすっかり埋まり、急遽、小部屋が準備される。合計30名ほどが入りきって、いよいよ試写会がはじまる。

room1
(死者会場)



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テーマ : 海外ドラマ
ジャンル : 映画

押尾語録

押尾先生、前々から胡散臭い人物とは思っていたが、まさか本当に殺人・麻薬容疑で逮捕されるとは・・・。御塩先生は俳優やバンドを生業としていたが、秀逸なのは、やはりその「語録」だろう。

「押尾学の学は、オレが何かを学ぶんじゃなくて、おまえらがオレから学ぶってことなんだ」
「最高の俺は他人は当然、俺自身も超えられない」
「ベッカムヘアを見たとき「パクられた」って思った」

お塩大先生は、詩人である。詩人というものは、常人とは異なる感性の持ち主だが、「オレから学べ」、「最高の存在はオレ」、「世紀のスターもオレをマネしている」という感性は、常人のソレではない。




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Vinland Saga

ヴィンランド・サガ 7 (アフタヌーンKC)ヴィンランド・サガ 7 (アフタヌーンKC)
(2009/02/23)
幸村 誠

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Vinlandとはバイキングの言葉で「葡萄の地」で、現在のカナダ南部をさすと考えられている。

10世紀、ヨーロッパをところ狭しと活躍していたバイキングは、スカンジナビア半島からイングランド、アイスランド、グリーンランドと西行し、ついにアメリカ大陸にまで達した。

その勲しは叙事詩サーガに遺されたが、これを信じる人はほとんどいなかった。しかし20世紀に入り、ニューファンドランド島でバイキングの遺跡が発見され、サーガの真実性が証明されることになる。

サーガによれば、レイフ・エリクソンなるグリーンランド人がヴィンランドを発見したという。エリクソンは男女を募って入植するが、原住民との諍いなどから入植地は長続きせず、放棄された。

またサーガはエリクソン以外にも、彼の義理の兄弟(エリクソンの兄弟の嫁の後夫)であるトルフィンが移住計画を指揮したことを伝えているが、このトルフィンが物語の主人公である。

といっても物語はまだプロローグを終えたばかりで、トルフィンは未だ農奴状態。7巻まで何をしていたかというと、デンマーク王子カヌート一世の話が続いていた。

カヌートはデンマーク王スヴェン一世の次男だが、トルフィンはこの王子の従者となり、覇業を助けるというのがプロローグの筋書き。

しかしカヌートがトルフィンの仇敵であるアシェラッドを殺してしまうと、トルフィンは復讐の的をなくしてキレてしまい、王子に襲いかかる。死刑は免れたものの、トルフィンは奴隷の身に落とされてしまう。。。

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とろける鉄工所

とろける鉄工所 2 (イブニングKC)とろける鉄工所 2 (イブニングKC)
(2009/03/23)
野村 宗弘

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たぶん佐々木倫子の「動物のお医者さん」が先鞭だったと思うが、世間一般に馴染みのうすい職種をテーマにすえるという漫画の描き方があるが、「とろける鉄工所」も、その伝統の上にある。

なにしろ鉄工所である。何をするのか?鉄を作るのか?鉄を加工するのか?鍛冶屋か?キューポラよりも、さらに普通の人には馴染みがないであろうこの世界を、のぞいて見たくない人は少ないだろう。

そしてこの本を手にとってみるわけだが、そこでは聞きしにまさる恐るべき世界が繰り広げられている。
「溶接光で目を焼く」、
「針金に黒目を貫かれて失明」、
「機械に切断されて指を喪失」、
「鉄粉を吸い込んで塵肺」、
「火の玉が背中に入ってカチカチ山」、
「鉄骨の下敷きになって鼻がもげる」
・・・

想像するだけで戦慄するようなエピソードが、これでもか、これでもか、と投下されるのだが、不思議なことにあまり恐怖感はない。それはこの作品が基本的にコメディで、絵柄もホンワカとしたものだからだろう。

失明した作業員も、「あ、さよか」と、まるで爪でも剥がれたかのように、あっけ羅漢としている。。。考えてみれば、かつての日本では、このような「悲惨」な労働環境があたりまえだったのだが、時代のほうがそれを許さなくなったわけである。

ところが鉄工所のほうでは昔のままに時間が流れているので、現代とのミスマッチがおかしさをかもし出すことになる。つまり、根っこのところで、この作品は「三丁目の夕日」につながるものをもっている。郷愁性とまで言っては言いすぎだろうが、郷愁を外側からみたような、ほのぼの感がある。


また秀逸なのは、キャラクター設計がきちんとなされていることだ。

鉄工所の4人の作業員がメイン・キャラクターなのだが、それぞれ「昔かたぎの職人」、「元ヤクザのム所上がり」、「頼りがいのない新人クン」、「中堅作業員=主人公」ときっちり色分けされており、そこに鉄工所独特の作業ネタが放り込まれて、あとはそれを中心に自動的に各キャラがうごきだす。

この仕掛けは、実に安定的で、長期連載の兆しさえみえる。

またホヨホヨ感溢れる主人公の妻(福満しげゆきの描く妻に似ている)、頑固職人の父を支える娘、太陽戦士サンレッドのような(人は良いが、どこかずれた)社長、など、湧き焼くも手を抜かずに描かれており、物語のリアリティをたかめるのに成功している。

とはいえ、無理やりに感動話にまとめようと、妻や娘の涙ぐむようなエピソードを投入するのは、かえって読者を白けさせてしまう。

「三丁目の夕日」が土臭い感動話の連続でも許されるのは、その泥臭く派手な絵柄や、昭和30年代という虚構の世界や、手っ取り早く感動をもとめたい読者層などがあるためである。

一方、結構洗練された絵柄で、現在という世界設定、笑い(と好奇心)をもとめる読者層がターゲットという「とろ鉄」では、不用意な感動話は不整合な印象をあたえかねない。

泣かせるとしたら、笑いの中で一瞬だけ、刺すようにペーソスを流し込むべきだが、そのような芸当はかのチャップリンでもなければ、難しいのだろう。

世界奇食大全

奇食、ゲテモノというものは、何やら人の心をざわつかせる魔力があるが、この本「世界奇食大全」は、世界さまざまな奇食を試してみた記録である。。。なはずが、実際はほとんどが日本の奇食。しかもネットや先行文献を踏襲しているだけで、筆者独自の取材による奇食はごくわずか。

看板に偽りあり、である。

もっとも、彼だけの問題ではない。この頃は新聞でもTVでも、ネットで「取材」し、それを面白おかしく味付けして「独自の取材」として済ませることが多く、既存メディアの取材力が改めて問われている。

いや、ネットを使うな、というわけではない。ネットを参照にすることには、何ら問題はない。ただ他人のフンドシで相撲を取るな、ということである。自ら苦労して調査する中から、味わいある記事は生まれる。

その意味で、この本が手本としている小泉武夫は実際に現地調査を重ねており、その経験を文章にした著作群からは、ほんとうに彼が食した物の臭いが臭ってきそうな味わいがある。

それに対し、この本の著者は食物をネット注文するだけで、取材するにしても、ほとんどが国内。勝負はすでにあったといえる。

とはいえ、この本が無価値というのではない。独自性、創造性は求められないが、お手軽な奇食カタログというのなら、暇潰しにはなる。

河豚の卵巣(ピリピリ痺れるという・・・)、蠍、毒茸といった「劇薬系」から、馬の腸(糞の味がするという・・・)、シュールストレミング(北欧の臭さは世界一イィィィッ)という臭さ勝負系、さらには「土」「紙」「ゴム(サルミアッキ)」といった本来食物じゃないだろう系まで、すらっとサーフィンするのには申し分ない。

サーフィンと書いたが、そう、この本は書籍というより、ネットの文章をプリントアウトして閉じただけ、というのが印象である。いや、ネットはカラーだし、実際に現地取材している人が多いから、ネット以下か。正直、お金を払ってまで読むものではない、というのが結論だ。

エルフェンリート

エルフェンリート 12 (ヤングジャンプコミックス)エルフェンリート 12 (ヤングジャンプコミックス)
(2005/11/18)
岡本 倫

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究極のヤンデレといえば、やはり、にゅうにゅうwこと、ルーシィだろう。「未来日記」の由乃も名高きヤンデレ女王だが、殺害したのは高々数十人。対してルーシィは数千とも数万とも。

何しろ近寄っただけで、首や胴体が千切れ飛ぶというのだから、桁違いの殺傷力だ。その上致死ウィルスのキャリア、核弾頭なみの破壊力をもつのだから、恐れ入る。

しかしその素顔は心優しい女の子、という作者のあざとい計算にうかうかとノせられてしまうと、涙涙の荒波に転覆させられてしまう。実際、「ハンター×ハンター」の作者はこの漫画に影響されて、漫画を描けなくなったという。

なんというか、被差別者の心理描写が巧みなのだ。簡単にいえば、角が生えているというだけで差別され、実験台にされた少女たちが、その復讐をしようとする話なのだが、結局復讐は果たせないで終わる。

それは彼女たちは実験台にした相手を恨んではいるものの、同時に愛されたいと願っているからであり、その希望が殺害をためらわせるのである。



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静かなるドン

静かなるドン (91) (マンサンコミックス)静かなるドン (91) (マンサンコミックス)
(2009/05/29)
新田 たつお

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連載20年、炭鉱本91巻、発行部数は4千万部という「お化け漫画」だが、面白いのは前半の鬼州組抗争編だけで、後半のジョンロン編、アレキサンダー編になると、坂を転げ落ちるようにつまらなくなるので星4つの評価とした。(前半だけなら星6つなのだが・・・)

特に現在連載中の龍馬編はもはや物語世界そのものが崩れ、惰性で続けている「こち亀末期状態」が続いている。

そもそもこの作品の原型は「水戸黄門」あるいは「スーパーマン」にある。日ごろは冴えないサラリーマンが、実は日本有数の大暴力団・新鮮組総長。

サラリーマン時にコテンパンにやられても、組長になるとオールマイティな強さを見せる、というのが面白さの源泉になっているのだが、後半になると、その面白さを侵食するように物語が進んでしまう。

主人公はサラリーマンとして出世し、恋人とも結ばれ、秘密にしているはずの裏と表の顔も、次第に周囲にばれてしまう。



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未来日記

未来日記 (1) (角川コミックス・エース (KCA129-5))未来日記 (1) (角川コミックス・エース (KCA129-5))
(2006/07/21)
えすの サカエ

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いわゆる「ヤンデレ」と、ぼくらの、デスノート、を足して3で割ったような作品だが、200万部を売った原動力は、ヒロイン・ユノの魅力に尽きるだろう。

愛らしい14歳の少女殺人鬼という倒錯したヤンデレは、「スクールデイズ」「Shuffle!」などでお馴染みなものだが、「未来日記」では、ユノの出自に謎がかけられており、招待不明のヒロインという位置づけが与えられている。

まだ謎はあかされてないので推測になるが、どうやら真のユノは既に死んでおり、主人公と行動をともにしているユノは平行世界から連れてこられた「偽ユノ」なのらしい。

もちろん、真ユノの双子などという別解釈も成り立つが、「底が見えない」ほどの大穴を開けるなど、人間はなれした身体能力は、彼女が「異世界人」だからと考えるのが最もしっくりくる。

ではなぜこの世界に連れてこられたかといえば、彼女を推すムルムルの策謀とおもわれる。次期神の座を窺うムルムルは、自分の息のかかったユノを、ゲームの勝者にさせたいのらしい。(あるいは、ユノはムルムルの生まれ変わり?)


一体に「お互い殺しあって勝者を決めるゲーム」には、嗜虐性や閉塞感がつきまとうが、この作品にはあまりそのような重苦しさがない。それは一つにはユノの萌え属性のなせるわざだが、むしろそれよりも「人間ドラマがない」からだろう。

「ぼくらの」や「イキガミ」は死を目前にした人間のドラマを描くことで成功したが、その反面、運命にはどうしても打ち勝てない、という敗北感や閉塞感をも強くあたえることともなった。(なぜ当事者たちは、力を合わせてゲームのルールを打ち破ろうとしないのだろう?)

一方、「未来日記」では、主人公といえどもその心理描写はおざなりで、ヒロインに至っては過去がすっぱり切り落とされており、ゲームの駒以上の描写はされていない。(作者は描こうとしているフシはあるものの、うまく描けていないのが、むしろプラスになった模様)

また敗者も「バトロワ」のように惨殺されるのでなく、ほとんどの場合、単に消失するだけであり、将来の復活も可能であるなど、RPG感覚の設定が効いて、雰囲気としては謎解きサスペンス・「デスノート」に近い。

実際、本作にはどんでん返し、裏切りが満載で、善悪がたやすくひっくり返る。巻末の引っ張り方も見事で、「ああ、続きが読みたい!」というキモチにさせられるが、この辺りの展開は「24時間」や「ぷりずんブレイク」など、ハリウッドドラマにちかいものがある。


さて、炭鉱本も8巻、生き残りも5人に絞られた(うち2人は既に死亡フラグw)なか、物語は終盤に突入。

最終的にはユキテル、ユノ、そしてみねねの3人のバトルとなろうが、味のある好キャラであるものの、所詮脇役のみねねは早々に敗退、ユキテル・ユノの一騎打ちだが、ユノはすでにユキテルに勝ちを譲った後、神になったユキテルに再生してもらうと決めているので、ユキテルの勝利は揺るがない。

ただそれでは面白くないせいか、先月号(09年6月号)ではデウスがみねねに梃入れし、その脳六の一部を分け与えることとなった。これでパワーアップされたみねねと、ユキテル・ユノの三つ巴の騒乱が繰り広げられる模様。

ちなみに各腫瘍登場人物には、ローマ神話の神々の名前が付けられている。
ユキテル=ユピテル。ローマ神話の主神。
ユノ   =ユノー。ユピテルの妻。嫉妬不快。
みねね =ミネルバ。知恵の神。

ここからしても、ユキテルの勝利は揺るがない・・・

眼鏡とメイドの不文律

眼鏡とメイドの不文律 (Flex Comix)眼鏡とメイドの不文律 (Flex Comix)
(2008/12/11)
TOBI

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眼鏡とメイド。この安直ながらも最強のタッグを組んだのは、TOBI。発行元はソフトバンク・クリエイティブ。「ヒャッコ」「にゃんこい」などを堕している出版社だ。

この会社は「萌え」を前面に打ち出してきており、同系列のヤフーで無料立ち読みできることもあいまって、売上が伸びているご様子。

軽く読めてそれなりに面白く、萌え萌えしちゃう、という3拍子そろった以上、売れないほうがおかしいというもの。各連載もコンスタントにアニメ化もされ、ソフトバンクはアキバ流の配給者としての地位を確立したと言っていいだろう。

ただ余りに編集方針が確立しきっているせいか、作品はどれも小粒で似たり寄ったりな印象がぬぐえない。

パンプキン・シザーズ11

Pumpkin Scissors 11 (11) (KCデラックス)Pumpkin Scissors 11 (11) (KCデラックス)
(2009/04/17)
岩永 亮太郎

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前回はこちら


いつもは半年、時には5ヶ月ごとに新刊が出る「パンプキン・シザーズ」だが、今回は休載がはさまれて、7ヶ月となった。

作画も全体的に荒く(まあ、もともと画がうまい人ではないのだが)、この度は物語の展開がとみに遅かった。哲学的な問題に踏み込み、考えすぎてドツボにはまってしまったようだ。

前々から愛や命、社会不正や正義といったヘビーな問題を扱うことで名を馳せていた本作だが、この「0番地区編」では、「生の意義」という超ヘビー級の問題にぶちあたってしまう。

戦災復興を任務とする陸情三課に対し、復興とはなにか、いつになれば復興が終わるのか、と問うロンダリオに対し、三課の副長たるアリス少尉はうまく答えられない。

如才ない人なら、「復興が終わるのは生活インフラが整ったとき」「幸せになったとき」、とでも答えればいいのだろうが、結構直情的な少尉はそのような返事には満足できない。インフラが整っても、生きる気力が湧かないカルッセルのような都市もあるし、「幸せ」なんていうのは一義的に国家があたえられるものでもない、と思い悩む。


しかしスラム街で生きる孤児らと生活をともにするうちに、アリスなりの答えを掴むにいたる。

その答えとは、「戦災復興とは、人を再び戦えるようにすること」。

「戦う」という語句が曖昧なので、かなりアバウトな返答だが、筆者の意味するところ、「人はつねに勉学や恋愛といった人生上の戦いを戦っているが、戦災はそのような戦いを実行不可能にする。戦災復興とは、そのような戦災による障害を取り除け、再び人を自らの戦いに立ち向かわせること」

この考え自体は、ソーシャルワーカーの理論を流用したものだろう。それによれば、ソーシャルワーキングとは人を教え導くものではなく、その人自身の生活がうまく機能するように手助けするもの。人生の意義は人それぞれだから、一介の人間や国家機関が教条的にそれを指導することはできない。できるのは、その意義に向かうことをヘルプするのみ、ということだ。

まあ、言われてみればそうだし、実際そうする以上にないのだが、やや消化不良な感は否めない。

このような冒険活劇については、も少し人生の目的的なモデルをいくつか提示し、その上でキャラクターを動かして成功・失敗を繰り返させて、人生の意味を考えさせるほうが読了感がある。

その意味で11巻は、結論を急ぎすぎたようにおもう。人生の意義など、20巻目、30巻目でようやくほの見え出したぐらいで丁度いいのだ。まあ「ガラスの仮面」まで行くと行きすぎだが。

死亡の塔

ブルース・リー 死亡の塔 [DVD]ブルース・リー 死亡の塔 [DVD]
(2001/08/10)
ブルース・リーウォン・チェン・リー

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73年にブルースリーが急逝した後、皮肉にも彼の人気は世界的に高まり、彼の映画を望む声が後を絶たなかった。

そこで未公開フィルムと、代役タン・ロン(唐龍)らが演技したフィルムを繋ぎあわせて作られた「なんちゃってブルースリー映画」が、「死亡遊戯」である。

リー本人が登場するのはラスト10分ほど。後は照明を落としたり、サングラスをかけさせたり、後姿や真上から撮影したりして、あたかもリーが演技しているかのように見せかける、実に香港人のアイデアと機知をたっぷり堪能させられる作品にしあがっている。

しかしこのトンデモ映画、日本などで大ヒット。これに気をよくした製作元・ゴールデンハーベストは、二匹目の泥鰌をねらう。それが「死亡の塔」である。


今回もブルースリーの未公開動画を軸に、代役をたてて凌ごうという考えだったが、そのリー動画がほんの1分しかなく、これでは100分映画に仕立て上げられないことが判明したのは、最早クランクインして後のことだった。

(70年代当時の香港映画界では、満足なシナリオもなく、行き当たりばったりに映画が撮影されることが多かった)

そこで監督は「主人公を殺す」という暴挙に出る。なんとこの映画、主人公が登場してから30分足らずで死んでしまうのだ。そしてその後は、弟が出てきて、兄の仇を討つという抱腹な物語が展開される。


弟役に抜擢されたのは、「死亡遊戯」で代役をつとめたタン・ロン。後半は彼を主演に、ストーリーが進んでいく。

弟は兄殺害の情報を追って、日本を訪れる。そして銀座のクラブに行くという設定だが、どうみても「歌舞伎町」。後ろに「コマ劇場」があったり、今は亡きキャバレー「クインビー」の看板があったりする。

なぜ銀座に行かず、新宿で撮影したかは疑問だが、ひとつには新宿界隈には華僑がおおく住んでおり、彼らを頼ってロケが行われたのが理由らしい。

今とちがってLEDや蛍光灯が普及していなかった70年代、日本の繁華街の照明には白熱電球やネオンがおおく、夜景は赤く紅いものだったが、それは丁度、赤色を尊ぶ中国人の感性にマッチしていた、というのも理由だったようだ。(実際、香港の看板照明は、赤系統がほとんど)


歌舞伎町 銀座のキャバレーでルイスなる武道家の情報をつかんだ弟君は、早速その男の道場へおもむく。

道着は空手服でいいのだが、日本の道場なのに、道場主ルイスは欧米人、道場はどうみても中国の寺廟。道場の庭はサファリパークになっており、孔雀からライオンまで出てくるカオスさ。

(もっとも香港にはタイガーバームガーデンというカオスを極めた庭園があり、それに比べればまだまだ発想が正常なのかもしれぬ)

そのライオンに弟君は闇討ちされるのだが、これも獣にしては不自然な動きで、中に人間が入っているのがアリアリ。

全体的にこのころの香港映画はチープな作りなのだが、それが却っていい味を出していておもしろい。それはそのチープさの中に、創意工夫や汗臭さ、人間臭さ、ひいてはその時代背景までもが感じらとれるからなのだろう。

ライオンの襲撃と前後して、主人公2はルイスの愛人にも襲われるが、この愛人、全裸で登場するのだが、そのおっぱいが垂れ垂れな上、化粧がまたケバくて、まるで「香港フラワー」。

「香港フラワー」というのは60、70年代の香港名産。もう今では目にすることもないが、あまりにチープなビニール製の造花、原色ハデハデな造花に、なにか、場末のストリップ劇場のような、切なさと可憐さと、居直ったしぶとさが見て取れたものだった。


さて、垂れ乳女の襲撃をも逃れた弟君は、いよいよルイスと対決・・・かとおもいきや、ルイス君も殺害されてしまう。

そして弟は真犯人を追って、「死亡の塔」があるという寺にやってくる。

前作「死亡遊戯」では、やはり猛者の集う塔があり、ブルースリーはその猛者を倒し倒してラスボスにいきつく、という話だったので、ここで大抵の人は「クライマックスだ」と身構えることだろう。

しかし心配はいらない。

というのは主人公は塔など登らず、「地下」にくだっていくからだ。しかも「エレベータ」に乗って。

するするとエレベータが地底に着くと、そこは007映画(当時流行っていた)のような秘密基地。そこでスパイさながらに暗殺拳を駆使して、次々に敵を倒していくのだが、そこはタン・ロン。やはり無様なカンフーではある。

リーのような華麗さ、繊細さ、カリスマがない。敵を踏み潰すにせよ、リーの足さばきには、音楽的、女性的ともいえるほどの魅力があったが、ロンにはそれがない。ただ力まかせに蹴りだすのみ。たたきつけるのみ。

だが、この映画のターゲットたる当時の香港一般市民は、教育水準も低く、単純な肉体労働者がおおかった。彼らにとっては、そのような単純さが、かえって心地よかったのだろう。


原始人風の小ボス、僧侶の中ボスを倒したタンロンは、遂にラスボスに出会う。ラスボスはマフィアの首領で、麻薬取引を邪魔した兄を排除せんと、殺害におよんだのだった。

怒りに燃える弟君にたいし、ラスボスは日本刀で立ち向かうが、やはり日本人でないせいか、刀の持ち方が中国風。

重い青龍刀をあやつる中国剣術は、金づちや斧を振り回す要領で斬りつける。斬るというより叩きつける、といったほうが近いかもしれない。

その要領で日本刀を振ると、日本刀は軽いので、空回り、上滑りしてしまう。案の定、その隙をタンロンにつかれ、ラスボスは敢えなく最期をとげるのであった。

が、この映画、興行的には散々で、以後二度とブルースリー映画が製作されることはなかった。

WORKING!!

ヤングガンガン ブック・イン・CD WORKING!! Vol.1 (ヤングガンガンブック・イン・CD)ヤングガンガン ブック・イン・CD WORKING!! Vol.1 (ヤングガンガンブック・イン・CD)
(2007/01/25)
高津 カリノ霧海 正悟

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「WORKING!!」は、北海道在住の不健康漫画家・高瀬カリノの作品。

ファミレス「ワグナリア」を舞台に、傍若無人な女店長、それを愛する百合娘チーフ、ロリ娘のウェイトレス、女装癖のあるボーイなどなど、変態的 個性豊かな面々が活躍するバイト4コマ。

女主人と、その被害を蒙る主人公のボーイという組み合わせは、佐々木倫子の「HEAVEN?」に似ており(ちなみに佐々木も北海道出身)、それにロリ萌え、女装、姉萌えなどをスパイスにふりかけて、食べやすくされており、まったりと読める。

行方不明の妻を捜すマネージャーなど、ちと設定が凝りすぎている面もあるが、男嫌いで男と見れば殴りかかる暴行娘を設定したのは正解。

男性客と絡ませて、食器を「お下げしてよろしいでしょうか」、の代わりに「お殴りしてよろしいでしょうか」と言わせるのは秀逸。

さらに女装少年と絡ませての、倒錯した恋愛もツンデレ風味が引き立って味わい深い。

も少し評価されていい作品と思うが、いまいちそうでないのは、掲載誌「ヤングガンガン」がマイナーなせいなのかもしれない。

アンサイクロペディア

まだWikipediaがそれほど流通してなかったころ、色々な記事を書いたのを覚えている。

当時ハマっていた、論理実証主義や実存主義など、哲学思想のかなりのセクションを書いたし、歴史認識論争や、台湾論もいろいろと記した。

なかでも台湾のセクションは「注目すべき記事」として表彰されたものだが、wikiが大きくなるにつれ、あまり書き込みをしないようになった。

というのは、一つにはwikiが巨大化し、自分の書いた記事がすぐに消されてしまう、ということが度々起こるようになったからだ。

特に慰安婦や南京虐殺など論争ものでは、編集合戦になると、すぐにアクセス制限がかかって編集禁止になってしまい、「自由にものをかける」というwikiのよさが霧消してしまった。

またwikiそのものも制限がきつくなり、きちんとした出典がないものは、即座に「独自研究」として削除の憂き目に遭ってしまうようにもなった。

初期のwikiは優れた視点や、軽やかなユーモアが入った記事が多く、自分も「風呂屋の研究」や「Japan - アメリカ第51州」などのジョーク記事をものしたものだが、これらも抹消されてしまう。

抗議しても「wikiは百科事典で、独自研究の場ではない」と一蹴される。「百科事典としても独自の観点は必要」と反論しても相手にされず、結局wikiとは距離を置くようになったのである。

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見果てぬ(はるな)愛

長らく、「はるな愛」を女性だとおもっていた。

正確には、女性だろうが男性だろうが、どうでもいい泡沫タレントだとおもっていたのだが、先日の金スマで、彼女の壮絶な女性化手術をみて、おもしろいタレントと見直すようになった。

うかうかと(それを目論んだ)ディレクターや、芸能プロダクションに乗せられた気がするので、あまりいい心持ちではないがw、これだけ壮絶だと、何か芸術的、スポーツ的なものすらかんじられる。

彼女が整形などの女性化治療にかけた費用は6千万円。楽に家が一軒建つ金額だ。もちろんその金額が真実かどうか分からないが、男性が女性になるには、少なからぬ努力と金銭が必要だったことは事実だろう。

それは映画監督が見果てぬ夢を追いかけて作品に大金をつぎ込んだり、野球選手が理想の体力を求めて手術を繰り返したりするのと似ていて、ある種の執念と根性をおもわせる。

通常、夢は手に届かぬもの、眼に見えないものが多い。また手に入れてもすぐに飽きてしまう、つまらないものでもある。

しかし彼女の夢は自らの肉体にあり、日々手に届く、具体的なものである。そしてそれは毎日変化し、決してその持ち主を飽きさせない。

そのような存在に人生の目的を見出した彼女は-幸せなのだろう。苦難を経て安定期に達した彼女のどっしりした存在は、往年の大女優にも似た安定感すらかんじさせる。


その一方、不安定さをかんじさせるのが、インタビュー役のベッキーだった。

最近ではTVでベッキーを見ない日の方が少ないぐらい、出ずっぱりで、本人も「テレビがだいすき」「日常生活にテレビをもちこんで24時間バラエティ放送したい」などと発言し、周囲もそれを「タレントの鑑」として誉めそやしているが、ちょっとまて。

横から見ると、それは単に「バラエティ番組に洗脳された小娘」にしか見えない。

自分の意見や考えを持たず、テレビ局が利用しやすい、視聴率を稼げるタレントは、人間というより「家畜」に近いものがある。

バラエティにすり潰されて眼の下にクマを作っている彼女を眼にすると、その思いがつよくなる。

実際、それほどテレビに尽くしても、売れなくなれば、あっさりと切られるだけで、ベッキーの前任者たる、優香だの加藤紀子だの観月ありさだの、トコロテン式に、「若ければOK」とばかりに押し出してくる日本の芸能界にも問題がある。

その裏には女子高生を頂点とした、日本独特のセクシャル・ピラミッド構造があり、アニメなども高校生を舞台にすることが多いのだが、この不思議な現象の分析は、また後日w。

イムリ

イムリ 5 (BEAM COMIX)イムリ 5 (BEAM COMIX)
(2008/12/25)
三宅 乱丈

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「ぶっせん」の三宅乱丈が挑んだ、壮大なSFファンタジー。

奴隷民イコル、原住民イムリを従えて、惑星マージに君臨する支配民カーマ。カーマは心を操る超能力を使ってその支配を保っており、超能力を鍛錬するために、有能な子供を寄宿学校に学ばせていた。

新入生・デュルクは入学曹操、その優秀さから士官候補に抜擢され、カーマの故星・ルーンに派遣される。そこでデュルクはカーマ同士のクーデター騒ぎに巻き込まれ、その過程でカーマの過去と、自らの運命-自分が被支配民・イムリであること-に目覚めていく。

実は4千年前には逆にカーマはイコルの奴隷であり、イコルの兵隊として、対イムリ戦争に使役されていた。しかしカーマはイムリから超能力を学び取り、その力を使ってイコルとの権力闘争に勝利。さらに惑星全体を氷付けにしてイムリに打撃を与え、自らは隣星マージに逃げ込んだ。

その後、ルーンでも氷が解け、カーマの支配が行き届くようになったが、イムリはしぶとく抵抗を続けたため、カーマはイムリを人体改造を施して獣兵とし、野に放ってイムリを襲わせるという、「毒をもって毒を制す」戦略を採用してその抵抗を抑え込んだ。

カーマはイムリの絶滅をもくろんだが、不死の術、大量殺戮の術を駆使するイムリの超能力はすさまじく、その数を間引きすることで、コントロールしようとしたのである。

しかしその事実を知ったデュルクは激しい怒りを覚え、カーマ専制の改革を志す。。。


まあストーリー自体は、「マージナルな存在である主人公が、自らの出自と能力に覚醒して、世を救う」類のもので、萩尾モトやナウシカなどと幾らもかぶっており、目新しいものではない。今後の展開も大体読めてしまうのだが、特筆すべき点は、三宅のタッチ。

「ぶっせん」「新撰組」で見せた、女性にしては雑で泥臭い描写が、実に「イムリ」の血なまぐさく、土俗的な舞台背景とマッチする。

超能力「光輪」の描写も、下手糞ながら(だからこそ)、妙な迫力があって迫ってくる。

あと、「ぶっせん」のレオ君や、つまんだ先生とそっくりなキャラクターが登場して、おもわずニヤリとしてしまうw。支配民族カーマは、坊主コスチュームに身を包んでいるので、なおさら。

イコルを洗脳して奴隷としたり、イムリを獣兵に改造し、使用済みになったら焼却処分にしてしまう極悪非道なカーマ。ナチスやオウムを彷彿とさせる身勝手さだが、じつはその超能力に支配され、人間らしい心を失っているのはカーマ自体だ。

そうデュルクはカーマを糾弾するが、その主張は素朴な心、原始の心を失い、ITに支配されている現代人への批判にも聞こえる。

鉄腕バーディ Evolution

鉄腕バーディー EVOLUTION 1 (ビッグコミックス)鉄腕バーディー EVOLUTION 1 (ビッグコミックス)
(2009/02/27)
ゆうき まさみ

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掲載誌「ヤングサンデー」が潰れたのを汐に、15巻以降のだらだらした展開を一旦打ち切り、舞台を3年後に設定。再開したのがこの「鉄腕バーディー Evolution」だ。

大学生だった姉はずみはOLに、高校生だった主人公は浪人生にw、それぞれ「進化」していたが、進化していたのは人間だけでなく、「人形」こと高性能ロボットもまた、戦闘力を進化させていた。

狂気の人体実験科学者・氷川が遺した生体データをめぐって、テロリストのクリステラ・ラビ一味が蠢動をはじめる。ラビは虐げられている人類型宇宙人・イクシオラの解放のため、武力として地球人類を兵器(=獣人)に改造する計画を進めており、氷川実験はその一環だったのである。

しかしその蠢動をジャーナリスト・室戸に嗅ぎ付けられ、助手として室戸に関わっていた主人公もまた、ラビ一味と再びあいまみえる。。。


今回もまた、バーディーのナイスバディ(死語)と活劇がふんだんに盛り込まれた一冊となっているが、カツモクすべきはストーリーテリングがうまくなったことだろう。

氷川との対決終結以後、温泉行ったり、アニメ化されたりして、「バーディー」は方向を見失っていた感があったが、「Evolution」ではその疑いを払拭。連載当初の店舗とリズムを取り戻した。

方向感を失ったのは、「テロと社会正義」という重いテーマを底面に据えていることが一因でもあるだろう。社会的に圧殺され、テロという手段に訴えるしかないラビと、彼に賛同する一般市民。そのラビを取り締まる側にありながら、自らが被差別人種であるバーディー捜査官。テロはもちろん悪だが、それを生み出す社会悪は放置してよいのか。

その入り組んだ状況を考えると、おいそれとラビを倒しておしまい、という単純なエンディングは用意できなくなる。といって、バーディーが銀河連邦に乗り込んでイクシオラの人権を認めさせる、という筋書きでは啓蒙書になってしまう。

「あ~る」のナンセンスギャグから、「パトレイバー」の社会派へと進化していった、ゆうきまさみも、はや50代。人間としての成長をしめすようなEvolutionを見せられるかどうか、試されるところでもある。

Steel Ball Run

STEEL BALL RUN vol.16―ジョジョの奇妙な冒険Part7 (16) (ジャンプコミックス)STEEL BALL RUN vol.16―ジョジョの奇妙な冒険Part7 (16) (ジャンプコミックス)
(2008/09/04)
荒木 飛呂彦

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JoJo第六部は現代アメリカが舞台だったが、第七部は時代を遡行して19世紀アメリカに焦点が当てられる。Italicなデザイン感覚をもつ荒木からいうと、モダンアメリカよりも、近代アメリカの方が彼の感性に近いので、この舞台設定は納得の行くところ。実にイキイキとした活写、また活写がつづく。

もっとも第七部と銘打ってあるものの、1~6部とは直接の関係はない。確かにディオ、ジョジョ、ツェペリ、シュトロハイムなど、お馴染みのメンツは揃い踏みなものの、これは「ジョジョ」に設定を借りた異世界ものである。

異世界でなければ、ハンプティダンプティのような子供大人が大統領になれるわけもない。当時のアメリカ社会は、政治家に男らしい外観を求めていたからである。

荒木ワールドはその画力、デザイン性、プロット、どれをとっても一流だが、惜しむらくはリサーチがたらず、時々世界観に穴があく。すると途端にJoJo Worldが矮小な作り物に見えてしまい、興ざめしてしまう。

とは言え、第五部イタリア編を凌ぐ、極度にデフォルメされた「スタンド作画」は今回もスロットル全開で、飛ばしすぎた挙句、構図が把握できないこともしばしばw。

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寿司屋の品格

昨年の世界的インフレ時はネタ高騰、今年のデフレ基調ではコストカット。いずれにせよ、寿司屋を巡る経営環境は厳しくなってきており、それにどう対処するかで、その店の倫理観も見えてくる。

「元気寿司」などでは、寿司を小粒に小粒にすることで、コストを圧縮している。マグロなど、カンナでこれでもか、これでもか、と削ったかのような薄さである。削りすぎた挙句、1.5貫でやっと一貫分の量になり、食べても食べてもお腹がいっぱいにならない。

「おたる寿司」の方は、ネタの小ささもさることながら、高価なネタは心して回さないように心がけているようで、いつ行ってもカッパや卵ばかり。下手するとプリンやメロンまで流れてくる。頼むにしてもインターフォンを通しての形なので、伝達ミスが多く、面倒になって、安ネタで済ませてしまいがちだ。

その点、「カッパ寿司」ではタッチパネルで注文できるようになっており、気軽に注文する気持ちにさせられる。もっともネタがあまり新鮮ではなく、食べてウマイと感じることは稀ではあるが。

大阪商人の「スシロー」は、回転寿司にしてはネタが新鮮なのだが、醤油皿なし、というのも食べづらい。もっとも回転寿司のみでなく、一般に外食では経費削減が進んでおり、お絞りや紙ナプキンなどの備品が昨年一年を通して、大分セコくなった。

海外だとストレートにコストアップ分を商品に添加するケースが多いのだが、日本の場合、それよりも量や経費を削ることでコストアップを吸収しようとする業者が多い。製造業の場合はそのおかげで成功したが、外食産業の場合、逆に客足を遠ざける結果になってしまっているように見える。


一方、もっとランクが上の回転寿司屋でも、景気の波は押し寄せている。

中でも「銚子丸」は要注意だ。この寿司屋はうかうかしていると、こっそり高いネタを忍ばせてくる。先日も「普通のあわび」を頼んだら、勝手に一番高い「三陸アワビ」を押し込んできた。抗議すると、「あ、違うんですか?でも三陸の方がおいしいよ」、といけしゃあしゃあと押し付ける始末。

この店は皿によって値段が違うのだが、黒が普通、黒に金の飾りが500円、のように色の違いが分かりにくく、うっかり地雷を踏んで泣きを見ることがある。また「作業中はオンステージ」と、寿司屋をディズンーランドか宝塚のように間違えており、ワァワァと騒がしくて落ち着いて食べていられない。

とはいえ、一般の板前寿司でも、そうそう落ち着いていられない。

御徒町には安くておいしい「河童寿司」があるのだが、何しろ目の前に板前がおり、早く食え、早く注文しろ、とプレッシャーをかけてくる(ような気がする)ので、オチオチ食べてもいられない。下手に安いネタを頼むと機嫌が悪くなるし、茶の飲み方からガリの置き方にまで文句をつけてくる。

そんなこんなで、結局スーパーで寿司を買ってきて済ませてしまう、今日この頃なのである。

キモい歌

WBS(東京TVのビジネス番組:ワールドビジネスサテライト)のエンディングを飾る歌がある。「誰も彼もみんな繋がってる~ユニバース♪(ウフ)」、という歌詞なのだが、どうもキモくてキモくて、キモ過ぎるあまり、いつも最後まで見れずにチャンネルを変えてしまう。

調べてみると、歌名は「UNI-VERSE」。歌い手はASKA。先日分離したチャゲアスの片割れだ。

チャゲアスは嫌いではなく、どちらかというと好きな方なのだが、この歌はどうも好きになれない。何が気に食わないかといえば、「自己陶酔」がキモチわるい。まずは歌詞を見てみよう。

   僕も君もみんな みんなそうさ
   誰も彼もみんな みんなそうさ

もう出だしから、「お前はそうかもしれんが、オレは違うぞ」、とツッコミたくなるような歌詞である。おいおい勝手に仲間にしないでくれw。歌詞でさえ十分にキモいのだが、これにラリってるかのような節が付くと、さらにキモさが倍増すること請け合いである。そしてサビで

   心のなかでつながってる UNI-VERSE

と、ひとしきりユング的な共同無意識を説いたあと、最後には

   星を見上げて ひとりになってしまう

と冷徹に突き放すw。その上「なってしまう」には、「なってしまぁうぅぅ~」とこれまた妙な節が付いて回るので、身の毛がよだつような不快感をも与えてくれる。


字面だけでは、この歌の「真価」をうまく表現できないのだが、どうもASKAさんは麻薬でもやって、共同無意識の世界にはまり込んでしまったかのような印象を強くしてしまう。

みんなみんな、繋がっている世界。強烈な連帯感、陶酔感と、それが醒めたときの孤独感。その大麻チックな世界観をそのまま歌にしたかのようで、「万里の皮」や「YA-YA-YA」のころのエネルギッシュで強靭な歌とは別物のようだ。

しかし真にキモいのは、この歌や歌い手そのものというより、これを評価する人が多いという点。

amazonなどの評価サイトでは5つ星。もっとも評価サイトは、業者の自己宣伝が入るため、正確な数字はでないと言われる。が、一般でも絶賛しているブロガーは少なくないようだ。そもそも、高視聴率を誇るWBSが、この歌を採用しているのである。

ひょっとしたら、日本は自己陶酔の国になっているのかも、しれない。

水曜どうでしょう

「水曜どうでしょう」は、HTB(北海道テレビ)の深夜バラエティ番組である。

深夜バラエティといえば、「電波少年」が懐かしいが、「水曜どうでしょう」もほぼ同時期に放映され、ともに「旅」を基本コンセプトにした番組である。

電波が無人島やらユーラシア大陸横断やらをすれば、水曜も負けじと喜界島やらマレーシアやらに遠征する。その意味では水曜は電波の二番煎じとも言える。

もっとも全国放送たる「電波少年」はキチッと編集され、松本明子やサンプラザ中野などの豪華な芸能陣も投入されるなど、予算をふんだんに使った番組作りがなされているが、「水曜」の方はもう低予算、赤貧としか言いようのない作りをしている。


製作スタッフわずか4人。出演者は北海道ローカルタレント2人のみ。それでは余りに盛り上がらないので、同行ディレクターが随時カメラに割り込んでくる始末。

また移動手段も酷い。深夜バスや原付は序の口で、果ては徒歩やリヤカーまで出てくる。宿泊も宿泊で、ホテルで4人タコ部屋なんてのはまだマシで、テント、野宿は常套手段。

極めつけはマレーシアはジャングルにある小屋「ブンブン」。ベッドは人油でアブラギッシュ、電気が通じてないから電灯も冷蔵庫はおろか、エアコンもない。常夏のマレーの熱気に煽られながら、パンツ一丁で一晩過ごす辛さを評して、「拷問」「刑罰」などのセリフが出演者の口からほとばしり出る。

さらに夜中には「マレートラ」が出没しw、人っ子一人いない小屋はパニックに陥る。大騒ぎするもの、マットレス(笑)でバリケード作り出すもの、自分だけは助かろうとするものなど、人間の醜さをタップリ堪能できる仕様に仕上がっている。


実はこの番組の面白さは、企画そのものと言うより、企画をめぐっての4人の掛け合いにある。待遇が悪いとボヤく出演者、毎回無茶な企画を投下する発案者、裏方という存在をすっかり忘れて番組に出演しまくるディレクター、肝心要なときに映像が撮れないカメラマン・・・

TV界の常識では、「平均以下」のこの4人が織り成すサークル的なノリが、人気の秘密だったと言っていい。

また出演者の大泉がぬきんでている。グリコのCMなどで全国区の有名人になった彼だが、その原点たる「水曜どうでしょう」では、彼の飾らない魅力を味わうことができる。

そして若さに任せて暴走しがちな大泉を、その上司たるミスターが手綱をひいて制御するという配置の妙が生きる。

そこにディレクターがちょっかいを出して、ミスターをも暴走させ、予想のつかないドラマが展開される。


残念ながら定期放送は既に終了し、今ではスペシャル枠でしか放送されないがDVD自体は入手できるので、現行の下手なバラエティを見るぐらいなら、こちらを見た方が人生、楽しくなれること請け合いである。

また大泉は「一生どうでしょうします」と明言しているので、今後のシリーズ展開にも注目したい。

テーマ : 水曜どうでしょう
ジャンル : テレビ・ラジオ

ヘタリア

ヘタリア Axis Powersヘタリア Axis Powers
(2008/03/28)
日丸屋 秀和

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「801ちゃん」に続いて、「ヘタリア」も放送中止が決まった。

中止の理由は明らかにされていないが、「ヘタリア」は国家を擬人化して笑いを取っているため、TV局がリスキーと判断したのではないか、と言われている。

実際、韓国では反「ヘタリア」の署名活動や、国会での質疑応答などが行われており、無駄な摩擦を避けたいTV局としては、やむを得ぬ措置だったようだ。

日本ではそれを「言論への弾圧」「反日韓国」「韓国に媚び諂うマスコミ」などと批判する声もあるが、「ヘタリア」では韓国は「中国・アメリカ追随」「傍若無人」などと描写されており、これを見てムッとする韓国人もいるということは、想像に難くない。

実際、この著作は、「イタリアは臆病で食い意地が張っている」、「ドイツは融通がきかない」、「アメリカは単純バカ」など、微妙な描写に満ちており、数年前に起きたイスラム教風刺画事件を思い起こさせる。


2005年、デンマークの日刊紙に、イスラム教開祖・ムハンマド(=モハメド)の風刺漫画が掲載された。

その漫画は、「ムハンマドのターバンが爆弾になっている」、というもので、あたかもイスラム教徒=テロリスト、のような印象を与えかねないもの。

これに反発したイスラム諸国はデンマーク政府へ抗議。デンマークのイスラム団体も、その日刊紙に対し「宗教を侮辱した」として訴訟を起こした。

しかしデンマーク当局は、「風刺画は中傷ではない」、として訴えを却下。渦中の日刊紙も、「風刺画が許されなければ、宗教を批判する自由がなくなる」として、掲載撤回を認めなかった。

それを受けてイスラム諸国ではデンマークに対するデモ、テロ、不買運動が展開され、酪農製品などを中東に輸出していたデンマーク経済は大打撃を受ける。

またNY Timesのインタビューに、日刊紙編集長は「キリスト教への風刺画だったなら、掲載しなかったろう」と失言。欧米に潜むダブルスタンダードが露になってしまい、結局、デンマーク首相は「表現の自由は大事だが、宗教を風刺するのは行き過ぎ」と、事実上の謝罪宣言を行い、漸く事態は沈静化に向かった。


しかし、宗教を巡る欧米世論は二分され、今なお決着を見たとは言いがたい。

首相のようにリベラリズム、国際協調の観点から、表現の自由・報道の自由には自制は必要、とする意見もあれば、いや、自由は尊いもので制限されてはならない、とする意見も根強い。

もちろん後者でも、自由は無制限に許されるものでなく、中傷誹謗はダメ、と制限をつける人は多いから、単純な二元論ではなく、図式化すれば、以下のようになる。

精神の自由は無制限に守られる
 ↓
A)でも中傷はダメ
 ↓
B)上に加え、宗教への嘲笑もダメ
 ↓
C)宗教については自由はない

つまり、デンマークで起きたこの事件は、欧米ではAとBとの対立、欧米・イスラム世界ではA、B、C三つ巴の争いだったわけである。

そしてその背後には、欧米とイスラムがもつ相互不信があるとも指摘されている。


さて、この図式をヘタリア事件に当てはめて見ると、宗教を国家や民族に置きかえれば、日本国内でもABの相違があることが分かる。なんとなれば、「ヘタリア」は国家を笑いのタネにして楽しもうという趣旨の漫画だからである。

むろん、そこには先の事件ほどの風刺性・嘲笑性はないが、笑われたことがある人なら分かるだろうが、「笑い」というのは笑う本人は無邪気であっても、笑われた方は往々にしてそれを「嘲り」と取ることが多いキケンな表現である。

そこには中傷の影、誹謗の芽が潜んでおり、それを繰り返し読むことで、知らずのうちに読者には、差別感情が植えつけられるという副作用もある。

といって、これを国家権力で白金処分にしてしまうと、表現の自由が圧殺されてしまいかねない。宗教や国家は笑い飛ばすことで、無化・相対化できる、という意見もあるからだ。

そこで社会への影響の大きいTV局はヘタリアを中止し、サブカルチャー的な一部放送局や紙メディアでは続行、という結末を迎えたと思われる。デンマークと比べると、この波風を立たせず、実をとって調停を図るという対応は、なかなか日本的で面白い。


当のヘタリアはというと、実は余り面白くなかったw。確かに国家を擬人化して楽しもうというアイデアは秀逸なのだけど、それ以上でもそれ以下でもなく、いずれネタが尽きれば、存在自体消失してしまう予感。

また、上でも書いたが、外国人から見ると不愉快に思うだろうな、という描写が多く、「日本はこんなに差別的な国なんですヨ」という印象をもたれかねない。

まあ欧米でも「民族ジョーク」(一番の幸福は、日本人の嫁をもらい、中国料理を食べ、アメリカの家に住む事。一番の不幸は、日本の家に住み、中国人の嫁をもらい、アメリカ料理を食べること。)が横行しているので、この種のジョークが許されると思っていたのかもしれないけども。

皇国の守護者

皇国の守護者 (1) (ヤングジャンプ・コミックス・ウルトラ)皇国の守護者 (1) (ヤングジャンプ・コミックス・ウルトラ)
(2005/03/18)
佐藤 大輔伊藤 悠

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突如。

「北海道」への奇襲攻撃によって、なす術もなく蹂躙される「日本」軍。怒涛のように押し寄せる「ロシア」軍。その前に立ちはだかるのは、サーベルタイガーを戦力に組み入れた「剣虎兵」であった・・・

という紹介文から分かるように、これは史上の日露戦争ではなく、それを下敷きにした架空戦記。この世界では、地にはサーベルタイガーが跳び、空には龍が舞い、地には導術兵(超能力を使う通信兵)が存在する。

その中で孤児ながら名家に養育された、野卑にして尊大、小心にして大胆という、屈折した心理をもつ剣虎兵隊長・新城中尉の活躍と苦悩が描かれていく。

圧倒的軍勢の前に崩壊していく日本軍。司令は真っ先に逃亡し、敗残兵は南端の砂浜に集結、そこから本州に渡ろうとするも、折からの悪天候でうまくいかない。そこで新城隊は「捨て駒」として、本隊を無事に逃がすまで、敵の足止めをすることを命令された。

600の兵に対し、ロシア軍は4万。この絶望的な戦いに際し、新城は焦土作戦を展開し、敵軍の兵糧を断とうとするも、不完全に終わり、包囲され全滅。ただ足止めは見事に成功し、新城自身も降服して捕虜となった。

そして二月後には釈放され、本国に帰還の運びとなるが、その間もロシア軍は着々と本州制圧の軍備を整えつつあり、新城も迎撃軍の一員として、再び戦場に降り立つ。ロシア東方軍と、日本全軍の総力戦が始まる・・・のだが、実はここで連載が打ち切られてしまったw。

人気は上々、作画担当の伊藤もノリノリだったため、原因は原作担当の佐藤にあった、と噂されている。曰く原作と設定が食い違ってきた、曰く漫画の方が人気があった、曰く妻に漏らした悪口が、回りまわって作画伊藤の耳に入ってしまった・・・・

理由はともあれ、久々に見る優れた戦闘漫画であったので、連載再開が望まれる一方、以後の展開は荒唐無稽かつunreal(皇女を愛人にするとかw)になっていくので、この地点で終了した方が、あるいは良かったとも思える。



舞台設定はファンタジーながらも、戦闘や虎のdetailは丁寧に押さえられており、それがリアリティとなってこのファンタジーを支えている。戦闘オタク佐藤の緻密な描写に加え、作画伊藤の才気を感じさせるカット割り、シーン描写は一軒の価値あり。

孤児にして名家の出、卑屈にして傲慢、猛獣使いにして英雄、兵への愛情こまやかにして死命を下す、という複雑屈折起こした新城の人物像も、チビの三白眼+卑しい笑顔と、いかにもな描写をくだす伊藤の画力には脱帽だ。

もっとも注文もないわけではない。

確かに佐藤の戦術に関する描写は史実に則っており、合理的で迫力あるが、戦略・政治的にはおかしなポイントがいくつもある。

たとえばまともに補給をせずに進撃するのは、近代軍のやることではあるまい。作中では現地調達で糧食を補った、とあるが、寒季の北海道に4万からの軍隊を支えきれるだけの食料がある、というのも痛い設定だ。ましてや近代軍は火薬弾薬が不可避であろう。

そもそも日本を占領して、何のメリットがあるのか。本作では、日本が低価格で海運を行った結果、ロシア商人を怒らせた、という設定になっているが、それでは侵攻理由としては些か無理がある。実際の戦争というものは、もっと野蛮で、生々しい憎悪や怨恨が元になっていることが多いからだ。


付け加えると、日本では司馬史観の影響か、「ロシアは日本を侵略したに違いない」という意見が支配的に思える。だから日露戦争は聖戦だった、というロジックだ。

しかし良く考えて見ると、ロシアにとっては日本を手中に収める動機が薄いのである。

当時、ロシアが狙っていたのは対中貿易の利権であった。そのために大連港を押さえたのだし、シベリアに鉄道を引いたのである。従ってロシアがほしかったのは満州であり、できうればその近接地である華北や朝鮮だったのであり、日本はその視野に入っていなかったと考えるべきだろう。

倫子はそのまま!

チャンネルはそのまま! 1―HHTV北海道★テレビ (1) (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)チャンネルはそのまま! 1―HHTV北海道★テレビ (1) (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)
(2009/01)
佐々木 倫子

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「HEAVEN?」以来、ひさびさの佐々木オリジナル。舞台も初心に帰って北海道。

獣医学生、看護婦、ボーイと、日ごろ接触の薄い職業の舞台裏を描くことに定評のある作者だが、今回の職業は「TV報道記者」。

おバカでエネルギッシュな女性新人記者を主人公に、優秀で生真面目な青年記者をサブに配置したあたりは、「おたんこナース」の設定とおなじだが、「女丈夫」たる似鳥(「おたんこナース」主人公)に比べると、今回のヒロイン・雪丸花子は小動物っぽさが加味されている。

その小動物性には、たとえば「HEAVEN?」でのコミドラン(使い走り)河合君を描くことで、培われた要素が込められており、バカ枠記者に配偶される「プチプチ」(クッション役)青年記者の諦観には、やはり「HEAVEN?」は伊賀君の諦観が混入され、新人アナには同じく伊賀君の超人的冴えがコピーされているようである。

このように佐々木ワールドの集大成となった今作で、バカ雪丸、まじめプチプチ、超人女子アナ、お天気部長、など、個性溢れる人物を配置してのドタバタ喜劇は、佐々木の得意とするところで、長年のファンとしては安心して見ていけるぶん、新しさには乏しい。


どうせ雪丸がそのバカさを活かして、困難を乗り切ってハッピーエンドなるんだよな、と結末が予測できるし、じゃあキャラを愛でて楽しもう、とするも、それぞれのキャラが今までの佐々木キャラとかぶってみえて、うまく感情移入ができない。

ヒット作を連発しすぎた副作用ともいえる贅沢な悩みだが、佐々木倫子、もう50に手が届こうかという年齢なのである。巻末の自画像漫画でも、いきなり自画像に皺が描きこまれ、骨粗鬆症になった旨が記されている。

この年齢でこれだけの質とパワーを維持し続けられるのはスゴイが、やはり一つの転換点であるように思う。何となれば、手塚も石の森も、50前後が前期・後期を分けるメルクマールであった。当時、手塚は少年漫画から劇画漫画への転換についていけず、スランプに陥っていたし、石ノ森は石ノ森でSFものから人生ものへの転換を模索した挙句、改名までしている。

佐々木もこのあたりでギャグからシリアスへの路線転換を図るのではないか。

そう思わせたのが前作「月館の殺人」だが、今作でその見方は否定され、変わらないのである、「倫子はそのまま!」

まりあほりっく

大体がだ、ヒーローによるヒロインいびり、という構図は「ネウロ」辺りから始まったものだが、未だに自分は好きになれない。

ツンデレはデレがあるから萌えるのであって、ツンだけでは単なるいじめとしか見えない。

そんなわけで、「まりあほりっく」。折角、双子の入れ替え劇、男装・女装など、いくつもの妙味を持っているのだが、いずれも宝の持ち腐れ化してもったいない。

ヒーローの鞠也に感情移入できない以上、感動エピソードも空々しく過ぎてしまう。

そんな駄作を救っているのがヒロインのパワーである。宮前かなこ。変態、汚物、ドブネズミと罵られながらも、めげずに妄想百合路線を突っ走る姿に、すがすがしさと潔さを感じてならないのは、わたしだけだろうか。(反語表現)

しかし絵柄といい、暴走妄想といい、「ハレグゥ」によく似ているなァ・・・

まりあ†ほりっく3 (MFコミックス アライブシリーズ)まりあ†ほりっく3 (MFコミックス アライブシリーズ)
(2008/07/23)
遠藤 海成

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テーマ : まりあ†ほりっく
ジャンル : アニメ・コミック

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