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美しい日本の貧困

日本の貧困率は、先進国の中では、アメリカに次ぐ高さだという。OECDの調査(08年)では、加盟30か国中、日本はメキシコ、トルコ、アメリカに次ぐ堂々の第四位。政府発表でも07年の貧困率は16%となっている。

もっともこの貧困率は「相対貧困率」(平均以下(厳密には中央値)の可処分所得しか得られない人々の割合)なので、これをもって日本=貧困大国とするわけにはいかない。実際、もう一つの代表的な貧困指数であるジニ係数では、日本の値はそれほど突出していない。(厳密には格差指数だが)

とはいえ、ホームレスや貧困者の増加、デフレ、給料引き下げなど、貧困化の現象はすでに顕著なものとなっており、かつての総中流社会が崩壊したことには異論はないだろう。


たしかに渋谷を歩いていても、きちんとお洒落をした若者のなかに貧困を嗅ぎ取るのは難しい。たとえばアメリカでは貧困層と富裕層ではファッションも行きつけの店も異なるので、両者を見分けるのはたやすい。これは階層分化が長年に渡った結果なのだが、実は日本でも戦前はそうであった。

いわゆるお嬢様・お坊ちゃまの行く学校などは、庶民にはとても入ることが許されないものであったし、そもそも学校に行けない・行かない層も存在していたのである。(田中角栄は小学校卒であった。注:その後専門学校には行っている)

これから類推すれば、適切な手が打たれなければ、現代日本でも時がたつにつれて文化が進み、階層文化が定着してくるものと思われる。現状の均一文化は、実際にはかなり崩れつつあると見るべきだろう。


しかし「適切な手」といっても、打つ手が乏しいのが現状である。子供手当て一つとっても政権は大揺れに揺れているし、事業仕分けは節税効果はあったものの、それから必要資金を全て捻出するのは難しい。

44兆円にも達した国債に頼ることができない以上、残るは増税となるが、消費税への抵抗は依然根づよい。むしろ労働組合が支持基盤の民主党政権下では、法人増税や(富裕層への)所得増税の可能性のほうが高い。

富裕層への課税強化は格差緩和には役立つが、企業への課税強化は企業競争力の低下を招き、下手をすると一億総貧困に陥りかねない。月100万円の利益で5人の従業員を雇っている会社に、課税を強めて利益が80万円となったとしたら、1人の従業員はクビにしなければ、ならない。

パイを公平に分けるのも重要だが、パイ自体を拡大させることも必要なのである。


そもそも日本の貧困化・格差拡大の根本原因は空洞化にある。空洞化の後を経済のサービス化・知識集約化でうめようとしたが、英米ほどうまく行かなかった上に、第三次産業での雇用は二次産業よりも少ないために、失業や低賃金が当たり前の経済構造になってしまったのである。

では、というので空洞化を押しとどめ、生産拠点を日本に戻す動きが07~08年ころには見られたが、その後の急激な円高、政府規制の強化などから、再び海外移転が盛んになっているという。かつての移転はより高い利益を得るのが主目的だったが、今では死活問題-「日本にいてはやっていけない」のだ。

また空洞化が長期化した結果、日本の技術力が低下しているのも否めない。その技術力を支える技術者や匠がもてはやされているものの、実際にその道に入る若者は少ない。給料が低く、辛い修行・勉強が続き、危険さえ伴う世界は流行だけではやっていけないのである。

実は空洞化は韓国・台湾でも起きた現象であり、両国は大きな打撃を蒙ったが、投資先の選択と集約、世界規模の部品調達力などを通して復活した。

その背景には「アメリカに留学しなければ一人前ではない」と言われるほどのアメリカ追随がある。韓台は国内市場が小さく、日本以上にアメリカを意識しなければ生き残れないため、アメリカに眼をむくのは当然だが、結果として、英米流のスピーディなシステム思考が根付き、果敢な投資戦略と、飛行機をバス代わりにする世界感覚で、強固な地盤を築き上げた。


翻って日本では、今なおビジネス=金儲け=さもしい、という清貧の思想がつよく、草の根レベルでの資本主義が根付いていない。3人集まれば商売の話をするという中国人には、とても敵わないのである。

技術力で勝負するにしろ、急速に技術力を身に付けた中韓が後から迫ってきており、日本が目玉とするナノテクやロボットも、本格的に事業展開する金のタマゴというより、研究者のための研究という批判がつよい。そしてその裏にはやはりビジネス=悪、研究=善という資本主義蔑視が見え隠れする。

そのような悪癖は改めなければならないが、一度停止されたスパコン予算が復活したように、改革は乳として進まない。またシステムが変わっても、人間の信条や習慣は一夕では変わらない。

そうこう考えると、日本の貧困というのは構造的・習慣的なものであり、数年で解決されるものでないことが見えてくる。これまで、政府や識者は貧困をどう解決するか、という根治療法を論じてきたが、これからはむしろ貧困の存在を前提として、そのなかでも死なないようにするという対症療法を論じることになるだろう。


ひとつの試みとしては、「相互扶助」の復活、が挙げられる。

ルームシェアを通して家賃や光熱費・食費の低減を図る。マイクロクレジットを利用して、資金を融通する。カーシェアリングで交通費を下げる、ネットオークションをつかって機具の購入費・処分費を抑える、といった試みがすでに始まっている。

とくにネットを通じた緩い人間関係がウリのオークションは、すっかり定着した感があるが、それ以外となると、コミュニケーションスキルが低い日本人には、ハードルが高いようにおもえる。
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自民党のゆくえ

民主政権が発足してから2ヶ月たつ。

発足前には「危ない」、「空中分解する」、「政権担当能力がない」などと揶揄されていたものだが、フタを開けると、むしろ自民以上にやる気があることが判明。当の自民党のほうが空中分解している有様だ。

国会論戦では、民主幹部らの献金問題などを執拗につつくものの、正面切っての反撃には出られていない。それはひとつには、自民党自身のアイデンティティが腐食しているからだ。

自民党は主に土建業を中心に業界を支援することで、長年政権運営してきた政党だが、今、その業界支援そのものが時代遅れになりつつある。というのは業界に投下した国家資本が、業界内にとどまって労働者にまで届かないという図式が明らかになってきたからである。

結果、労働者は貧困化がすすみ、消費が低迷してデフレ不況をもたらす。そういう図式に嫌気がさしての政権交代だったわけである。


むろん、自民党の中にもその図式を打破しようとする人達も存在する。労働者に直接支援を行おう、という若手を中心とする人達だ。だがその改革運動は党内上層部の排撃にあって頓挫している。

上層部にしてみれば、自民党の力の根源である産業界とのつながりを断ち切るような動きは、自民党そのものを消失させかねない動きであって、強硬に反対するのは理解できる。

だが政治と業界の癒着にNOを突きつけたのは世論であり、上層部の考えをそのまま実行しても、政権を再奪還できる望みは薄いというジレンマに、今自民党はアタマを抱えている。

自民党は「ヌエ」と呼ばれるほど、リベラルから保守まで、様々なイデオロギーを抱え込んで、イデオロギー論争というものにはかなり無縁だった政党だが、そうも言っていられなくなっているのが現状のようだ。


もちろん、産業界を尊重するイデオロギーが完全に時代遅れというわけではない。確かにアメリカでの共和党の衰退など、世界的に野放しに市場原理を崇拝するよりも、市民一人ひとりに目を向ける政治が優勢になっている傾向はあるが、だといって資本主義が存在する以上、産業に目を向けた政治は消失はしないはずである。

ただ産業重視主義が、当初言われていた「庶民への富の還元」を生み出さず、産業界内に富を保留し続けている以上、大衆からの支持を得るのはむずかしい。自民党が再生を果たすには、この部分をクリヤーしなければならないだろう。

つまり、産業を育成しながら、同時に大衆へ富を分配するシステムの再構築である。

そしてそれは簡単ではないばかりか、大衆重視を掲げる民主政権のほうが、先に達成してしまいそうな気配がある。産業界に目を向けている限り、富の再分配の徹底はむずかしいが、人民に目を向けるのならば、それは比較的たやすいことだからだ。

自民党低迷は長期化すると、思わざるを得ない。

政権交代

政権交代から一と月あまり。ずいぶんと色々なことが変わったし、変わりつつある。

以前は予算削減の話をしようものなら、すぐさま自民系の方々に「削減などできるはずがない」、と一刀両断されていたものだが、蓋をあけてみれば、3兆円の削減。できないのではなく、やろうとしないからできなかったのだ、ということが判明した。

また3兆円というのは一般会計内の話で、特別会計には手付かず。これから予算の一本化が進むにつれ、さらに削減が大きく進むと予想される。

が、差し当たって今は来年度予算である。


景気回復の兆しがみえ始めているとはいえ、逆に給与は切り下げられており、日本の相対貧困率は16%と、主要先進国のなかではアメリカ17%に次ぐ高い水準となった。(10/20/09発表。06年統計)

日本は格差がない社会と言われてきた。実際、町を歩いてみても、アメリカのような「スラム街」はほとんど存在しない。人々の容姿・ファッションや、スーパーの物価にも、それほど大きな違いはない。

しかしそれは格差化にまだ日が浅く、社会がまだ格差に対応できていないから、と考えられている。英米では貴族制、奴隷制が格差社会の根底をなしているが、日本ではそのような格差の伝統が明治維新、敗戦で崩されたのである。

そして戦後日本では、歴史的・世界的に稀な均等社会が生まれたのだが、90年代以降は貧富差が拡大。このまま格差が固定化していくと、日本も十分英米的な格差社会になる可能性がたかい。


もっとも小泉改革はアメリカをモデルとした規制緩和であり、それを実施すればアメリカのように貧困率が上がることは、事前から予想されていた。だが派手な立ち振る舞いがいっぱいの、「小泉劇場」に魅了された国民は、4年前の選挙で自民党に投票。そのツケが回ってきたといえる。

もっとも自民政権は貧困率をひたすら隠し通していたので、国民には分かりづらかった、という側面もある。貧困率は政権交代後、始めて公表されたデータのひとつである。

その貧困に対峙するために、予算要求は膨張。95兆円を突破し、史上最高値を記録した。民主党の掲げる「大きな政党」の実施が、いかに困難かを示すスタートとなった。

膨れ上がった予算については、民主党は3兆円削減、不足分は国債発行で補う構えだが、50兆を超える国債発行が、いつまでも長続きするはずもない。といって子供手当てや高校教育費を削減すれば、公約違反として批判を浴びる。

難しい舵取りを迫られている現政権だが、マニフェストの一部是正を盛り込むのが、もっとも現実的な解決だとおもわれる。ガソリン税を廃止せず、子供手当に回すのも一つの手段だ。本格的な福祉増は、特別会計の見直し後にすればいいだろう。


しかし、この民主党のもたつきを糾弾すべき立場の、自民党がいかにも冴えない。先日、国会図書館に行くついでに自民党本部の前を通ったが、人気がなく、ひっそりした有様。与党時代はひっきりなしに出入りがあったものが、野党に転落すると、かくも落ちぶれるものかは。

総裁選もまったく盛り上がらず、選出された谷垣氏もカリスマに欠け、長老支配が持続するなど、若手の不満も大きいと言われる。

だが不満はあっても脱党する気概に欠けているのが、自民党の問題点でもある。長年エリートの座にいたものは、挫折すると脆いものだ。それを象徴しているのが、中川氏の死である。

親子二代に渡って自民党重鎮を務めた中川氏は、初の落選を味わった挙句、急死するという悲惨な最期をむかえた。死因は睡眠薬とアルコールの摂取過剰。

失礼な言い方になるが、自殺や事故死にはまだ「意志」がある。現状をなんとか打破しようという葛藤が、そこには見られるが、薬物死には「現実逃避」という弱い姿勢が見え隠れしてならない。

首相候補の呼び声も高かった中川氏だが、裏を読めば、「現実逃避するひ弱な政治家をトップにすえる自民党」ということになる。そこには政権奪回の野性的なエネルギーは見られない。

東京落選

前回はこちら


最下位とはならなかったものの、三位落選。当然といえば当然の五輪落選劇であった。

北京オリンピックの熱気醒めやらぬ中での、再度のアジア開催。
大統領、国王をそろえた諸都市にくらべ、最後まで動かなかった日本皇室。
熱気に満ちた演説をものしたマドリード、リオにたいし、どこか他人事のような話しぶりのハトヤマ首相。
南米初(リオ)、市民の強い後押し(マドリード)という決定的要素のない、東京。
4都市の中では最も財政に恵まれていながら、「実弾」を乱射することができなかった東京。

敗因は色々かんがえられるが、最大の敗因はやはり「低い支持率」、だろう。東京都民も、日本国民も、どこか冷ややかな眼で、この五輪騒ぎを見ていたように思える。(IOC調査では、最下位の市民支持率)


広い賛同が得られない以上、挙国一致体制が実現せず、皇室は動かず、札束をばらまくこともできず、ハトヤマ首相に至っては、直前までIOCのプレゼンテーションに出席しない予定ですらあった。

ではなぜ国民が盛り上がらなかったのかといえば、誘致の経緯がトップダウンに過ぎ、明確な理由がなかったからだろう。

「南米初」という明確な目的をもつリオ。
「市民の熱烈な支持」という、強いアピールを打ち出すマドリード。

それに対し、石原都知事の五輪参加は唐突で、目的がはっきりしないものであった。邪推すれば、それは知事の嫌悪する中国が、北京五輪を成功させたことへの対抗意識からでしかないように思われたため、いっそう支持しにくかったのである。

業を煮やした都側は、小学校の運動会や都営設備、CMで五輪機運を喚起しようと躍起になったが、ムキになればなるほど、関係者と一般市民との温度差が顕わになるという哀れな結果に終わった。

かつては都民の要求と、東京を取り巻く情勢を的確に把握し、都政を仕切ってきた石原知事も、新銀行からは老害が目立つようになった。オリンピック招致もその一つで、そろそろ引退を考えたほうがいいだろう。


もっとも諸悪の根源は、愛知万博の成功かもしれない。

愛知万博の成功(1500万人の入場者予測にたいし、1800万人)を受けて、数々の自治体がイベント開催・招致に血道をあげた。

横浜市でも開港150年にあたり博覧会を開催したものの、予想を大きく下回る入場者数に終わり、中田元市長の責任が問われる事態に発展している。

それを察してか、いち早く中田氏は市長を辞任して責任追及を逃れたが、石原氏の去就もどうなるのか。都議会の主導権を占めるのは、石原都政に批判的だった民主党ということもあって、波乱含みだ。

ネトウヨ涙目

ほんの一と月しかたっていないのに、なぜか長い時間がたったように思える衆院選の夏だったが、自民・公明の反民主キャンペーンは色々な意味でおもしろかった。

オザワ氏の献金問題を揶揄した寸劇や、民主マニフェストの無責任さを面白憎らしくCMにしたものだが、結果は散々。「自民はそんなに票がほしいのか」、「このCMを見て民主党に入れた」、とする有権者が続出。自民大敗の一因となった。

ただネットではこのCMを支持する意見が多く、総選挙がせまるにつれ、世論との乖離が目立つようになっていく。

2chではネトウヨらが決起。「ローゼン閣下(=麻生前首相のこと)を援護せよ」、を合い言葉に反民主コピペが四方に投下されたが、これも大いに顰蹙をかった。

2chでは、その掲示板のテーマと関係のない投稿をするのは禁止されており、それを堂々と破るネトウヨは批判を浴び、ひいては2チャンネラーらの自民党への反発につながったとされている。


そしてついに運命の日が来るのだが、ネトウヨの反応がまたおいしい。

「日本ヲワタ」と嘆くのもいれば、「もう日本を見捨てて海外移住する」、と愛国者らしからぬセリフを吐くものもおり、「投票はウソ。真実はニコ動だけ(ニコニコ動画の世論調査は、自民党の有利を伝えていた)」、と陰謀説を唱えだす人、

「日本人はミンスに騙されている。4年後になって吠え面かくなよ」、と逆切レする輩まで噴出。しまいには「日本人の7割は在日」と妄想系に浸るカキコまで出る始末。

中でも白眉なのが、反民主キャンペーンを「独自」展開するも、家族らの反発にあって挫折したニートのカキコ、「ネトウヨ大憤死」

ネタぽい部分はあるのだが、「反民主ビラを自民党事務所に持ち込む」、「言う事をきかずに民主に投票した家族に逆切レしてガラスを悪」など、ネトウヨの生態描写にリアリティがあることから、少なくともネトウヨに関わりがある人が書いたものだろう。


これと前後して、ネトウヨ活動の黒幕も明るみにされていく。従来、ネトウヨは従来のウヨク活動家からの連想のせいか、ニートや勤労青年が大多数とされていた。

しかし反民主キャンペーンを展開していたネット活動家のなかには、鬼女(=既婚女性のこと)や農村層が意外におおいことが発覚。自民党関係者などから金品を得ていた、とする情報も暴露された。

もっともよく考えて見ると、これは不思議なことではない。飽きっぽいニートには執拗な反民主キャンペーンは持続できないし、勤労青年には真昼間からカキコする時間もない。時間があって、根気のいるネトウヨ活動には、実は主婦や地方在住者のほうが適している。(←ちょっと偏見入ってます)

またネトウヨの背後には、何かしらの組織の関与が疑われる、というのも兼ねてから指摘されている「事実」である。


金太郎アメのように定型的なカキコは、ネット活動がマニュアル化されていることを窺わせるものだし、少しのサヨク的カキコをも見逃さずに叩いて回る人海戦術は、組織的な関与を想像させるに足りるものであった。

現在、組織の統括者としては自民党の大物議員や、ウヨクの財界人が噂されているが、いずれにせよ、かなり信憑性のある話である。というのは、ネット宣伝はさほど費用もかからない割には、世論を誘導することがカンタンだったからだ。

たとえば2chでは、10人のフルタイム活動家がいれば、その政治性を決定することができると言われている。ネット調査も同等である。そしてそのネット調査をマスコミが大々的に報道することで、あたかも日本人全体が自民党を信じ、愛好し、民主党なんかに政権は任せられない、という雰囲気が醸成されてきた。

ネットはマスコミを利用して世論捜査を行い、マスコミは先端的で話題豊富なネットを利用して視聴率をかせぐという、いわば「ネットとマスコミの共犯関係」が、日本の保守政治の延命に一役かってきたのである。


ところがネットが掲示板からブログ、SNS、ツイッターと深化・一般化するにつれ、2chやネット調査の注目度が低下。躍起になってネトウヨ活動を過激化させると、世論から乖離していくという悪循環に陥ったのがだいたい00年代後半からの傾向で、その行き着いた場所が、「反民主キャンペーンネトウヨ」なわけである。

キャンペーンが大失敗に終わったことを受けて、自民だか財界だかのネット世論捜査部は、戦略変更を余儀なくされている。このままネトウヨ活動を続けさせるのか、あるいはネットの特別扱いはやめて、リアル世界と同等に扱うのか。

その動向を左右するのが、ネット選挙活動の解禁である。

従来、自民党は選挙活動におけるネットの利用に反対であった。それはネットを通じた世論操作が有効なのは、ネットが限られた人のアクセスする狭い世界だったからである。狭い世界なればこそ、少人数の工作員で、ネット世界を牛耳れるのだが、ネットが解禁されればその旨みはなくなる。

しかし民主党はネットの選挙利用を許可する方針を打ち出している。となれば、従来のような世論操作は早晩通用しなくなる。ネットを使った政治活動そのものがなくなる訳ではないが、従来のような特権的立場はうしなわれるだろう。

新大臣の顔ぶれ

ハトヤマ内閣の面々が決まった。

戦略局には対官僚リーサルウェポン・菅、外務大臣には真面目一本槍・岡田、厚生労働省にはミスター年金・長妻などの面々である。

アソー内閣と比べて見ると、顔が良い。まあ若干そうでない人もいるがw、若々しいというか、希望ややる気に満ちた顔ぶれが多い。

images.jpg (長妻大臣)

アソー内閣では、酩酊大臣を始め、石破、鳩山(コワモテ弟)など、全般に国民を小ばかにしたような顔つきの閣僚が多かったようにおもう。人気の高かった枡添にしろ、言葉の端々に国民を下にみる姿勢が見え隠れしていたし、そもそも麻生首相自身、人を食ったような態度を取り続けていた。

Shoichi_Nakagawa_cropped_Mike_Johanns_and_Shoichi_Nakagawa_20060113.jpg (酩酊大臣)

それに咥え、与謝野や中曽根のやる気なさげな答弁、浜田や二階の底意地の悪そうな人相。

思えば、自民党にはそういう政治家が多かった気がする。「わたしはあなたとは違うんです」、「自衛隊の行くところが非武装地域」、「郵政改革なくして改革なし」・・・・そこには誠実さのかけらも見られなかった。

その誠実さが、ハトヤマ内閣には見える。少なくとも、誠実であろうという努力が見られる。そういう人を大臣にもつことができたというだけでも、政権交代の意義はあったのではないだろうか。

テーマ : 政治・経済・時事問題
ジャンル : 政治・経済

東京五輪のゆくえ

東京五輪が揺らいでいる。09年9月3日の報道によると、IOC評価報告書は、東京の市民支持率を最下位に位置づけた。

今年4~5月にかけてIOCが覆面調査を行ったところ、50%台の支持しかないことが判明したという。東京都の調査では80%、読売新聞が70%、ライブドアでは30%というから、50%というのは妥当なところだろう。

しかし世論調査がこれほど違うというのも面白い。捏造が疑われるところだが、この種のアンケート調査は質問のやり方によってかなり結果を誘導できる。「五輪誘致に賛成?反対?」という二者択一なら、おそらく賛成が70~80%に届くだろう。東京都民なら、やはり五輪の一つもこの眼で見てみたいだろうからだ。

だが「熱心に支持する・やや支持する・どうでもいい」というように段階的に質問内容を変えれば、おそらく多くの都民は「どうでもいい」か「やや支持」を選ぶだろう。それを数値化すれば、支持率が50%台になるのはうなづける。

要するに東京五輪推進側は支持率が多く出るよう、質問を甘く設定し、五輪側は各都市によって違いがはっきり出るようにシビアに設問している、ということだろう。


東京人の肌感覚からみても、50~60%の支持率、というのは違和感がない。招致を支持しないわけではないが、かといって積極的になる気もしない。

都知事をはじめ、スポーツ界や関係団体が躍起になって煽っているのだが、一向に炎上しない。お祭り好きなブロガーらも、五輪には燃料を投下したがらない。

一つには、五輪招致が都民から自発的に出てきたものでなく、石原都知事の鶴の一声で強引に始められたものだからだろう。

その都知事にしても、十分な見通しや、崇高な理念の裏づけがあっての招致というわけでなく、単に「北京五輪が憎らしいから」、「招致すれば儲かるから」、というのが理由とおもわれるので、都民としても脱力せざるをえない。


次回はこちら

民主圧勝

さて、お分かりのように「民主激勝・自公崩壊」という劇的な結末に終わった09年衆院選だが、正直、ここまで差がつくとはおもわなかった。

週刊誌などの事前予想では確かに獲得議席は300前後。海部元首相も、中川元酩酊大臣も落選すると言われていたが、実際に落選するとは・・・

片山さつきら「ちゅるどれん」はほぼ全滅、公明党も太田代表をはじめ全員落選。かろうじて20人が比例区で首をつなぐにとどまった。


公明は7月の都議選では住民票を移すことにより、全員当選という成果を挙げ、この戦術で衆院選を戦おうとしていた。小選挙区制は勝者一人が票を総取りするシステムなので、選挙区を絞り込み、そこに住民票を大量投下することにより、強引に1位を獲得する戦術が有効だ。

ところが今回の選挙では、そうすることができなかった。選挙権を得るには、住民票を移してから2ヶ月という時間が必要だからである。そのため公明党は麻生総理に都議選と衆院選の時間をあけるよう、要請していたとされる。

しかしそれが受け入れられなかったこと、また民主圧勝で自公連立の意味が薄れたことなどから、「自公分裂」という可能性が現実味を帯びてきた。公明党の掲げる「平和と福祉」政策は、自民党よりもむしろ民主党に近い。

ただ実権を握るとされる小沢氏と公明党は犬猿の仲。単独で絶対安定を確保する民主には、公明党を取り入れるメリットも少ない。一方、自民党も公明党も単独では対抗勢力としての存在感を保てず、しばらくは自公同盟はつづくだろう。


「自民の政策は正しかった。悪かったのは政策を理解しようとしなかった国民」(石破農林大臣)、「自分は改革しようとしたが、族議員が足を引っ張った」(河野太郎議員)と、敗将らには反省の色が見られない。

中には「自分の掲げた保守という旗印は正しかった。これからも保守を貫く」(安部元総理)、と見当外れの方向を向いている人もいる。

総じて自民には責任転嫁や見当外れの議員が多く、「本当に再生できるのか」と危ぶまれてならない。自民大敗の理由は、「国民の苦しみを理解できなかった」、点につきる。

自民の掲げる論理は消費税にせよ、年金にせよ、国家や大企業中心の論理で、それは(国家という巨大システムを運営する必要上)ある程度仕方ないものだが、現実に5%超の失業率、ネットカフェ暮らしにあえいでいる庶民は、その説明にもはや納得できなくなったのである。

小泉改革が日本にもたらしたものは、先進国中、アメリカにつぐ高い貧困率、最も低い一人当たりGDP、そして最も高い自殺率。その全てが小泉改革に帰せられるわけではないが、小泉以後、自民党では改革推進派と見直し派が拮抗し、有効な手当てを講じることができずに自民離れを招いたとされる。


それに対する危機意識は薄く、7月の都議選で自民が大敗した後も、「最後には勝てるだろう」という楽観がどこかにあった。

確かに危機感から、久間元防衛大臣のように、普段は下げない頭をムリして下げて回った人もいたが、ふんぞり返ってアタマを下げても逆効果というもの。結局民主の刺客に倒れた。

対する民主は徹底したソフト路線を展開。鳩山代表は徹頭徹尾、「国民にお願いする」姿勢を貫いた。これは「人を食ったような」、ふてぶてしい麻生首相と比較されていたのを、自民は最後まで気づくことができなかった。

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自民VS民主

8月に入り、各党のマニフェストも出揃ってきたが、まずは自民党と民主党のマニフェストを見比べてみた。

第一印象としては、「両党とも大差ないな」w。格闘とも民衆への手当てを厚くし、地方に配慮し、無駄をなくして消費増税はなし、としている。

まあ民意を汲んで、限られた予算という制約下で、最大多数の幸福、最小限の保障を行おうとすれば、どの政党も似たり寄ったりになるのは当然とも言えるが、大まかに言えば、自民党は「企業寄り」、民主党は「庶民寄り」という色分けをすることはできるだろう。


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のりピー逮捕

渋谷駅の前に人だかりがすると思ったら、報道陣が集まっている。歩道橋の上には人が鈴なり。花火かと思ったらそうでなく、「酒井法子の逮捕劇」であった。

百軒店で夫が逮捕されてから、一週間ちかく逃げ回っていた酒井法子だが、遂に逮捕状が出され観念した模様。自ら警察署に出頭した。

これが中国や韓国だと、「海外へ逃げる」、「潜伏する」という洗濯肢もあるのだが、日本人はその点、潔いというか、諦めが早いというか。でもまあ、クスリをのんだ挙句、異性をホテルで死なせてしまったわけでもないので、復帰は早いかもしれない。

ただ今回の騒動で、弟と父がともに暴力団員だったことが判明。しかも弟も薬物使用で逮捕、父も薬物を売買していたことまで明るみに出て、クリーンなイメージで売っていた彼女には致命的な打撃となりそうだ。裸で公園で騒いでいたのとは、わけが違うのである。



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ジャンル : ニュース

新聞のゆくえ

アメリカで調査したところ、青少年の過半数は新聞を読まず、代わりにネットを見るという結果が出た。新聞はお金もかかる上に情報が遅く、つまらないから、というのが理由だ。

おそらく日本でも調査すれば、同様の結果が出るだろうが、その結果に日本の新聞各社はほとんど反応を示していない。

もっとも無関心ではないようで、毎日新聞などは2年ほど前、特集「ネット君臨」でネットメディアを取材していたが、総じてその論調もネットに批判的で、ネットを積極的に活用しているとは言いがたい。

そして現在では速報や短い記事をネットに載せて広告費を稼ぐ一方、本格的な記事は紙メディアに残しておく、という新聞社が多いようだ。大手(読売・朝日・日経・毎日)をはじめとして、そのほかの会社も大同少尉である。

ネットなどの影響を受けて、売上は減少しており、大手は軒並み減収減益。だが、「積極的に打つ手がない」、というのが現状のようだ。



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「戦い」を生き抜く人々

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戦争や内戦、暴力や虐待によって傷つきながらも、懸命に生き抜こうとする人々を撮影した、写真展覧会「戦いを生き抜く人々」が、東京・表参道で開かれている。

主催は赤十字国際委員会、場所は日本看護協会。クリスマスツリーのような円錐形の建物が目立つ、表参道の風物詩だが、そのJNAプラザが会場になっている。

写真はアメリカをベースとする写真家ジャーナリスト集団「Ⅶ」がカンボジアからグルジアまで、世界各国を飛び回って写したもの。

半身不随の子供を抱えながら、コンクリートの路上に横たわる少女。戦乱で息子をすべて失い、一人さびしくハンモックに向かう老女。

写真は淡々と人々の日常を提示するのみで、一見、なんの印象も与えないが、説明書きをよむことで、閲覧者はその裏に隠された「真実」に行き当たる。


この展示法は、文人画に似ている。文人画も、画だけでは大しておもしろくないが、詩文と同時に鑑賞することで、画に深みが出てくる仕組みになっているからだ。文人画は書斎に掲げられ、その書斎の窓からは外の庭園が見えるようになっている。

一方、こちらのパネルの外側には、華やかな表参道の商店街が広がっている。それによって、華やかで豊かな世界の裏側で、痛み、苦しみ、絶望を通り越した虚無に沈んでいる世界があることを、鑑賞者は否応なしに知らされるわけである。これは、もやは偶然を通り越した悪意のアレゴリーだろう。

ただその悪意は世界の深淵からやってくる悪意である以上、鑑賞者はそれを邪悪として切り捨てるわけにはいかない。その悪意を切り捨てることは、自らの痛みを振り捨てることでもあるからだ。

むしろその痛み、憎しみこそが、今のわれわれに必要な、世界を救う情熱なのだろう。ナイチンゲールやマザーテレサがもっていたような、痛烈な憎悪が。


圧勝といへども

与党大敗、民主圧勝、大勝というが、それでも与党は61議席(自民38、公明23)、民主は54議席で、逆転にまでは至っていない。

それが民意、と言われるかもしれないが、得票率で見ると民主41%、与党39%(自民26%、公明13%)で、本来なら与野党逆転しなければならない筈。それが逆に与党の方が7議席も多いのは、公明党が得票以上に議席を獲得しているからだ。

公明党の得票率13%をそのまま議席に直すと、都議会は全127議席だから、127議席×13%=17議席となり、実際の獲得議席より6議席も少なくなる。公明党の選挙上手が如実にあらわれた形だ。これは同じ得票率13%だが、8議席しか取れなかった共産党と比べると際立つ。



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テーマ : 2009東京都議選
ジャンル : 政治・経済

民主大勝~都議選~

09年7月12日、東京都議選が行われ、下馬評通り、民主党が大勝し、第一党の座を始めて獲得した。自民党は第二党に転落し、孔明党と併せても過半数に達せず、歴史的大敗を喫した。

マスコミでは「麻生自民への反感」「石原都知事への倦怠感」「新銀行東京への税金投入」などと分析しているが、身の回りの感触からすると、「変革への期待」が最大の理由だろう。

現在の東京の状況は、90年代によく似ている。仕事にありつけない人が増え、新宿や渋谷の地下街はホームレスでいっぱい。仕事がある人も給料は減らされる一方、税金・年金・保健費など、負担だけは着実に増える。現状への不満をもつ人が、民主に流れた模様だ。

とはいえ民主も単独では過半数には届かないため、共産党との協力が鍵になる。独立独善の共産党と協調するのは容易ではないが、共産党もまた都知事への反感が強いため、法案によっては民主との共闘もありうるだろう。石原氏の政局運営は困難が予想される。

もっとも3期に渡って都政を壟断してきた石原氏については、新東京銀行の破綻、都民をおきざりにした五輪招致、都立病院の切捨て、副知事への仕事の丸投げなど、老害・硬直化が目だってきており、この辺りが潮時だろう。


知事選4勝一敗、そして都議選圧勝の流れを受け、来る衆院選でも民主党の躍進が予想される。「経験がないから政権は任せられない(=永遠に新政党は政権を担当できない)」として民主党を拒否してきた日本人も、ここにきて様変わりしだした。

それに対し自民サイドは検察と協調し、スキャンダルを浴びせてダメージを与える作戦を展開してきたが、クリーンなイメージのつよい鳩山代表にはそのやり方も通用しなくなり、窮地に追い込まれている。

もっとも狩りに政権交代が成ったとしても、そうそう日本政治を根本から変えることはできず、期待が裏切られたとして反民主に回る有権者が続出するのではないか。

2,3年前までは諸悪の根源として憲法が槍玉に挙げられ、改憲論議が盛んだったが、憲法を変えたところで状況は改善しない(下手すると悪化する)ことが分かるにつれ、下火になっていった。民主党人気も、それと似たところがある。

それを打破するには、やはり革命的な政策が必要だろう。官僚との癒着を断ち切り、特別会計、天下りにメスを入れる。年金制度、福祉制度の立て直し。それを目に見える形で行わなければ、また自公万年政権に逆戻りだ。

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ジャンル : 政治・経済

幸福実現党

幸福実現党。。。この何とも収まりの悪い名前をもつ政党は、案の定、「幸福の科学」である。

街角で盛んに宣伝活動を繰り広げているが、他の候補者とちがい、何かに憑かれたように演説を繰り返すのはなぜ?と思っていたら、やはり、であった。

もちろん、宗教団体が政党を結成していけない法はない。よく政教分離を「宗教団体が政党を作ってはいけない法律」と誤解している人がいるが、そうすると宗教は地下に潜ってヤバイ活動を繰り広げるので、参政権は与えているのである。

実現党も、かつてのオーム真理教ほど、ヤバいマニフェストも提示していない。北朝鮮への先制攻撃、憲法改正など、言っている内容は自民タカ派とそれほど変わらない。ただアベ政権が崩壊してから憲法改正派は後退しっ放しなので、業をにやして表舞台に出てきたようにも思われる。

が、おそらく本当の狙いは、沈みゆく船・自民党からの決別なのだろう。あわよくば「第二の公明党」の座を狙ってもいるようだ。



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東国原シアター ~トップをねらえ~

いきなりの首相宣言を出した、東国原知事。

当初は「お笑い」「ジョーク」と思われていたが、それが計算し尽くされた発言だったことが知れるにつれ、次第に波紋が高まっている。

自民党では、「人気が出て思い違いしている」「(輸血は必要だが)毒物を入れる必要はない」という批判まで飛び出したが、表立って人気の高い知事に反論することもできず、鬱憤は話を持ちかけた古賀幹事長の方に矛先が向けられている有様。

しかし地方のほうでは、新潟知事が賛辞を送ったり、大阪知事が連携を呼びかけたりと、賛同の意思を示す人もいる。

選挙前にわざと爆弾発言を行い、中央VS地方などという「対立軸」をこしらえあげ、選挙を有利に戦うという手法は「小泉劇場」と批判されたが、当の東国原知事はその言葉を嫌い、自分のは「東国原シアターと呼べ」と、マスコミに注文をつけた。



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足利事件

足利事件。おそらく冤罪として、日本の犯罪史・裁判史に残るであろう事件だが、日本人の科学信仰と、司法信仰に風穴を開けた点が、印象に残った。

科学を生まなかった土壌をもつ日本では、科学に対する絶対的な信仰がある。南氷洋でクジラの数が増えていると調査隊が報告すれば、それをウノミして捕鯨を再開しようとしたり、温暖化が二酸化炭素のせいだ、と言われれば、その通りとせっせとCo2削減に血道をあげる。

しかし鯨数も温暖化もその調査は科学的であり、科学である以上限界がある。科学調査はサンプルで済ませるが、サンプル=全体という保証はないし、調査結果が未来永劫にわたって続く、ということも言えない。

あくまで鯨は増えている可能性が高い、温暖化はCO2が原因と考えられる、という程度にしか過ぎず、そこには常に一定の「留保」が残される。

だから科学という劇薬を生んだ欧米では、その留保を考慮に入れて、「確かに調査ではクジラは増えているが、間違っている可能性もある。捕鯨再開を許した後で、調査が間違っていると分かったら、クジラは絶滅してしまう。だからもう暫く様子を見ましょう」、とする意見が支配的だ。

(日本では、「欧米人はヒステリックに捕鯨文化を目の仇にしている」、「グリーンピースが悪い」、という極論ばかりが跋扈し、この辺りのロジックはきちんと理解されていないし、理解しようともしていない点に、危うさをかんじてしまう)


ひるがえって、DNA鑑定においても、科学的である以上、限界がある。特に足利事件当時、DNA鑑定の精度は低く、誤っていた可能性が高い。しかし裁判官はおろか、弁護人までそれを絶対視するに当たって、菅家氏の有罪は避けようもなかった訳である。

二審では新たに結成された弁護団がDNA鑑定のやり直しを求め、日本大学に依頼し、「犯人のDNAと菅家氏のDNAは異なる」、という鑑定結果を提出していた。97年のことであるが、それが認められるには、実に10年以上の月日が必要だったのである。

鑑定は絶対的とし、再審請求を門前払いしてきた裁判所の罪は重いと言わざるを得ない。

菅家氏を自白に追い込んだ栃木県警は過ちを認め、謝罪に応じたが、司法当局は応じるどころか、同じようにDNA冤罪の可能性がある事件の死刑執行を敢行。日本の裁判所は検察、警察と馴れ合っている、という批判を実証することとなった。

また痴漢裁判でも、「疑わしきは罰せず」の原則が守られず、実質上、起訴されたらおしまい、という「魔女裁判」がまかり通っていた状況が広く知られるにつれ、日本人のもつ司法信仰も揺らいできた思いだ。


補1)自分が死刑に反対するのも、日本ではこうした司法の硬直性があるからであり、無実の人が処刑されるという危険性が、じつは一般に考えられているよりも多数存在すると、思われるからだ。

補2)足利事件では、菅家氏を「小児性愛者」「性的倒錯状態」、などと鑑定した心理学者の責任が問われ、起訴されている。これは、「アダルトビデオ」を大量持っていた、「幼稚園」バスの「中年」運転手というキーワードから、当の学者が妄想したものと思われる。

ただ心理学というのはそういう限界があるし、彼の鑑定能力を責めるより、彼が警察や裁判所の「空気を読んで」異常者鑑定を下してしまった、その「過剰な察知能力」こそが、責められるべきものだろう。

一般に日本人は、空気を読むことに焚けているが、真実を読むことは、余り上手ではないが、これが足利冤罪の遠因となっている気がする。

中央大学教授殺害事件

今年(2009年)一月、中央大学の教授が殺害された事件で、容疑者が逮捕された。

逮捕されたのは、教授の研究室に在籍していた卒業生で、愛憎 研究活動のもつれから、殺害に至ったのらしい。

被害者は滅多刺しにされており、そこから強い怨恨をもつ容疑者--教え子が犯人との憶測が浮かんだわけである。

もっともこのような校内でのトラブル、パワハラは、珍しい事柄ではない。

問題の背景としては、大学教授は卒論や修論、博士論文の審査権をもっており、言うなれば生徒の生殺与奪をにぎる「独裁者」だ、ということがあげられる。

そのような独裁者に文句があっても、生徒側は泣き寝入りするしかなく、勢い暴力沙汰に発展してしまうのである。

本来は学校側が教授と生徒の間に立ってトラブルを仲介すべきなのだが、日本の学校というものは役所のようなもので、単にハコと予算だけを用意し、あとはノータッチ、というのが普通である。下手すれば教授の言い分だけ聞いて、生徒に過酷な処分をくだすところも少なくない。

その結果、徒弟制度のような教育が今なお罷り通っているのが現状だ。これを解決するためには、やはり学校が救済者として、積極的にトラブルを仲裁すべきだろう。


また今回の事件は理工学部で起きたが、一般にトラブルは文系学部より、理工学部で起こりやすいといわれている。

それは、世界的な競争にさらされている理工学部の研究ノルマはきつく、有形無形の心労が関係者にかかるからだろう。

かてて加え、理工学なひとびとは世間にうとく、人間力がよわい。教授は教授で何気ない自分の仕草がどれほど生徒を傷つけるか知らないし、生徒は生徒で己の行動がどれほど非常識なものか認識できない。

大学では1,2年のときに幅広い教養を身につけることで、このような非常識さを払拭することが期待されているのだが、理工学部の場合、根底に「研究至上主義」があるので、研究と直接関係のない教養は「邪悪」なものとみなされ、形骸化しがちである。

もちろんセミナーや合宿などのイベントもおこなわれるが、そこでもまた、研究がいかにすばらしいかを鼓舞されるだけなので(ほとんど宗教w)、ゆがんだ教授に生徒が量産されてしまうわけである。

この原因をさぐっていくと、ひとつには日本特有の理系・文系という進路分けに問題があるようにおもう。そもそも人間は複雑で統合的な存在なのに、それを無理矢理10代のときからスッパリ分けてしまうと、色々きしみが生じてしまうのである。

○○学部、という堅く身動きのとれない枠組みに押し込める「単一専攻」より、いくつもの学部に同時に所属できるような「マトリクス専攻」が求められるゆえんだ。

ジャパン・デビュー2~天皇と憲法

前回はこちら


ネットでは「反日偏向番組」との呼び名も高いw、「ジャパンデビュー」、5月のテーマはずばり「天皇と憲法」。

王権神授説ならぬ、天皇神授説をとなえ、「現人神と祭り上げられた天皇と、それを許した大日本憲法が、破滅的な戦争の引き金となった」、という定説をそのまま流しただけで、従来放送されるのことの少なかった「皇民化運動」を取材した先月の台湾編にくらべると、目新しいところもなく退屈な番組構成、というのが正直な乾燥である。

(NHKは日台国交断絶の72年から、2000年前後に至るまで、台湾を積極的に報道することはなかった)

日本が戦争に突入したのは、たしかに天皇や憲法が大きく関係しているが、昭和恐慌という経済要因や、帝国主義に乗り遅れたという日本の国際状況、儒教や西洋中心主義に裏打ちされた大和民族至上主義などなど、さまざまな要因も絡んでおり、も少しその関連性をつっこんでほしかったところ。

つまり全体的には平凡な内容で、むしろネトウヨの反応の方がおもしろいw。

曰く「当時の右傾化と軍部独走は別問題」。つまり日本が戦争に走ったのは軍部のみの責任であり、右翼は関係ないよ、という意見。


なかなかおもしろい意見で、確かに脳内実験としては、右翼と軍部を切り離すことは不可能ではない。「平和を愛する右翼」、「戦争反対の民族主義者」なんてね。

ただ世界的、歴史的にみると、多くの右翼は好戦的なように見える。アメリカの右派(レーガン、ブッシュ政権など)は軍拡レースやイラク戦争を起こしたことで有名だし、イスラエルでは保守政権になるたびに侵略を繰り返しているのも周知の事実。日本でも「北朝鮮やっつけろ」と叫ぶ人は、だいたいが右翼。

まあ「右翼」の定義にもよるけど、仮に「民族主義者」とすると、彼らはまず他国が自国より優位に立っているのが許せない。特に軍事的優位は許すことができない。そこで軍事力を強化して、相手の軍事基地を先にたたいてしまえ、ということになる。そうなれば当然相手も黙っていないから、戦争が始まってしまう。

そう考えると、やはりウヨクと戦争は分かちがたく結びついているように思える。


もちろん、サヨクだからといって平和愛好者だ、と言えないのは旧ソ連のアフガン侵攻や、中国のチベット侵略などで証明済み。

ただこれは「サヨク」=リベラルという意味でなく、むしろ「民族主義的全体主義」とするのが正解だろうう。ソ連のアフガン侵略は、ロシア至上主義と、それを認めないアフガニスタン・イスラム原理主義者らとの民族紛争が背景にあるし、中国のチベット占領も同等だ。

だから今では、最早かつてのウヨク・サヨクという区分は既に有効性を失っている。むしろリベラル・民族主義と分けたほうが現実的だ。

たとえばアメリカ民主党はリベラル、共和党は民族主義的であるし、イギリス労働党はリベラル、ロシアや中国は民族主義的と言えるだろう。

その区分けならば、「リベラルで保守」、「平和を愛好する保守主義者」、なんてのは十分にありうるし、自分も、その意味での保守主義には賛成である。


ただ今の日本のネットで横行しているのは、保守主義でなく「民族主義」で、それは行き着くところ、戦争につながってしまう危険性をもっている。

その点について、幾度か彼らに質問したこともあったが、納得のいく説明をもらったことはない。おそらく、彼ら自身うすうす、「戦争こそが、民族主義の存在理由だ」、ということに、気づいているのだろう。

あなたの駅の通信簿

日経の記事が面白いので、ちょと抜き出してみる。

タイトルは「首都圏1409駅、あなたの駅の通信簿」で、東京近辺の駅を、4つの指標で分類してみたもの。

指標は「感度指数」「利便性指数」「環境指数」「親しみ指数」の4つで、カンタンにいえば、「流行に敏感」「ショッピングに便利・不動産価格が高い」「緑化率が高い・お金持ちが多い」「流行に鈍感」を数値化したもの。

その分析結果から、「自由が丘に住みたければ、町田を選べ」と言いたいらしい。この両駅は同じ傾向を示しているから、というのが日経の言い分だが、ちょっと待て。確かに両駅とも4指標は高く、同じカテゴリー1に分類されるが、その絶対値は異なるだろう。

極端な話、自由が丘は4指標が9-9-9-9、町田は3-3-3-3な場合、双方ともカテゴリー1になるが、その充実度は3倍の開きがある。それを同列に論じて、「自由が丘より町田に住め」と短絡するのには無理があるようにおもえる。

(まあ、「自由が丘も町田も同じ傾向をもつ町だから、自由が丘に住みたくても金がない奴は町田にでも住むがいい」という趣旨の文章だとはおもうが・・・)


それは兎も角、東京には3つの副都心があるが、機械的に分類されて、余りそのカラーが見えてこない分析になっている。

池袋は「感度+親しみ」、新宿は「感度+利便」、渋谷は「利便+環境」と分類されているが、池袋は古臭い町並みが残る西口と、サンシャインシティをかかえるお洒落な東口がある結果、「流行に敏感で鈍感」と、矛盾的に評価されたのだろう。

新宿になると、昭和な町並みは払拭され、京王、小田急、伊勢丹、高島屋とデパートが立ち並ぶのが評価され、利便度がアップ。渋谷は代々木公園、明治神宮、神宮外苑など、周辺に大公園をいくつも抱え、路線価も高いので環境指標が高くなったようだ。

東京住民の眼からすると、池袋は「土臭い」、新宿は「便利」、渋谷は「流行」というイメージがあるが、この記事と評価が違うのは、「本当は町は違う形になっているのに、刷り込まれたイメージは揺るがない」ということもあるだろうが、それよりも「各駅は、その駅だけでなく、近隣の諸駅を併せて評価されている」からだと思う。

たとえば渋谷のイメージは渋谷だけでなく、近くの原宿や表参道、青山とセットになってかもし出されているし、池袋は東京の北西部、埼玉県南部のイメージが、そのまま輸入されている。駅ごとの評価だと、その広範囲なイメージにもとづくカテゴライズができないのだろう。


草なぎ君、逮捕さる

言ってしまえば、どうってことはない事件である。

酒に酔った男が、裸になって大声を出した。新宿や渋谷では、毎晩ありふれた光景で、警官だってもう面倒臭がって相手にすることもない。

ただ場所が閑静な高級地だったこと、警官に反抗したこと、そして酔漢が国民的タレントだったこと。それが草なぎ剛の運命を左右したようだ。

結果、彼は公然わいせつ罪として逮捕され、一晩を留置場で過ごした挙句、家宅捜索まで受けることとなった。わいせつ罪で家宅捜索というのは異例だが、これはむしろ、これを口実に麻薬捜査をしたかったかららしい。

麻薬は出なかったが、草なぎ君は全てのCM、番組から鋼板。「国民的アイドル」から「最低の人間(by鳩山大臣)」への転落の一夜であった。


だが-冒頭にもどるが-言ってしまえば、どうってことはない事件である。

何も麻薬を殺人を犯したわけでなく、酔って暴れたわけでもなく、いかにも草なぎ君らしく、ナルシスティックに全裸になり、ドラ声を張り上げただけである。

それだけでこの仕打ち、というのも悲惨なものである。

自分的にはむしろ、この件で彼を見直した思いだ。何と言うか、普段優等生の仮面をかぶっている彼の、ホンネが聞こえた思いがする。

人間、34年も生きていれば、酒を飲んで大声出したくなることもあるだろう。裸になって騒ぎたくなることもあるだろう。

むしろそれができなかった草なぎ君には、どこか計算というか、冷徹なものを感じてしまって、感情移入できなかったが、この件で、ぐっと身近なタレントになったきがする。デジタル放送も、ぜひ応援してあげたい気がする。(←はっ、これも計算かw?)

次はやはり仮面をかぶりまくりの「ベッキー」の泥酔姿(&全裸姿)をみてみたいものだw。

世襲議員の是非

自民党の選挙対策委員が、衆院選対策のマニフェストに「世襲議員の制限」を盛り込もうとしたところ、党内の世襲議員からの猛反発に遭っている。

曽祖父代からの生え抜きの政治家である鳩山邦夫を初め、祖父が衆議員で森コンツェルンの創始者である森英介、父が衆議員の金子一義、塩谷立らも反対の意向をしめしている。そして彼らをまとめるべき立場にある麻生首相自体、祖父は吉田茂であり、制限には消極的だ。

彼らは反対の理由として、「職業の自由に反する」を挙げている。なるほど、拳法に定められた職業選択の自由を、衆議院議員が曲げるわけにはいかない、というのは見やすい道理である。

ただ同じく憲法に記述された、「身体の自由」や「営業の自由」は往々にして犯されるが、それについてこれら世襲議員は積極的に反発していない。それなのに「職業の自由」だけは喉も裂けよ、とばかり反対する姿勢には一貫性が見られない。

むしろ憲法をタテにして既得権を死守しようとしているのだ、と批判されても仕方がないだろう。


世襲は歌舞伎や落語などの伝統芸能のみならず、企業や学校の世界でもよく見られる現象だが、一般に世襲が定常化した社会は、停滞・衰退をはじめることがおおい。

それは業界への新規参入が難しくなり、新たな血が入らなくなって、改革の機運が殺がれるからだが、江戸末期の日本、清朝末期の中国、WW2後のイギリスなどが好例である。これらの社会では長期停滞の結果、破滅的な戦争や内乱、國際地位の低下などの現象が起きた。

特に政治の世界で世襲が続くと、政治家から庶民感覚が消失し、「政治家による、政治家のための、政治家の政治」が出現してしまうが、正にこれは日本の現状である。

また政治家の世襲は、公平性をも欠く。庶民が国会議員になるには、事実上、資金や経歴、人脈などの有形無形の「資産」が必要だが、それが親から与えられているものと、ないものとでは、スタートラインからして全く異なる。

もっとも「一律制限するよりも、世襲の是非は選挙民に判断させるべき」という意見もある。一見民主的で正しそうに聞こえるが、そのようにした場合、圧倒的な「資産」をもつ世襲議員のほうが、有利になる可能性がたかい。

そもそも「選挙民に判断させる」というのは現状そのものであり、その現状では、一人はゴールラインの1000m前にいるのに対し、もう一人はたった1m前にいるかのような不公平さが存在するのである。

経済的には「相続税」がその不公平さを是正するツールとして使われるが、政治の世界でもそれを導入すべきだ、という声が高まっているのには理由がある。


諸外国を見ると、世襲が存在しないわけではないが、日本ほど、てんこ盛りな国は少ない。

日本では衆議院の1/4が世襲議員で、自民党に限ると、4割近くが世襲だが、アメリカでは、上院・下院ともに5%程度。ブッシュ父子や、ケネディ一族のような例はあるものの、例外的存在だ。

その背景には、子供は親とは別の職につくのが当たり前で、「世襲」という概念自体、ポピュラーなものではないというアメリカ的な事情がある。

イギリスでも閣僚23名のうち、世襲者は一人のみ。かつては世襲の貴族議員がハバをきかせていたが、それも90年代に改革され、約750人から92人に削減された。

日本では遅れているというイメージがつよい中国や韓国、台湾でも、意外に世襲はすくない。

かつて蒋介石→蒋経国と、総統の座が世襲され、終身議員すら存在していた台湾では、90年代に民主化・政権交代が進んだ結果、世襲政治家は多くが払拭されている。

軍事政権が倒れ、民主化から政権交代が行われた韓国でも、世襲議員は少数派だ。

政権交代がない中国においても、世襲政治家はあまり多くはない。一つには文革時ほどではないが、権力闘争が激しく、親が共産党員だから、という甘い理由だけでは、闘争の海を渡りきれないのだとおもわれる。


一方、日本と同様に世襲議員が多いのは、イタリアである。

イタリアは小党乱立で、党が推す独自候補よりも、地方の有力者が当選しやすいという政局上の理由が挙げられるが、その背後には、今なお中世の色彩が色濃く、家族主義的かつ権威主義的な土壌があるとされる。

イタリアは急速な少子化や、激しい所得・地方格差など、日本とよく似た特徴をもつ社会であり、それに政治的・システム的理由が加わると、世襲議員が誕生するのだろう。

日本の場合、政権交代などの劇的な変化がなかったこと、親と同じ選挙区を引き継げること。この二つの理由から、世襲が跋扈する至ったとかんがえられる。

従って政権交代を起こし、親の選挙区からは出馬できないような部分的制限を加えるのが効果的だろう。

それでも世襲政治家はコネや資産、ノウハウの面で有利なことは変わらないが、全面制限すると、こんどは逆差別ということで、世襲議員の猛反発が予想されるので、このあたりが落としどころなのだろう。もっともこの話の裏には、世襲議員と非世襲議員との権力闘争が見え隠れしているようだがw。

レビュー:JAPANデビュー

先日放送されていた、NHK特集「JAPANデビュー」。第一回は、台湾統治編。

番組では日本を統治者、台湾をその被害者という、支配・被支配のステレオタイプに当てはめて報道しており、右なかたがたがブログなどで必死に反論していたがw、まぁそれにも一理あって、現実はもっと入り組んだものである。

たとえば、日本人は必ずしも全てが冷酷無情な支配者ではなく、中には台湾人のために尽くそうとした人もいたし、台湾人の方も自らを日本人と考え、日本のために粉骨砕心しようとした人もいた。

また台湾の中には、帝国大学を出て、日本人の上に立っていた人もいれば、日本の下級官僚の中には、地元有力者には頭が上がらない人もいたのである。

そこには単純に善悪や支配・被支配で割り切れない、複雑な関係があったと言える。


そもそも、日本の台湾統治は、欧米の植民地支配からすると、かなり奇異なものであった。

欧米の支配原理は本国での階級原理に基づくもので、本国人=貴族、植民地人=庶民という階級に従って、植民地統治は行われていた。

庶民には貴族の文化やマナーは理解できないという発想の下、(一部を除いては)現地人の教育はおざなりにされていたし、同朋意識も乏しかった。

そのため本国人と植民地人との間の溝は深く、両者が融和しあうという発想には欠けていたのである。

一方、日本の統治原理は儒教的な家族主義に基づくものであり、亜細亜という大家族のなかで、それぞれの民族は融和しあうべきだ、という思想-汎アジア主義-が説かれた。

そのための道具が皇民化=同化だったのである。

朝鮮半島は既に李朝時代に国民国家としての統一を達成していたため、その同化政策に激しく抵抗したが、中国本土との一体感が乏しかった台湾では、その同化政策が、かなりの成果を収めたのである。(台湾が省として清朝に組み込まれたのは、実に1885年のこと。日本による併合のわずか10年前のことであった)

同化運動は徹底的なものであり、家庭内でさえ、日本語をしゃべるのが奨励され、それに従った台湾人家庭もすくなくない。

前総統・李登輝に代表される高齢者が親日的なのは、この皇民化運動による部分がおおきい。おそらく、太平洋戦争に勝利していれば、台湾人は完全に日本人化したものと思われる。


そのように同化が進んだ台湾からすれば、(番組では同化=悪、と決め付けているが)、当の台湾人は、植民地支配もさることながら、同化を途中で断ち切ったことにも、恨みを抱いているように見える。

つまり「自分はこれほど苦労して日本人になろうとしたのに、それに報おうとしない日本が憎い」、ということであり、その意味で日本は、一つは同化を始め、も一つは同化を打ち切ったという、二重の罪を犯しているわけである。

もちろん、当時の日本には、他に選択肢はなかったのは確かである。敗戦国・日本にとって、戦勝国たる中華民国に台湾を明け渡すのは、やむをえないことであった。

しかし、その後もアメリカに追随して、中国政権と国交回復し、台湾と断交したのは、行き過ぎであったろう。今なお、日本にとって、台湾という国家は存在しない。中華民国というパスポートは、日本では-法的には-紙切れの意味しかもたないのである。

そのような不実な態度をとる国家が、他国から信頼を勝ち取ることはむずかしい、と言わざるをえないだろう。


次回はこちら

どどんが・てぽどん2

どどんが、てぽどん。てぽどんどん。

まぞちょっと気になったのだが、今回は、あくまで「人工衛星の打ち上げ」。それを日本では、こぞって「ミサイル」「弾道弾」と報道している。まあミサイル技術をも兼ねているのは事実だろうが、付和雷同的に北朝鮮=大嘘つき、と決め付けるのもどうかな。

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不法滞在問題

フィリピン親子の強制退去問題。日本では「不法移民なんてさっさと送還すべし」「娘だけは可哀想だから、残してやれ」というのが公約数的な意見で、だいたい、経過もそのセンをたどっている。(3月14日)

この問題はきうりんブログなどを参考にすると、移民政策、国際政治、法律論など幾つか論点があって、それぞれまとめてみると、まず移民政策では、「一旦移民を入れると、日本は中国人・韓国人などに飲み込まれる」という「黄禍論」が多いようだ。

一見正しいように見える意見だが、ここで問題になっているのは、「家族で長年日本に滞在している不法移民」をどうするかであって、「不法移民そのものをどうするか」ということではない。どうも両者が混同されているように見える。

不法移民そのものは、厳しく取り締まれば良いが、既に滞日15年ともなれば、フィリピンに戻っても生活の基盤がない。ここは「時効」を適用し、日本に滞在する道を開くべきだろう。

移民法に時効を適用するのはおかしい、という意見もあるが、現にアメリカでは適用例がある。もちろんアメリカと日本は法体系も慣習も違うが、人道的解決を考えれば、ストレートに強制退去、というのも芸がない。


一旦「開国」すれば、続々と移民がやってきて日本は占拠されてしまう、という主張も強いが、「15年以上」「家族同伴」などの条件を付ければ良い。それらの条件をクリアできる不法移民など、微々たるものである。(むしろ結婚や就労、家族呼び寄せ、などで合法的にやってくる人数が圧倒的。)

もちろん入国管理局の狙いはそこにはなく、「合法移民枠の縮小」が狙いだ。一度前例を許してしまえば、次々に移民枠が拡大され、取り返しのつかないことになるという恐れだ。その考えから、日本への移民は年間1万人強、難民許可数に至っては数十人程度に抑えられている。

ただ、そのような鎖国制度は、必ずしも日本に有利に働いているわけではない。

例えば国際政治上では、「難民救済に後ろ向きな国」として評判は芳しくない。軍隊は積極的に出す一方、移民受け入れには消極的なことから、「日本の本当の狙いは勢力圏の拡大」と、その真意を疑う声もある。

また移民が極端に少ないことから、海外事情に疎い国民性が醸し出され、世界社会・世界経済の動きから取り残されるという間接的なデメリットも小さくない。


そもそも人口減社会で活力を維持するには、移民労働力の活用以外、即効的な選択肢が少ないのが現実。現に介護や医療の現場では、人手不足が深刻化している。この不況なのに、人手が足りないのは、低賃金が主な理由だが、だからといって賃金を上げようとすると、国民が負担に耐えられない。移民制限の弊害を、国民が蒙っている分かりやすい1例だ。

一度移民を受け入れると、続々と増えていくので移民労働力受け入れに反対な意見も多いが、これには「移民枠」を作ればよい。一年に1万人なら1万人のみ受け入れると上限を作り、それ以上は原則受け入れない。one ore zeroという極端な思考でなく、「コントロールしつつ利用する」というスタンスが望ましい。

似たような例に、原子力発電がある。

原発というものは事故ると恐ろしいものだが、全く廃棄すると、今度は温暖化が進行してしまい、別な危険性が高まる。それを温暖化を抑えるために原発を利用し、事故も起こさない。あるいは起きても被害は最小限にとどめる。そう考えるのが、「コントロールしつつ利用する」という発想で、日本人もそろそろ、そのようなオトナの考えを受け入れるべきだろう。


最後に法律論については、原則強制退去、として実証主義を守りつつも、特例で滞在許可を与えるという実質上自然法の立場にたった解決が望ましかったのではないか、と思う。

その上で法改正をお粉い、時効や人道の面からの救済を、新法に盛り込んでいき、その新法の施行によって、最終的にフィリピン人家族の移民問題を解決できれば、ベストではないか。

ただ昨今、排他的に傾いている世論からは、そのような法改正は難しいのかもしれない。

世界遺産の怪

日本の世界遺産、京都・奈良を皮切りに、姫路城、厳島、日光、琉球までは、日本の主な文化遺産を網羅していてうなづけるが、紀伊半島から風向きがおかしくなり、石見銀山で疑問の声はさらに大きくなった。

石見銀山。おそらく日本でもその存在を知る人は多くはない、と思われていたこの地域は、一度登録延期が勧告された後、一転して登録許可となった。この大逆転の裏には、官民一体となったパワーポリティクスや裏金が動いたのでは、という推測もある。

もちろん、世界遺産は有名観光地を網羅するものではない。世界遺産には、無名に近い遺跡が少なからず含まれている。

また石見銀山は江戸時代の採鉱・精錬技術を物語る貴重な遺跡であり、ユネスコの登録基準「 ある期間を通じてまたはある文化圏において建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの」、などに合致し、書類に不正はない。

ただこの基準はきわめて曖昧であり、「石見銀山が許可されて、平泉が却下されるのはおかしい」「産業遺産たる石見が認可されるなら、軍艦島もいいはず」、という批判も噴出している。極端な話、これを拡大解釈すれば、日本にあるどの寺社・古跡も、全て「人類の重要な価値」を担っている無名の遺産にあてはまってしまうからだ。

一旦、世界遺産に登録されると、地元に莫大な利益がもたらされる。そしてその金をバックに、パワーポリティクスが展開される。これはオリンピックと同じ構図で、オリンピック委員会と同じく、ユネスコの裁定に常に黒いうわさが絶えないのも、この点にある。


もっとも、ユネスコは単なる一国際委員会であり、国家機関のように、監査や民選という浄化作用を受けることもない。そしてそのような委員会は往々にして腐敗しやすい。

有名なのが英米のユネスコ脱退事件だ。これはアメリカに批判的な運営を展開していた、80年代当時のムボウ事務局長への抗議と言われている。

またユネスコの事業自体、適切とも言いがたく、例えばユネスコが製作していた「世界の偉人暦」には、シェークスピアやダンテに並んで、紫式部や井原西鶴の名前が載っているが、おそらく日本人でさえ、このシェークスピアと紫式部が同格と思っている人は少数派だろう。

日本では舶来信仰というか、海外メディアや国際機関の言動を鵜呑みする向きが多く、またそれを悪用して、自分の主張に合った言動だけを、海外からピックアップして編集・発信する、「新しい教科書を作る会」のような知能犯も存在する。

十分気を付けたいものである。


世界遺産にもどれば、個人的には、もっともっと多くの遺跡が登録されても良い、と考えている。軍艦島でも富岡製糸工場でも、碓氷峠でも汐留でも、ユネスコが良いと思えば、与えたいだけ認可を与えれば良い。

その結果、世界遺産がインフレーションを起こし、遺産の価値が下がってくる。その中で、本当に見ごたえのある観光地と、本当に遺産的価値の高い遺跡と、そして単に政治的に作られた観光地とのチガイが、だんだんと見えてくるだろうから。

給付金狂走曲

高額所得者はもらう、もらわない、辞退する、各自治体で判断・・・二転三転が相次いだ定額給付金問題。ようやく決着の運びとなった。

結局、迅速に配給するため、所得制限は特に設けず、高額所得者には「辞退」してもらうことになったが、国民の間ではしこりが残り、7割が反対、という世論調査も出ている。

もっとも、景気を刺激しようというのが給付金の目的だから、高額所得者にばらまく、というのは利に適ってないわけではない。とはいえ、その一方でホームレスやネットカフェ難民には支給されない、というのだから、ちぐはぐ感もぬぐえない。

一応、政府もそれを考慮して、住居不定者でも一定期間、同一場所に住み続けた記録や実績があれば住民登録した上で、受給できるようにしてはいる。だが、そのような記録や実績を提出できるホームレスやカフェ難民はごく少数であり、大多数にとっては給付金の恩恵は届かないものと、見られている。

これは日本が住民基本台帳をベースに税金のやりとりをしているからで、台帳に記載のないホームレスは税制上、「存在しない」のである。

住民基本台帳でなく、一人一人に付けられる納税番号をベースにすれば、この種の矛盾は避けられるのだが、納税番号は「国民背番号制だ」「国家の個人管理」「プライバシー侵害」などの反対から、日本では実現しなかったが、ここに来て裏目に現れているといえよう。


ほぼ同時に行われた施政方針演説では、首相は重ねて消費税上げに言及したが、これは国民に、「給付金を仕方ないからくれてやるが、その後は税金でガッポリ巻き上げるYO!」、というメッセージを送っているようなもので、麻生氏の政治家センスが問われるところだ。

そんなことは、給付し終わってほとぼり冷めた後で、ゆっくり言えばいいことである。(まア、それはそれで問題だが)

改革路線が一段と後退し、大増税路線を確定のものとして、話を進めようとする与党の国民無視ぶりは今に始まったことではないが、対抗馬の民主党も補正予算を巡っては、単なる反対野党的な姿しか晒すことができず、与野党ともにポイントを稼ぐことはできなかったように見える。

市井に棲む

引越しして一年半たつ。最初にこの街を見初めてからは、二年たつ。

この街は綺麗でセンスが良く、騒々しくて底が浅く、新しい割には変妙に歴史が残っている、という矛盾だらけのところが気にいっている。

交通の便も良く、それまで一時間かけて都心へ行って、また一時間使って戻ってくるという時間のロスがなくなったのは、本当に助かる。

その気になれば、自転車で都心にアクセスできる、というのもサイクリストとしては、大きな収穫だ。さらに足を伸ばせば川崎、横浜まで行くこともできる。自転車で羽田空港へ行く日が来るとは、思っても見なかった。


もちろん、良いことばかりではない。「毎日が初詣」のごとく、人々が湯水のように溢れ返っていて、歩きづらいことこの上ない。しかも皆が皆、小奇麗に着飾っているので、ジャージ上下で出るというのもつらい。

コンビニに行くにも、それなりの服装をしないとならない。

というか、そもそも日用品を扱う店が少ない。飲み屋、クラブハウスは腐るほどあるが、スーパー、100円ショップはほとんど存在しない。そういうものを本格的に買おうとすると、隣駅まで行かないとならない。

おまけにビルが乱立しているので日当たりも悪く、なかなか湿気が抜けない。耳を澄ますと、風の音のようなものが、ゴーッと響く。最初は風力発電かと思っていたが、都会の真ん中に風力発電というのもおかしい。朝5時に響き始め、夜12時以降は消えるので、調べてみたら、地下鉄だった。

ただこれは波の音のようなもので、最初こそ気になったものの、慣れてくると朝5時に決まって響きだすことから、ニワトリの目覚まし代わりにもなった。


実際に住んで見ないと、分からない都会の生態もあった。「氷屋」もそのひとつ。

冷蔵庫が珍しかった時代ならともかく、今時氷を売って商売になるのか、と思われるかもしれないが、実は商売になるのである。

飲み屋用に氷を卸しているのだ。氷だけでなく、おしぼりや生花なども配達することもある。

「豆屋」なんて店もある。もっともこちらはもう豆売りで生計を立てていると言うより、店をマンションに改築して、その運営で食べているらしい。主に聞くと、実際に昭和の終わり頃までは豆がよく売れたという。

昔ながらの商店街がまだ残っていた時代だ。しかしバブルの最中に、そういう商店はほとんどがコンビニかチェーン店に取って代わられてしまったのだと言う。

豆屋の向かいの仏具屋もそうである。寺もないのになぜ仏具屋があるのか謎であったが、古地図を調べてその理由が分かった。寺はあったのである。仏具屋のすぐ近くに寺があり、豆屋、仏具屋は門前商店街の店であった。

しかしその後寺はマンションになり、豆屋、仏具屋だけが残ったというわけである。

裁判員制度

通知書も届き始め、いよいよ回転しだした裁判員制度。基本、自分は精神には賛同するが、手続き的には納得がいっていない。

というのは何か国民の知らない間で勝手に決められ、勝手に実行されているという印象が強いからだ。

消費税や拳法のように、十分に論議が尽くされてからならまだしも、賛成・反対を考える間もなく、するすると可決されてしまったという感覚がある。

まあ気をつけてなかったお前の方が悪い、と言われればそれまでかもしれないが、それにしても無断欠席するものは違法として罰するぞ、という高飛車な態度に出てこられると、これは違うんじゃないか、という気がしてしまう。

民主的なそぶりで見せて、その精神はちっとも民主的ではないという感じがするのだ。


こういうことを言うのには、それなりに根拠がある。裁判員制度がすんなり決まった裏には、法曹界の政治闘争という側面があるからだ。

日本では会計士や医者に比べ、弁護士の肩身は狭いと言われる。また三権分立といいながら、実際は官僚>政治家>法律屋、という序列があるというのも公然の事実。

もちろんこの状況に法律業界が黙って見ていたわけではないが、そもそも日本国民には法律はちょっと、と敬遠する人は少なくないし、一生裁判と無縁な生活を送る人も多いだろう。所謂「法律アレルギー」だ。そのアレルギーがある限り、法曹業界が日の目を見ることはむずかしい。

そのアレルギーを一気に解消する奇策として、白羽の矢を立てられたのが、陪審員制度だったのである。

国民に、強制的に、日常的に裁判に参加させることによって、法律アレルギーを草の根レベルからなくしていく。裁判に慣れた国民は裁判所の意義を認め、そのステータスを上げてくれるし、裁判に慣れれば裁判も日常茶飯事となって、弁護士の儲けも増えようというものだ。


このように法律業界こぞって諸手を挙げて賛成した陪審員制度だったが、そこには一つ、問題があった。それは一般人が裁判の結果を決定するとなると、裁判官の権威がなくなってしまうのではないか、ということである。

アメリカやイギリスで行われている陪審員制度では、有罪・無罪の判決に裁判官は関与することができず、一般市民だけで判断される。裁判官は議事進行や説明、量刑判断など、むしろ陪審員を世話するサブの立場にある。

これはエリート意識の強い、日本の裁判官には受け入れがたい制度であった。そこで裁判官も判決に加わり、審議をリードするという修正陪審員制度-裁判員制度が選ばれた、と言われる。


業界の裏事情が透けて見える、という天では、医師不足とも良く似た問題である。

国籍法改正

先ごろ国籍法が改正され、子の国籍の取得に、親の結婚は不必要となった。これは、6月に出された最高裁の違憲判断に沿っての改正だ。

最高裁のロジックは、「(日本が採っている)血統主義に、国籍は関係がない」というもの。確かに、親が日本人なら子にも日本国籍を与える、というロジックから言えば、親が正式に結婚していようがいまいが、血が繋がっていれば、子供には自動的に国籍は付与されなければならない。

結婚条項は本来、不必要だったのである。それが追加されたのは、国籍法制定当時、子は必ず結婚した夫婦から生まれなければならない、という戸籍主義が一般的だったからである。

それから数十年を経て、婚外子が増加した現在では、結婚条項のせいで国籍がもらえないケースが増えている。外国人と日本人が子をなした後、別離。残された子が無国籍になってしまう。外国人親が「この子は日本人の実子であるから国籍を与えてくれ」、と主張しても婚外子なので門前払いされてしまう。

そんな理不尽を解消するための、今回の改正は当然のものと言えよう。


それに対し反対する声もある。改正によって国籍の「偽装取得」という抜け穴ができるからだ。

新法では、親子関係を証明するのに写真しか証拠提出を求めないが、CGの発達した現在では、写真を偽造するのは難しいことではない。そのため改正案ではDNA鑑定も考えられたが、親が行方不明になっている場合、それを確認するのは事実上不可能であるため、見送られた。

無理に要求すれば、「国籍法改正はポーズのみ。日本は子供の人権に疎い国だ」という謗りも免れない。

赤池議員など、「最高裁が正しいとは限らない」と、三権分離を否定しかねない発言までしているが、総合的に見れば、彼の主張が間違いというのは明白だろう。実際、今回の採決では、反対議員はほんの数人しかいなかった。



この件に関してネトウヨ辺りでは、「大量の中国人・韓国人が気化してしまう」と危惧するコメントが大量に寄せられたが、サヨと同じ論理展開がなされていておもしろい。

なんとなれば、サヨも同じように「○○法が可決されれば、大量の恣意逮捕がなされてしまう」というロジックで新法に反対していたからだ。○○法を国籍法改正に、恣意逮捕を外国人の帰化に置き換えれば、ウヨの主張と同じになる。

ウヨもサヨも鏡像的だ。

思うに法律とは、網のようなものだ。その網目を緩くすれば、救われる人が増えるが、同時にそれを悪用してすりぬける人も出てくる。逆に狭くすれば、すりぬける悪人は減るが、網目がきつすぎて、救い取られない人も増える。

要は「救い」に重点を置くか、「防悪」を重視するか。そのどちらに重きを置くかで、大体その人の 心理傾向見えてくるというものだ。
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