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風景から

人は風土の産物である。

蘇州のぬれた庭園は人を情緒に沈ませ、ロサンゼルスの乾いた街角は、人からポエジーを蒸散させてしまう。ニューヨークの強引な車道は人を合理化し、香港の街路で人は複雑化される。

そんな中で、わたしは東京を歩いている。

歩くたびに風景は伸び縮みし、わたしを包んで動いていく。学者が本と紙に包まれながら思考を深めるというのなら、風景という紙にもまた、そのような作用があるといっても差し支えないだろう。

わたしは東京という皴の寄った紙をたどりながら、思いを深めていく。

思いは折れ曲がり、七曲がり、一様には収束しない。かつてサンフランシスコで思索を広げたときには、思いは常に直線的で、結論を要求されたものだった。。。誰に?街路に。

街路が直線的で、短絡的であるときには、そこを歩く人はストレートな思考を無意識に身に付ける。アメリカ人が直情的であるのは、その風土の賜物である。

あのサンフランシスコの街路は、山の周りをゆっくり上るなんて迂闊なまねはせず、ただひたすらまっ直ぐに山を切り開いていた。あの信仰にも似たひたむきさこそが、アメリカの原精神である。

翻って東京の街路は曲がりくねり、そのなかで考えは屈折・反射を繰り返すしながら、次第に熟成していく。


また複雑な路地は、人と風景の境目をあいまいにしてしまう。風景を見ていたはずなのが、風景に見られ、ついには風景の一部となってしまう。

夜ともなれば、わたしは風景に溶け込み、街という意識体の一部となってしまう。そう、わたしはかつて、街だったのだ、と心だか街だかは理解している。

ともすれば神秘主義に傾いてしまう妖しい傾斜を、それでも跳ね除けもせずに漂っていく。そのなかでわたしの感覚は広がり、不思議な鋭敏さを備えていく。

おそらく、古代人が狩りをするという心性は、このようなものだったのかもしれない。あるいは、能舞台にたつ、という行為はそのようなものなのかもしれない。

それはあなたとわたし、が切り裂かれた近代以前の交渉方法であり、肉体を極限まで開いた言語だったのだと、おもわれる。

そのような古いやり方に、光を当てたのが現象学者たちである。彼らは存在とは意識と環境が織り成す音楽だと看破。なかんずくブーバーは世界とは、意識が世界に問いかけることで成り立つものだと捉えた。

それはたとえば、王陽明が竹と対話し、それと一体化しようとした逸話を思い起こさせる。そこには一体化と問いかけという違いはあるが、「世界を自己と同等なものと認識し、対話を行う」ことで、自分と世界との関係を捉えなおすという智慧は共通している。

対話先が神であったり、竹であったり、死であったりするが、原理は似通っている。


そのような対話を通して、わたしたちは街とそれぞれ秘められた繋がりをもつようになり、街の時空間的な広がりをも共有することになる。

ここから「歴史」と「地理」が具体的な意味をもつようになり、ここから「国」という共同体がはじまる。

ただそれは、ひとを同一民族的な直線に回帰させてしまう危険性をも、多分にもつ。街に文化的多様性が必要とされる所以である。

たとえば渋谷には一つの外交官の家があった。外交官は韓国を振り出しに、欧米各国を歴任し、日本に帰る暇もないほどだったが、定年も近づいて家を建てることにした。

設計は白人の建築家に任せたのだが、その建築家は立教大学の校長であり、もともとはセントルイス出身の教会員であった。

完成した家では、各国の外交官を招いてのパーティが開催され、戦争のさなかには辛くも爆撃をまぬがれ、やがて主が死去したのちには、市に寄贈されて記念館となった。

このようにたった一軒の家にも日本とアメリカが交差し、韓国やセントルイスの物語が錯綜する万華鏡、あるいは戦争やパーティといった協奏曲のような舞台が内包されてある。

それこそが人間という複雑性の具現化であり、それを識るということは、あたかも構図や細部に複雑な意志がこめられた、水墨画を鑑賞するようなものと分かるのである。

そこに至ってわたしは街をあるくと言う行為が、自分の複雑性を、街の複雑性に照らし合わせながら深めていく行為だということに気づく。その意味で風土(風景)は、ひとを作るのだと、悟るのである。
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勝間本の氾濫

勝間和代。毀誉褒貶の激しいタレント知識人である

一般人からは「分かりやすい」「競争時代にふさわしい指針を与えてくれる」などと好意的な声が多い反面、識者からは、「アメリカ型資本主義の受け売り」「日本の風土を考慮していない」「強引で視野が狭い」などと批判されがちだ。

つい先日も、知り合いの会計士が「彼女の本は読む気もしない」と吐き棄てるように酷評していたが、むしろ批判すべき点は、マスコミが勝間一色になり、全ては彼女が正しい、という一億総盲信のほうにあるようにおもう。

一体に日本の言論は付和雷同、一極集中的なところがあり、多様性に乏しい。少し前までは森永卓郎一色、その前は竹中大臣一色の時代が続き、知のカリスマ化、流行化が甚だしい。


もちろん知の大衆流通が悪いわけではない。象牙の塔に閉じこもって自慰的な研究をしている知のあり方が批判されて久しい。ただ今でも研究資源の東大一極集中に現れているように、知が広く民間に蓄積されているわけではない。

アメリカではジャーナリストなどの在野知識人の層が厚く、経済評論一つとっても、実に多様で奥の深い評論がなされている。ところが日本では層が薄く、勢い知の世界から「天下った」知識人の声が「天の声」のように扱われてしまう。

ところが天の声は野にあっては孤立しているため、切磋琢磨されずに次第におかしな方向へ行ってしまうことがある。特に分野外の知を担当する場合に、その逸脱は著しい。

例えば昨今では脳科学が流行り、それが全てを解決してくれるという妄信が広がっているが、それに便乗するかたちで脳科学者らが社会科学から人文学までをカバーする風潮がある。


しかし元来彼らは自然科学者であり、人文学の素養に乏しい。それを押して批判するものだから、勢いAHA!体験のようなキワモノが横行してしまう。

結果、やはりまともな知の議論は象牙の塔内でやるしかない、という認識が強化され、塔の壁は厚く高くなってしまった。知の流通・解放が、却って知の自閉を招くというジレンマが、そこにはある。

90年代には、インターネットの普及が壁を打破すると期待されていたが、余りに自由な意見のやりとりは、識者同士のコミュニケーションと、一般人同士のそれとを分ける結果に終わってしまった。

もっとも、それで民間の知が消え去ったわけではない。たとえばネットには優れたものは少なくとも、日々知が重ねられていく。それらを紡ぎあげていく可能性がなくなったわけではない。

ただそのような知は、「知」を解体していくものになるだろう。生活と学問の狭間、一般人と民間人の境界というより、両者が融合し、新しい智慧として結晶していく。そのような錬金術が、模索されつつある。

ネットのない時間

最近、回路が不安定で、ネットに繋げられていない。

Unconnectedの状態が続いているのだが、ネットがない生活というのは、奇妙な静けさである。一昔前でいえば、テレビやラジオのない生活。食後の時間が牛のように、でん、と横たわっており、その牛をもてあましている感じ。

思えば、ネットというのは騒がしい同居人である。ニュースやブログ、ツイッターやメールなど、始終何事かとささやきかけ、自己の意識というものは、そのなかで揺り動かされ、突き崩されて「多中の1」として、無意識のうちに協調作業するようになる。

ネットというものは、現代の共同下宿であり、学生宿であり、文壇であり、論壇であった。その中で、数多くのtwitterが生まれ、それを吸収・消化・加工して、わたしの時間が動いていく。

しかしそこからunconnectedされると、時間は本来の牛のような愚鈍さを取り戻し、わたしはそいつと格闘しなければ、ならなくなる。その闘牛の中で、わたしはものの海のなかに、深くはいっていく。

これは、世界の断片を、すばやく、浅くとらえ、纏め上げるネットの思考法とは、正反対のものだ。ネットの思考も、ものの思考も、「関係性」を利用している面では同じなのだが、ネットは関係を明確に、対象だけを捉えて並べなおす。

それにたいし、ものの思考は、ものにまつわる原始的な関係性をたどりながら、その奥にあるみえないものをぬすみ見ようとする。

もののなかに、岩のなかに深く沈みこんでいく蝉の声は、単なる音ではなく、それを媒介にした関係の広がりである。そして広がりは重なり合いながら、濃淡の波模様をえがいていく。その波とたわむれながら歩いてくわたしは、長いこと忘れていた建物の音を聞いたような気がした。

ものには

物語、武士、怪物、悲しみ。この4つの単語に共通するものがあるが、お分かりだろうか。

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テーマ : ことば
ジャンル : 学問・文化・芸術

マスクの効果?

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アメリカに住んでいたころ、マスクをつけて外出したことがある。

するとなぜか人から避けられるので、つかまえて聞いてみたところ、「マスクをつけているので、悪性の伝染病にでもかかっているのかと思った」そうだ。

そう、実は海外ではマスクには風邪除けの効果はなく、感染者がそれ以上ウィルスを撒き散らすのを防ぐ効果しかない、と考えられている。

実際、インフルエンザ・ウィルスは、マスクのフィルムなど簡単に突破してしまうし、そもそも普通の人間が街を歩いていて飛沫感染する割合は少ないとされる。感染の大部分は、唾や鼻水を通しての接触感染であり、それを防ぐには手洗いを徹底したほうが効果がある。

日本のマスク狂想曲が「集団ヒステリー」と揶揄される所以である。

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