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いいちこ~また君に恋してる~



新年なので、さわやかな曲から始めたいとおもふ。

焼酎「いいちこ」のCMソングで、「また君に恋してる」。歌い手はビリーバンバン。過去のバンドと思われがちだが、どっこい現役である。

曲調はS&Gを彷彿とされる、透明感のある哀しい調べ。どうしても"Sound of Silence"を思い出してしまう。サイモンとガーファンクルによる、背筋がぞっとするような美しいハーモニーを始めて聞いたのは、たしか中学生のときだった。

ラジオから流れてきたその曲のタイトルを知りたくて、図書館という図書館、レコード屋というレコード屋を回りまわった日々。

インターネットやレンタルCD屋がふんだんにある今日からは信じられないが、一つの曲名を知るのに何年間もかかった時代もあった。

そういう時代がよいものとは思わないが、そうした手間に刻み付けられた時間は、心のそこに沈殿しては、このような曲に触れて鈍い光をはなつことがある。

その光は風景の奥に隠された、より深い陰影を浮かび上がらせ、わたしたちは有り得べきだったもう一人の時代に立ち戻るのだ。
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ぐぬぬ

gnn-all.jpg (click拡大)

ぐぬぬ。

悔しそうな、それでいて、内にこらえているような少女の顔、顔、顔。俗にいう「ぐぬぬ画像」である。元ねたは「一期ましまろ」のアナ・コッポラちゃん。

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これはいじめっ子のみうに、「穴・骨洞」とからかわれて悔しがっているサマ、とくに塩をかけられたナメクジよろしく、口元がギリリと歪んでいるサマなのだが、その姿がネット住民らにウけ、虹裏などで改良バージョンが量産された。

その数、数百種類。苺ましまろは元より、ねぎま、けいおん、絶望先生、シャナ、Qブレイド、とらドラ、メイデン、サキ、ミク、アイマス、はては阪神タイガーズまで、驚くべきことに、日本の生み出したキャラは、およそ全てがこの「ぐぬぬ形式」にフォーマットできる。


この単純な○で構成された造詣の系譜は、ドラえもん、サザエさんの丸顔、さらにはのらくろ、タンクロー、タコ八、正チャンや、ノンキ父さんまで遡ることができる。大正末期~昭和初期の漫画群である。

このルーツを北斎漫画や鳥獣戯画に求める人は多いが、毛筆による絵画的な描写である「鳥獣戯画」と、ペンによる図形的な表現である「のらくろ」を同一視することは適切でないだろう。

「のらくろ」や「ドラえもん」に特徴的なのは、○や□を組み合わせて構築された顔やボディであるが、実はこれは20世紀初頭、ドイツではやった「単純主義」の直輸入である。

単純主義とは、できるだけ簡素な描写で表現しようという流派で、「タンタン」や「ひとまねこざる」にはそのスタイルが顕れている。(タンタンの作者はベルギー人、こざるの作者はドイツ人)


もちろん、単純主義の背後には、同じく単純な幾何的表現を旨としたロシア構成主義や、アールデコの影響を見て取ることができるだろう。あるいは、さらにキュビズムやバウハウスの匂いを嗅ぐこともできる。

19世紀後半、ビクトリア朝イギリスでは鉄とガラスによる新しい建築が実用化され、それまでの装飾的・凸凹的だった町並みが、幾何的・直線的なものに変質しつつあった。

その変質をいち早く嗅ぎつけたのがピカソに代表されるアヴァンギャルドな芸術家たちであり、彼らの作った潮流「キュビズム」の流れの支流に、ドイツ単純主義、そして日本の現代漫画が乗っているのである。

花のフィレンツェ~遠近法

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立体を平面に移す。

これは想像より遥かに大変な作業で、人類は数千年もの間、その技法を模索し続けていた。

今でこそ遠近法がその目的に使われているが、それが未開発だった時代においては、彫刻は良いとしても、絵画は稚拙なものになってしまっていた。

今でも子供の描く人物画は、顔を正面に向ける一方で身体は横を向けるなど、奇妙なねじれ具合を示すが、古代エジプトの壁画も、そのような構図をもっていた。

egypt.jpg

彼らにとっては絵画とは、見たままを表すというより、印象に残った部分を繋ぎ合わせたものであって、正面から見た部分が印象深ければ正面を描写し、側面から見て感慨深ければ側面を、という具合に、さまざまな観点から対象を観察し、それらを総合したわけである。

(このような描写法は20世紀に、キュービズムとして復活を遂げることになる)

このやり方を風景に応用すると、遠くのものでも、それが興味をひくものであれば大きく、近くのものでも無関心なものなら小さく、まるで心理距離をあらわすかのような、非現実的な縮尺で、事物が描かれることになる。中世の絵地図などは、まさにその典型である。




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テーマ : 絵画
ジャンル : 学問・文化・芸術

花のフィレンツェ~ダヴィンチ

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そしてボッティチェリの弟弟子が、かのダヴィンチである。

フィレンツェ郊外のヴィンチ村で成長した彼は(レオナルド・ダ・ヴィンチという名前は、ヴィンチ村のレオナルド、の意)、長じてフィレンツェに移り、そこでボッティチェリらとともアンドレア・デル・ヴェロッキオに、絵画を学んだ。

師匠は彼に描かせてみたところ、あまりにうまかったので筆を折り、彼に工房の絵画部門を任せ、自らは彫刻に専念するようになったという逸話が残っている。

真偽のほどは定かでないが、彼が絵画部門の主任になったのは確からしい。元々ヴェロッキオは彫刻家だったのだが、それだけでは食っていけないので絵画部門をも運営していた。ミケランジェロの例にもあるように、当時は彫刻と絵画の分離は、それほど進んでいなかったのである。

そこにソツなく絵がかけるダヴィンチが現れたので、これ幸いと彼に絵画部門を押し付け、自分は彫刻部門に楽隠居を決め込んだ、というのが真実らしい。


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花のフィレンツェ~ボッティチェリ

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14世紀のペスト禍から百年を経て、人々が「死の舞踏」(*)の黴臭さに飽き飽きした15世紀、フィレンツェでは生を謳歌する新しい芸術が産まれようとしていた。

注)死の舞踏:死神や死人と人間がともに踊り、最後に墓場に誘われてしまうという、当時のペスト禍の状況をモチーフとした絵画。memento mori(死を思え)の表題とともに流行した。

確かにマザッチョの画風はすばらしいものではあったが、均整に過ぎ、そこに生の快楽を見て取ることはむずかしい。絵画というよりも幾何学的・写真的な印象さえある。(当時、写真と絵画、芸術と科学は未分離であった)

生の生らしさを描くことに成功した画家は、ボッティチェリである。


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花のフィレンツェ~マザッチョ

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ジョットは1337年に死ぬが、その死後、14世紀後半のヨーロッパでは、黒死病が猛威を揮(ふる)う。

黒死病(ペスト)は、中央アジア原産と考えられていたが、近年、さらに研究がすすみ。四川から雲南にかけての地域の風土病という説が有力になっている。

この辺りは温暖で、氷河期には寒さを避けて動植物が集まったため、古生物が温存されており、茶や稲の原産地として知られている。

そしてペストも、どうやらそこが起源だったらしい。

このような風土病は、通常は地元での小流行を繰り返すのみに留まっているが、何かの拍子に外界に出ると、爆発的な感染に発展しやすい。エイズやSARS、エボラなどが有名な例であるが、中世のペスト大流行は、モンゴルの雲南侵略が遠因だったようだ。

それまで雲南には大理国が栄えていたが、中国を統一したフビライに降伏。雲南はモンゴル帝国に組み込まれる。

モンゴル帝国は挑戦半島からヨーロッパに至る長大な交易路を管理しており、それを伝ってペストが雲南から中国、中央アジア、そしてヨーロッパに上陸することになる。



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テーマ : art・芸術・美術
ジャンル : 学問・文化・芸術

花のフィレンツェ~ジョット

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ジョットは13世紀にフィレンツェ郊外に生を受けた画家で、チマブエの弟子である。彼をもって、中世絵画はルネサンス期に入ったとされる。

ジョットは羊飼いの子で、岩に羊の頭を描いていたところ、その余りのうまさに驚いたチマブエが弟子にしたという、伝承がのこっている。

彼は平面的で、死んだように無表情な人物像が主体だった中世絵画に革命をもたらし、立体的で、表情豊かな人物像を描いた。

lazarus.jpg

聖書を紐とくと、「ラザロの蘇生」のエピソードが書かれている。ラザロはイエスの友人で、イエスが久しぶりに彼を訪ねたところ、彼が死んで4日たったことを知る。しかしイエスが墓に行き、ラザロの名を呼ぶと、たちどころにラザロが生き返ったという。

これを描いたのが上の「ラザロの蘇生」だが、その登場人物らのイキイキとした表情には驚かされる。構図も映画のようにダイナミックで、左にイエス、右にラザロを配し、イエスの言葉によって、ラザロが蘇ったことが説明なしに分かるように配慮されている。

またそれ以前の中世絵画では、遠近法が無視され、遠くの風景が大きく描かれていたりしていたのも、ジョットではきちんと遠くのものは小さく、近くのものは大きく、自然な比率で描かれている。まだ透視画法などは使われていないが、画像で立体を表そうという試みは、ジョットによって新たな段階に引き上げられたと言っていいだろう。

もっともまだまだ彼の描く人物は、おずおずと画面の登場しているようなぎこちなさがある。そのぎこちなさが取り払われるのには、ペスト-黒死病-の来襲を待たねばならなかった。

参考:
http://www.fujiso.com/main7.html
http://art.pro.tok2.com/


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和朗フラット

東京は麻布台にある古アパート、「和朗フラット」。

単に古いだけのアパートなら、東京にはごまんとあるが、戦前となると、数えるほどしかない。以前は代官山や表参道に同潤会があったが、それも取り壊されてしまい、残っているのはわずか。

震災、戦災と原因はあるが、何より日本人は古い建築を大事にしない、というのが最大の理由だろう。政治や文化の面では悲しくなるほど古いもの好きなのに、なぜ「女房とタタミ」だけは新しいのが好きなのか、一度つっこんでみたい気はするが、なにはともあれ、この和朗フラット。かなり古いたてものだ。

昭和の5~11年に建てられたこのアパート、設計者は上田文三郎・万茂親子。文三郎は農学者で、昭和3年に息子と米国視察団に加わり、帰国後、このアパートを作った。


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スタイルは「スパニッシュ・コロニアル」と呼ばれるもので、アメリカ西海岸に特徴的な様式である。

もとはスペイン植民地に普及していた様式で、カリフォルニアはスペイン人の植民地だったために、この様式が広まったわけである。

特徴としては白やピンクを主にしたあかるく輝く漆喰外壁、半円アーチの出入り口、赤褐色の瓦屋根などが挙げられるが、これはあかるく澄んだカリフォルニアの光のしたでは、ひときわ際立つ建築でもある。

その光景は印象的で、おそらく上田はそれに魅了されたのだろう、和朗フラットの基本コンセプトはスパニッシュコロニアルであり、ために「スペイン村」というあだ名さえつけられた。

しかしこの様式は、あくまで乾燥した地中海式気候のなかで生きる。白系統の外壁はつよい光をはじいて輝くのであり、日本のように湿った光のしたでは、その真価を発揮しない。アーチの出入り口は芝生の庭園におかれてこそマッチするのだし、赤褐の屋根はカリフォルニアの青い空に添えられてこそ、うつくしい。

実際、上の写真でわかるように、東京のごみごみした曇天下では、この建物はぱっとしない。


またソトから覗く限り、住環境もあまり良いようには見えない。中庭は粗大ゴミなどが乱雑に放置され、窓辺には洗濯物などが干されている。このアパートにはベランダがないようで、ものが干せないのらしい。

全体的に薄汚く、管理が行き届いていないように見える。

日本の西洋式古建築に共通して言えることだと思うが、諸悪の根源は「安普請」である。横浜でも神戸でも函館でも、戦前の洋館は日本の長屋をベースとして建てられており、欧米本場の建築に比べると、柱も梁もほそければ、壁も床もうすく、全般に安っぽい。

百年、二百年もつように作られる西洋の建築にくらべ、日本の建築は十年、二十年もてばいいという発想で造られるが、その違いが出てきているようだ。

またそのような古い洋館で暮らす場合、十二分に整備しておかないといろいろ問題が発生する。ほっておけばすぐにカビがはえ、シロアリが巣食い、水は漏る。修繕を繰り返せば歪みはふえ、隙間風やきしみが耐えない。

幾度かそのような洋館に住んだことがあるが、正直、二度と住みたいとはおもわない。確かに古い家には骨董的な味わいがあるが、骨董というものは好きなときに一時的に味わうもので、四六時中それに囲まれて生活していれば、じきに嫌気がさしてしまうものだ。

花のフィレンツェ~チマブエ

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チマブエは、詩人ダンテが「絵画の世界の覇者」とまで絶賛した画家である。しかしその割には伝承が少なく、生没年すら明らかでない。ただフィレンツェに生まれ、13世紀に活躍したことは分かっている。(ちなみにダンテもまた、フィレンツェ生まれである)

その代表作「荘厳の聖母」。金色の背景、左右対称の構図、平面的な描写、画一的な表情などは、すべてビザンチン絵画から受け継いだもので、今日的な眼で見ると、ルネサンスというよりは中世的である。

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この絵は奇妙な五角形をしているが、これは元々教会の壁画だったからである。教会の小部屋の壁から天井にかけて描かれているため、平面に伸ばすと、このような五角形になるのだ。

当時は拡大した農業生産力や、十字軍の影響などから商業が活発化しており、それを背景にして教会芸術が盛んになっていた。この芸術をゴシック様式というが、ゴシック様式は、それ以前のロマネスク様式とは大きく異なっていた。

ロマネスク建築では窓が小さく、室内は暗かった。そのため金色で描かれた画像は明るく輝き、引き立ったのである。一方、ゴシックになると、窓は拡大され、室内に外光が差し込むようになる。すると人々は絵の細部までを、じっくり観察することができるようになる。

その結果、それまでの絵画は「ちゃちい」と思われるようになったらしい。確かに陽光の下で見る中世絵画は、のっぺりして、どこか稚拙さをかんじる。(↓「星の聖母」12世紀ロマネスク)

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そこでチマブエが工夫したのは「立体感」であった。

「荘厳の聖母」の玉座を見ると、斜めから描かれ、立体感が出されていることが分かる。それに合わせて聖母の体も斜めを向いており、奥行きが感じられるように配慮されている。周りの天使らも玉座の前後に配置され、立体効果を盛り上げている。

さらに洋服の皺は写実的に描写されており、顔の陰影も強調されているなど、これを見た参拝者らは、トリックアートでもみるような臨場感をもったものと、おもわれる。

チマブエは絵に立体感を持たせ、あたかも壁の向こうに聖母が座っているかのような効果を狙ったのである。

結果、チマブエは名画家としての評判を獲得し、イタリア・ルネサンスの祖として評価されたが、今日的な眼からすれば、やはりまだまだ中世的描写から抜け出ていない。

一般にはむしろ、チマブエの弟子であるジョットが、ルネサンスを切り開いた画家として、広く知られているだろう。


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花のフィレンツェ~芸術の都

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人は大金を手にすると、芸術に目覚めるもので、フィレンツェ商人もその例に漏れず、功なり遂げた自宅を絵画で飾ったり、町の広場に彫刻をおく気風が芽生えてきた。

そしてフィレンツェは、ジョット、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロら、後にフィレンツェ派と呼ばれる芸術家たちを輩出するようになる。

中世ヨーロッパの絵画は、ビザンツ芸術の影響下にあったが、それはたぶんに不自然で、無表情なものであった。構図は硬直的で、人物の眼は死んでおり、それを見て楽しむというより、物思いにふけさせるものと言ったほうが近いかもしれない。

というのは、ビザンツ絵画の目的とは、神の栄光を讃えることだったのだが、当時のキリスト教においては、神を直接描くことはタブーだった。キリスト教は、偶像崇拝的なローマの多神教との闘争の中で確立されたものであり、図像には大きな抵抗感があったのである。

しかし文字も知らぬゲルマンの蛮族にまで、広く神の栄誉を知らしめるには、やはり図画は不可欠であり、やがて必要に応じて宗教画が生まれてくる。そして偶像否定の禁忌をかいくぐるために、宗教画は神を描くのではなく、「神を想起させるもの」と解釈されたのである。

つまり、人々はその絵を直接見るのではなく、その絵を通して、その背後にある神の栄光を想像したのである。現在の抽象画と似た鑑賞法だったと言っていい。

勢い、それは写実的というより象徴的、独創的という典型的なものにならざるを得なかったことは、下の母子像(左)を見れば一目瞭然だろう。

medieval


同じ母子像でも、ルネサンスになると、右図のような、表情豊かで自然な人物像になる。もちろん現在の眼から見ると、まだまだ不自然で演出過剰ではあるが、少なくとも左図よりは、現在の絵画感覚に近づいたことがうかがえる。

このように中世とルネサンスの間には、深い断絶があるのだが、それを埋め始めた先駆者が、チマブエである。


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マークシティの桜

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渋谷マークシティの名物、「一本桜」。

道玄坂上に一本のみで屹立し、その孤高な姿は、浮ついた渋谷のなかにあって、哲学的ですらある。

周辺は空調が効いて暖かいのか、まわりの桜よりも1週間ほど早く先始め、道玄坂の風物詩ともなっている。

写真、桜の根元の碑は、「道玄坂由来の碑」。それなどによると、江戸時代の始め、この坂には「道玄」と呼ばれる盗賊がたむろしていたので、「道玄坂」と名づけられたのだという。

東京では坂道に盗賊の名前を付けることは珍しく、事の真偽は疑わしいが、道玄坂そのものは大山街道の一部であり、行き交う旅人を狙って盗賊が出没したことは否定できない。

江戸の治安が確立されると盗賊も消え去り、この辺り一帯は大名の屋敷が並べられた。渋谷川を挟んだ向かい側には伊予西条藩松平家の上屋敷があり、今では青山学院大学になっている。その近くには、「青山」の名前のモトとなった美濃郡上藩「青山」家・下屋敷がある(現・青山霊園)。

ではこの道玄坂には何があったかというと、紀州徳川家の下屋敷が存在していた。下屋敷は明治になると鍋島家に払い下げられたが、鍋島家はここを茶畑にしていた。なるほど、道玄坂は傾斜地で水はけが良く、茶の栽培には向いている。

しかし北は代々木に練兵場がおかれ、西は駒場に陸軍の諸施設が設置されると、茶の栽培はなりをひそめ、道玄坂は陸軍兵士の歓楽街として発展していくことになる。現在の道玄坂の発展の基礎は、この時に築かれたといっていい。

やがて関東大震災によって、当時の歓楽街・浅草が崩壊すると、その跡をついで道玄坂には商店街「百軒店」がひらかれ、大いに賑わった。そしてその賑わいを盗むかたちで、東急が一帯を傘下におさめていく。

もっとも、渋谷は東急だけでなく、他私鉄も乗り入れている。京王・井の頭線であるが、その井の頭線のホームをJR易者から離し、無理やり作ったスペースに駅ビルをおっ立てよう、というアイデアが持ち上がった。

これがマークシティだが、元は線路だったところを、トコトコ歩いて出ると、桜が迎えてくれる。写真の桜である。

テーマ : 桜 花見
ジャンル : 地域情報

フキゲンな落書き

奈良美智が逮捕されたそうな。

と言っても大麻やコカインではなく、罪名は「落書き」。NYの地下鉄で「友人の似顔絵」を落書きしているところを、警官に見つかって逮捕されたのだという。

それに対し、本人は「似顔絵ではなく、小さな顔の絵」と見当違いな反論をしているが、落書き行為そのものは認めている。

もっとも、ここではこのイラストレーターの「世間知らず」「不道徳」を批判したいわけでない。この類の蛮行は、むしろアーティストにとっては「武勇伝」。これで奈良美智も晴れて、いっぱしの「芸術家」として認められた風さえある。

ここでカタりたいのは、彼の立ち位置について、だ。


元々、日本では、彼のファンはそれほど多くなかった。彼が認められるようになったのは、アメリカのMOMA(Museum Of Modern Art) などで展示されてからである。

アメリカの美術館では、エスニック的公正さを大事にする。欧米系だけで展示場を埋め尽くすと、他民族から抗議がなされるからだ。そこでほぼ必ず、アフリカ系、アジア系芸術家などから作品を持ってくるのだが、日本。

日本の現代アートの最たるものは「アニメ」。ただアニメをそのまま上映したのでは、アートにならない。このヘンからは、現代美術の欺瞞性がちらほら見え隠れするのだが、それはさておき、丁度良いことに、日本アニメを現代美術たらポップアート風に料理した作家がいた。それが奈良美智だったのである。

そこで氏に白羽の矢が立ち、奈良作品は全米を石鹸。やがて日本にも逆輸入され、ちょっとしたブームにもなった。


ただブームが去った後、現在の彼の立ち位置は、「海外で認められたというから買って見たけど、そんなにいいかなあ?」というラインまで撤退したように見える。

不機嫌そうな少女を、マンガのように、ポップアートのように描いた一連の作品は、確かに今までの日本の文脈上にないもので、それなりに新奇なものだったが、慣れてしまえばそれ以上語りかけてくるものがない。

少女作品には、例えば「麗子像」のような、現実とも悪夢ともつかない連作があり、それを見るたび色々としつこいぐらいに語りかけられるのだが、奈良作品にはそのような深み、凄みがない。

もっともポップアートにそのような凄みを求めるのはお門違いと意見もある。ポップアートは鑑賞するのではなく、イラストのようにただ消費すれば良いのだ、という主張もある。

ただ良質のイラストには、見た後に残る「何か」がある。それは古典芸術のような、ゴツゴツしたものではないけれども、わたしたちはを振り向かせる「何か」がある。

そして、奈良作品にはその「何か」が、決定的に不足しているのである。

椿の咲くころに

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今年も隣家の庭に、椿が燈った。

住人が世話をしているのを見たことはない。老夫婦は縁側に時たま姿を現すだけだ。

だが植物は密かに二月の訪れを感じ取り、黙って花を咲かせる。そこには緩やかでありながら、持続し続ける意志が感じられる。


椿は中国南部から日本にかけての照葉樹林帯を原産とする植物。元々は山茶花に似て、小ぶりでぱっとしないものであったが、室町時代、茶の湯に取り入れられてからは、品種改良が加えられ、今ではバラに劣らぬほどの華麗な品種も存在する。

冬に咲く花には他に山茶花や雪割草などもあるが、椿の華麗さには敵わないと見えて、江戸時代には全国的に流行した。

明治に入ると、花よりもむしろ種に注目が集まった。椿の種は、絞ると良質の油が採れるからである。椿油は機械油など産業用として珍重され、石油を産しない日本では、その栽培が奨励された。有名な伊豆の大島椿油は、この時期に栽培が拡大したもの。


椿はまた、ヨーロッパでももてはやされた。フィリピンに滞在していた修道士・カメルが、18世紀にヨーロッパに紹介すると、椿は一躍持て囃された。そしてカメルにちなんで、その花の名は「カメリア」と名づけられることになる。

ただヨーロッパでは侘び寂びより、「妖艶」「愛情」のイメージで受け取られたようで、デュマは白椿を好む娼婦をヒロインにして「椿姫」を書いた。

ちなみに椿の花言葉は「愛らしさ」「愛情」そして「美」である。

そしてその椿=女性の美、というイメージを、東洋に逆輸入したのが資生堂であり、椿のシンボルマークを大正の昔から、現在まで使用し続けている。そこにも、この植物のもつ、にぶい意志の継続を、見ることができる。

Jabberwocky


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ジャバウォッキー(Jabberwocky)は、ルイス・キャロルが創造した怪物である。怪物ではあるが、キャロルはナンセンス詩のかたちで発表したため、その正体は明らかではない。

詩の中には"The jaws that bite, the claws that catch!", "with eyes of flame"などの描写があり、また「ジャバ」「ウォッキー」という後漢から、なにやら、おどろしいモンスターを捉える向きが多い。

だが、ジャバウォッキーの詩自身は、「鏡の国のアリス」内の挿詩、という位置づけから分かるように、キャロル自身はパロディ、笑いをとるために、この生物を創造したと考えるべきだろう。

もっとも「アリス」の挿絵では、ジャバウォッキーはドラゴンのように描かれているので、以後、ジャバウォッキーは恐竜のような、謎の生物、というイメージができあがった。現在、さまざまなRPGやファンタジーをにぎわせている常連客でもある。

「アリス」には、ジャバウォッキーのほか、ハンプティ・ダンプティ、グリフォン、ドードー、三日月ウサギ、チェシャネコなどなど、色々な生物が登場する。

ハンプティ・ダンプティのようにイギリス固有のもの、グリフォンのようにヨーロッパ伝統のもの、ドードーのように近代になって発見された「旬」なもの、鼠や海老のような日常的なもの、そしてジャバウォッキーのようにキャロルが発明したもの、に大きくわけられる。

これらの動物が、キャロルの時代ーヴィクトリア朝イングランドーを、華やかに彩っていたのである。

飯島愛死す

「飯島愛死す」

というので、早速現場に行って見た。現場は渋谷駅にほど近いタワーマンション(インフォスタワー)。セルリアンタワーの裏側に当たり、いつもは静かな場所だが、今夜は報道陣が詰め掛けて騒然としている。


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周辺は高級住宅地。芸能界で荒稼ぎした飯島ならではの住宅だが、同じ高級宅地でも六本木や代官山を選ばず、渋谷にこだわった点は、彼女のコギャル性を表しているようにも見える。


飯島愛。そっちの世界から芸能界入りした女優には、美保純や東てる美などの先輩がいるが、飯島愛はアイドル→タレント路線に転進し、成功を収めた。

成功の秘訣は、頭の回転の速さ、先見の明の良さ、にあったと言われる。

AV女優として活躍していた時から、彼女は稼業に見切りをつけ、転進を考えていた。転進するための条件は「本番をしないこと」。彼女の裏ビデオが流出しないのは、この理由による。

もちろん、AV業界など海千山千の男どもが跋扈する世界だから、その中で本番せずに切り抜けるには、かなりの努力と能力が必要だったことは、想像に難くない。

そしてその力を芸能界に向けたとき、彼女の成功は約束されたものとなった。

「女紳助」とまで呼ばれるトークのうまさ。豪胆なようで、細心な人扱い。コギャルがそのまま成長したようなファッションと姉御気質。彼女の前では、AV出身であることすら、汚点というより武勇であった。


その彼女に翳りが見え始めたのは、5年ほど前だろうか。何か生気のない顔を、TVで目にすることが多くなった。

病気という話もあれば、精神という声もあった。

自伝的な小説をものしたのも、この頃である。文章を書いたことのある人なら分かると思うが、執筆作業はかなり精神に負担をかける行為である。芥川、川端、太宰、三島。日本近現代文学者のうち、自殺、早世しなかった者の方が少ないかもしれない。

AV、芸能界、小説というストレスの多い仕事をこなし続けた結果なのかもしれない。

もちろん、死因は検視を待たねばならないが、彼女は死ぬべくして死んだという印象もぬぐえない。十分に賢いはずの彼女は、どこか、幼い部分を過剰に持っていたように思う。そのアンバランスさが、彼女のキャラの面白さでもあったし、彼女もそれを認識していたフシがある。

彼女が芸能界を選んだのは、そのアンバランスさが価値をもつ市場でもあったからだろう。


だがもう30代後半という年齢は、そのアンバランスさが「痛さ」に転換していく年齢でもあった。そしてそれに直面した人は、幼さを捨てて大人になる道を選択するのだが、悲しいことに、彼女の幼さは、おそらく彼女の本質に根ざしたものであった。

彼女にとって幼さを否定することは、自分自身を否定することだったのである。

通常人は、もっと早い時期に自分の幼稚性に向き合い、これを克服していく術を覚えるが、彼女の場合、幼少時の虐待から逃れるために、幼稚性という砦を築き上げてしまったように見える。ロリ幼女という壁の向こうに隠れていれば、大人たちはそれ以上攻撃することはできないからだ。

また、その壁の後ろで、少女は大人たちを辛辣に観察することが、できるのである。たぶん、彼女の「賢さ」は、そのような逃避の副産物だったのだろう。彼女がAVを選んだ理由も、そこが彼女に幼女という壁を提供してくれる場だったからだろう。(彼女はロリで売っていた)

そしてその壁を壊して現実に向き泡なければならなくなったとき、彼女はむしろ死を選んだ。その日を選んだのは、たぶん、クリスマスを見たくなかったからだろう。


いずれにせよ、飯島愛というタレントはこの世から退出し、我々は彼女の姿を目にすることはもう二度とないわけだ。

もちろん、その隙間は別のタレント-青木さやかやら、国生さゆりやら-が狙っているわけだが、それは似ているようで違うタレントであり、飯島愛を丸ごと穴埋めできるタレントはいないのである。

たとえばベッキーや森三中は居なくなっても、すぐに代わりを見つけることはできるように思う。その意味で彼らは芸能界という娯楽機械の1部品でしかない。

しかし飯島愛とか島田紳助とかは、そのような部品では代替できない、泥臭いテイストを持っている。それは、彼らが芸能界がまだ機械化していなかった70、80年代にデビューしたからなのだろう。

不良やらボクサーやらAV女優やら、奇妙な出身の人々が、おかしく歪んだ味付けでテレビを騒がす。そういった時代がたぶん今日、終わりを告げたのだろう。

奇跡の海



「奇跡の海」は、「ロードス島戦記」のOP。

「ロードス島戦記」は実際のロードス島とは無関係で、あくまでファンタジーだが、騎士団や宗教戦争など、現実のロードス島にインスパイアされたフシが所々に見られる。

ロードス島はエーゲ海に浮かぶ島で、古来、西洋勢力と東洋勢力の衝突地として知られている。

元々はギリシャ人によって開拓された島だが、ギリシャが衰えるとアケメネス朝ペルシアの勢力圏に入る。ペルシャ支配はアレクサンドロス大王のペルシャ征服まで続き、大王の死後は、大王の部下で、エジプトを支配したプトレマイオスに服属することになる。

プトレマイオス朝は数百年続くが、最後の女王・クレオパトラがローマに屈服すると、ロードス島もローマの支配下に入る。ローマ分裂後は東ローマ帝国の領土となったが、十字軍の時代になると、定刻は弱体化。その隙をついて、聖ヨハネ騎士団が占領してしまう。


聖ヨハネ騎士団は別名「ホスピタル騎士団」といい、聖地イェルサレムへの巡礼者に宿や医療を提供する旅館兼病院-「ホスピタル」を運営していた団体である。

しかし当時のイェルサレムは敵地であり、ムスリムからホスピタルを守るために、次第に騎士団は軍団的要素を強め、十字軍戦力の一角として認められるようにまで軍備が増強された。

だが英雄サラディンによって十字軍は撃破され、中東から駆逐されてしまう。聖ヨハネ騎士団も撤退を余儀なくされ、東ローマ帝国からロードス島を奪って、そこを根拠地とした。

もっともそれも束の間、イスラム勢力は大軍を差し向け、ロードス島を包囲する。騎士団は2度まで防衛に成功したが、3度目にして遂に敗れ、西方マルタ島へ逃れた。

マルタ移転後も、騎士団はイスラム勢力と戦い、オスマン帝国遠征軍の撃退に成功したが、最終的には同じキリスト教国のフランスはナポレオンによって占領され、ついに領土を失った。

もっとも騎士団自体はその後も存続し続け、21世紀においてもなお、「マルタ騎士団」として、ローマに根拠地を置いて活動を続けている。


マルタ島はその後イギリス領となり、イギリスの地中海戦略の要となった。マルタは地中海のほぼ中央に位置するので、ここを抑えれば地中海の制海権を手にできるからである。

そのため第二次世界大戦では、この島を巡って英独双方が激しくしのぎを削った。ドイツはマルタを封鎖して降伏を勧告したが、島民はこれを拒否。イギリス側について戦い抜いた。

戦後、イギリスはそれに感謝して島民に勲章を授けたが、実権は与えなかったために反英運動が盛り上がり、やがて70年代にマルタ共和国として独立し、イギリス支配から脱した。

一方のロードス島はどうなったかと言えば、オスマントルコに占領された後、帝国領に編入されたが、トルコが衰退すると、イタリアの支配下に入り、最終的にギリシャに支配権が移った。

ギリシャ人支配を離れ、ギリシャ人に支配が戻るまで、実に2千年以上経たわけである。


さて寄り道が長くなったが、この歌、作曲は「Cowboy Bebop」の菅野よう子が手がけた。菅野の初期作品の傑作といわれている。

Bebopでも見せつけられたが、菅野のレパートリーはジャズから民族音楽まで、異様に広い。広い上に、そのどれもが印象的なメロディを持っており、彼女のhit makerとしての才能がうかがわれる。

もっとも一方で、才能が拡散し過ぎて深みのある楽曲にまでは至らない、というのが彼女の欠点でもあるだろう。

歌詞も一ひねり加えられており、これから旅立とうという景気のよい歌なのに、旅立つ先が「苦しみの海」だったり、「闇のような未来」だったりする。もっとも最後には、その苦しみを突き抜けて愛がある、と結ばれて救われるのだが、結婚式にこの歌を歌って顰蹙をかったヤカラもいるそうな。

ちなみにタイトル「奇跡の海」の「奇跡」とは、愛の奇跡のことなのだが、自分にとっての奇跡とは、むしろ「この歌をうたっているのが人ではない」、という点。


そう、歌手はご存知(?)ボーカロイド「初音ミク」。ボーカロイドというのはアンドロイドをもじった言葉で、人造声優のことだ。

もっとも全てが合成音声ではなく、生身の人間の声がベースになっている。それがデータベースに蓄積されており、ユーザーはそれをアレンジして、好みの歌声に仕立て上げるわけである。

聞いて見ると分かるように、高音部などに機械臭さは残るが、「人間が歌っている」と言われても気づかない人がほとんどだろう。コンピュータも進化したものである。

合成音声は、最初は周波数合成によって人間の音声を再現することから始まった。70年代のいかにも機械機械した合成音は、その時の研究成果である。

しかしそのやり方は、すぐに限界にぶつかってしまう。人間の声は思ったよりも複雑で、肺や声帯だけでなく、鼻腔、口腔、舌歯や感情など、様々な要素が絡み合うため、要素還元して再構成するという工学的アプローチがなかなか通用しない。

そこで幾分理想を後退させ、音声そのものは人間のものを使い、それを組み合わせて歌を歌わせようというアプローチが採択されたわけである。

厳密に言えば、これは「人間機能の全てを機械に置き換える」というロボット工学の敗退だが、現実的であったとも言える。機械に得意なことは機械に任せ、人間が得意なことは人間がやれば良いのである。


「初音ミク」は成功をおさめ、一般向け音楽ソフトとしては珍しいヒット作となった。そして二匹目、三匹目の泥鰌とばかり、様々な声優・歌手の声をサンプリングした製品が売り出されたのが、今年でもあった。

中でも「本人より本人らしい」と評判の「がくっぽいど」(Gacktがモデル・・・声を聞いただけで「孕む」ほどエロいとかw)、「人間としか思えない」始音カイトらの姿を、ニコニコ動画などで見聞きすることができる。

ボーカロイドは商用禁止のため、CD販売や有料コンサートなどは原則できないが、ライセンス契約などによってそのハードルはクリア可能だろう。ボーカロイドの性能が高まり、人間と対等かそれ以上になれば、その道も十分に考えられる。

すでに大晦日の夜、紅白の代わりに彼らを愛で倒そうという動きも出ているというw。少なくとも毎年湧いて出る泡沫ユニットや、何十年も出づっぱりな演歌歌手を見るよりは楽しいというものだろう。

岡本太郎

渋谷に岡本太郎の壁画「明日の神話」が飾られることになった。

場所はJR渋谷駅と、マークシティを結ぶ廊下。足場を組んで、エスカレータを止めて工事をしていたかと思うと、意外に早く出来上がった。

壁画の正面には上階の通路があり、そこから全体像を見下ろせるので、立ち止まって写真を撮る人が多い。

仕掛け人は「アートの街、渋谷に岡本太郎を、と思って招致した」と言っているが、確かに渋谷に相応しい壁画であると言えるだろう。「アート」=ディレッタント、という意味においてだが。


芸術の街と言われる渋谷だが、「芸術」というには些か薄っぺらい。確かに町並みやそこを歩き過ぎる群集にパワーや奇抜さは感じないこともないのだが、それが芸術には昇華していかない。

(実際、渋谷にはライブハウスやギャラリーは多いが、本格的な本屋も図書館も存在しない。書物を読まずにして何の芸術か、と批判されても仕方がないだろう。)

そしてそのパワーや奇抜さと、岡本太郎は大いにマッチするのである。


岡本太郎。奇妙な人物である。

漫画家・岡本一平、歌人・岡本かの子の長男として、百年ほど前に生まれた。生地は母の実家、川崎市・高津区二子。今では東急田園都市線が走っており、多摩川を渡ってすぐ、「二子新地駅」の近くである。

もっとも当時は電車は通っておらず、田園都市線(当時は玉電)は手前の二子玉川駅で渋谷に折り返していた。多摩川を越える橋がなかったからである。

この路線は江戸と大山を結ぶ大山街道にあたり、江戸時代には「二子の渡し」として渡し場が設けられ、二子は宿場として繁盛を極めたという。かの子はそんな土地の大地主の家に生まれ、浮世離れした娘に育ったそうだが、その気質を太郎も受け継いだといえる。


夫婦は渋谷の隣の青山にアトリエを構え、漫画や短歌の創作に励んだが、世間知らずの芸術家カップルのこと、夫婦仲はあまり芳しいものではなかったらしい。それに加え、かの子は育児に興味を示さないタイプの芸術家であり、太郎は自由奔放に育てられたという。

それが祟って小学校にあがるも長続きせず、最終的に慶応義塾に落ち着くまで、何度も転校を繰り返した。

やがて父がフランスに転勤になると、太郎もついていき、そこで十年過ごすことになる。その間ピカソを知って、抽象画の世界に足を踏み入れる決意を固め、帰国後、シュールな作品を次々と発表する。

50~60年代を通して日本シュールレアリズム界の第一人者としての地位を確立した岡本は、次第に日本的なものに回帰し、縄文土器をピカソよりも優れていると評価するまでに至るが、その「和」な姿勢が、日本万博の美術監督に相応しいと判断されたことは、想像に難くない。

そしてそこにおいて設立した「太陽の塔」によって、その名を不動のものにするわけである。


・・・のだが、40年近く経た今から振り返ってみると、奇妙な印象をぬぐえない。それは形式主義的、伝統主義的な日本において、どうしてあのような型破りな岡本の画風が受け入れられたのだろうか、という疑問である。

岡本の絵画は単に既存芸術から見て珍妙であるばかりでなく、シュールレアリズムの文脈から見ても珍妙である。彼の抽象絵画は力はあるものの、逆に言えば力しかなく、その背後にある思想や芸術性が読み取りにくい。前衛芸術としては質が落ちる珍なるものである。

そのような劣悪な絵画が日本画壇に広く受け入れられたのは、皮肉にも彼が形式と伝統をまとっていたからだろう。

つまり一流の芸術家を父母に持ち、当時貴重だったおフランス帰り、そして時代の最先端を行くシュールレアリズム。これだけ形がそろっていれば、形式が好きな日本社会のこと、受け入れられない方がおかしいとも言える。

それに疑問を呈する人がいても、滞仏経験がない以上、逆に物事を知らないとして排除されるのが落ちでもあり、また前衛絵画という、いわば「ヘタウマ」なジャンルも、批評を困難なものにしただろう。

かてて加え、戦後日本は過去からの決別、時代の最先端なイコンを必要としていた。

最先端であり、かつ毛並みのしっかりしたもの。それが当てはまるのは岡本太郎だったわけである。


実際、渋谷駅の「明日の神話」を何度見てみても、名画から得られる興奮や深みが与えられない。これだけ大きな作品をしあげるパワーや形の珍妙さには感心しても、そこからは芸術性は感じにくい。

もちろん、芸術性というのはおよそ定義が不可能で、それについて議論しても水掛け論に終わることの多い厄介な概念である。であるが、その厄介さを承知で言うと、岡本の芸術には、「人間」が欠けている。

人間というのも難解な概念だが、ここでは世界との全人的な結びつき、というほどの意味である。一般に、芸術家はその身体や人格を通して世界と接触を保ち、作品をものすことで、その接触を純化・深化させる。

だから鑑賞者は絵の形や色使いだけを見て感動するのではなく、その絵の背後に、その作者がどう世界と関わったかという軌跡を感じ取って、恐れおののくのである。

たとえばゴッホの「星月夜」という絵がある。これは星や月の光が、まるで子供や近視者が描いたように大きく鈍く波打つように配置されているが、見る者に奇妙な感慨を与える。それはその絵を通して、見る者はゴッホが(描くことで)感じ取ったこの世界への畏れ、揺らめき、憧れといった根源的なものを、追体験することができるからである。

しかし、残念ながら「明日の神話」には、そのような高揚感は感じ取れない。

それは思うに、岡本がその表皮でもって、絵を描いていたからでは、ないか。これは不真面目という意味でなく、彼は真面目すぎるほど熱心に、作品に取り組んでいたとは思う。だが、そのエネルギーは単に爆発や珍妙さに向けられており、人間存在の探求には向けられなかったのでは、ないか。


たとえば「明日の神話」と良く似た絵に、「ゲルニカ」がある。両者とも戦争の悲惨さをモチーフとした絵画だが(前者は原爆、後者はゲルニカ空爆)、そこには歴然とした差がある。

一言でいえば、「明日の神話」は大人しく、「ゲルニカ」は破壊的だ。

両者ともシュールレアリズムの手法を採ってはいるが、前者はあくまでシュールの範疇、絵画の範疇で創作し、後者はそれを越えて、何かに迫ろうという意気込みが感じられる。

ピカソは絵画をむしろ手段に使って、戦争という原罪を告発しようとしたのに対し、岡本はむしろ戦争を手段に使って、自分の中の芸術を純化させようとした。つまり人間存在の芸術と、芸術のための芸術の差が、この両作には現れているのである。

芸術のための芸術、つまり芸術至上主義がまったく無意味と言うわけではないが、そこには限界があるのは明らかだろう。芸術は人間存在の深奥をたまさか揺り動かすことはあっても、それを永続的に動かすことはできないからである。

岡本が絵画を描いていたのは、自分の根源存在に突き動かされてと言うより、むしろ環境に影響されて、という面が大きいように感じる。漫画家である父や、青年時に過ごした画壇の中央・フランスによる影響をあまりに強く受けすぎた結果、岡本は芸術=世界、人間と誤解してしまったように思う。

そしてそのフランスから切り離された彼が、次第に芸術の動機付けとして、縄文という日本の伝統文化に魅了されるようになったのも、当然の成り行きだったのだろう。

その意味で岡本太郎は、ゴッホやピカソという正当な芸術家というより、芸術的なものの中に生息し、芸術を人間存在から切り離し、芸術のみを皮のようにまとった「dilettant」と言うに相応しい存在だったように思える。

そしてそのdilettant性こそは、彼が過ごした街、渋谷と通じるものが、あったのである。

テーマ : 絵画・美術
ジャンル : 学問・文化・芸術

鄙文化としての日本文化

日本にいるとなかなか気づきにくいことだが、日本文化は地方文化である。

およそ世界にはフランス文化、中華文化、インド文化など、「中央」と呼ばれる文化があるが、日本文化はその範疇には属していない。むしろ朝鮮やベトナム、インドネシアやアイスランドなど、独自の文化はあるが、世界の人々からこぞって受け入れられたり、世界の中心を目指さしたりしなかった「鄙の文化」に属するものと思う。

弥生の昔から19世紀後半に到るまで、日本文化は中華文化の支流に位置づけられてきた。そして大陸という文化中心では、文化がどんどん移り変わっていくのに対し、地方たる日本では、緑茶や五重塔などの、いにしえの大陸文化が保存されてきたのである。

明治に至って日本は欧米文化に宗旨変えするが、基本的には「地方文化」たる、日本文化の性質は変わっていない。確かに時折、世界的に高い評価を受ける芸術家や文学者はいるものの、総じて日本文化が注目されるのは珍しい。(ナバホインディアン文化が、カウンターカルチャーという意味以上で注目されることが少ないのと同様に)

ここで、それは単に文化相対主義的相違である、と言ってしまえば話は簡単だし、筆者も余計な恨みを買わずとも済むw。だが鄙の文化、中央の文化、それぞれに長所・短所があり、同等である、と言うのは楽でもあるが、形式に過ぎ、本質には迫っていない。

そもそも「同等」であるならば、なぜ中央に憧れ、中央を高く評価する人が多いのだろうか。

その点を考えると、実は文化相対主義における「同等」とは、「芸術的に等価」という意味を表しているのではなく、「多用な価値観を認めた上での等価」ということが分かる。つまりミケランジェロの壁画もマヤの壁画も、「格調高い芸術」と「素朴な宗教性」という別々な価値観のものさしで測れば等価ではあるが、芸術性で測ればその差は歴然として存在する、ということである。

その意味で日本文化は「素朴さ」「通好み」としては高く評価できるものの、「芸術性」「普遍性」としては評価が低いということなのである。

事実、歌舞伎は京劇やオペラに比べると、舞台運びがもっさりして、田舎じみている印象はぬぐえない。もちろん田舎芝居は田舎芝居として面白く、読み込んでいくと味わいもあるのだが、普遍的な芸術とも言いがたいように感じる。
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