ぐぬぬ

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ぐぬぬ。

悔しそうな、それでいて、内にこらえているような少女の顔、顔、顔。俗にいう「ぐぬぬ画像」である。元ねたは「一期ましまろ」のアナ・コッポラちゃん。

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これはいじめっ子のみうに、「穴・骨洞」とからかわれて悔しがっているサマ、とくに塩をかけられたナメクジよろしく、口元がギリリと歪んでいるサマなのだが、その姿がネット住民らにウけ、虹裏などで改良バージョンが量産された。

その数、数百種類。苺ましまろは元より、ねぎま、けいおん、絶望先生、シャナ、Qブレイド、とらドラ、メイデン、サキ、ミク、アイマス、はては阪神タイガーズまで、驚くべきことに、日本の生み出したキャラは、およそ全てがこの「ぐぬぬ形式」にフォーマットできる。


この単純な○で構成された造詣の系譜は、ドラえもん、サザエさんの丸顔、さらにはのらくろ、タンクロー、タコ八、正チャンや、ノンキ父さんまで遡ることができる。大正末期〜昭和初期の漫画群である。

このルーツを北斎漫画や鳥獣戯画に求める人は多いが、毛筆による絵画的な描写である「鳥獣戯画」と、ペンによる図形的な表現である「のらくろ」を同一視することは適切でないだろう。

「のらくろ」や「ドラえもん」に特徴的なのは、○や□を組み合わせて構築された顔やボディであるが、実はこれは20世紀初頭、ドイツではやった「単純主義」の直輸入である。

単純主義とは、できるだけ簡素な描写で表現しようという流派で、「タンタン」や「ひとまねこざる」にはそのスタイルが顕れている。(タンタンの作者はベルギー人、こざるの作者はドイツ人)


もちろん、単純主義の背後には、同じく単純な幾何的表現を旨としたロシア構成主義や、アールデコの影響を見て取ることができるだろう。あるいは、さらにキュビズムやバウハウスの匂いを嗅ぐこともできる。

19世紀後半、ビクトリア朝イギリスでは鉄とガラスによる新しい建築が実用化され、それまでの装飾的・凸凹的だった町並みが、幾何的・直線的なものに変質しつつあった。

その変質をいち早く嗅ぎつけたのがピカソに代表されるアヴァンギャルドな芸術家たちであり、彼らの作った潮流「キュビズム」の流れの支流に、ドイツ単純主義、そして日本の現代漫画が乗っているのである。

そらのおとしもの

そらのおとしもの 限定版 第1巻 [DVD]そらのおとしもの 限定版 第1巻 [DVD]
(2009/12/25)
保志総一朗早見沙織

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毎期毎期、数多くのアニメがラインアップされ、ネタ切れしないかとハラハラして見ているがw、さすがに昨今はめぼしい作品が少なくなったてきた。

00年代初頭、世界的なサブプライム景気をうけて日本でもプチバブルが発生。アニメはカネになる、というので、余剰資金がア大量にニメ業界に乱入した。

2005〜6年には、当時外務大臣だった麻生太郎が「アニメ好き」を表明したこともあって、ブームはピークをむかえる。

当時のラインアップは、「苺ましまろ」、「ローゼンメーデン」、「ケロロ」、「マリみて」、「プリキュア」、「なのは」、「ARIA」、「ねぎま」、「地獄少女」・・・などがあり、いかに豊作だったかが窺える。

しかし金融危機以後は注目を浴びるような話題作は減り、息切れが心配される事態に陥っているが、今期の「そらのおとしもの」は、その中で気を吐いている一作だ。


平和に暮らしていたスケベな少年・ともきに、ある日「そら」から降ってきた美少女アンドロイド・イカロスが巻き起こす、いわゆる「押しかけ女房だっちゃもの」。(エロ要素が強い点からは、むしろ「ユリア100式もの」に近いか?)

だが、それでは芸がないというので、そのアンドロイドが実は大量殺戮ロボであった、という伏線が張ってある。しかもその戦闘力がハンパなく、日本一国を丸焼きできるほどっつーのだから、「最終兵器彼女」や「エルフェンリート」を彷彿とさせる。

んで、そのアンドロイドの正体は「浮遊大陸(そら)」にすむ、先進人類の工芸品なのだ。そこに囚われている女性科学者(アンドロイドの海の親)が主人公に託したもので、主人公らはやがて彼女を救いに「そら」に上っていく・・・というわけだが、当然作品の醍醐味はそこには「ない」w。

醍醐味はイカロスと、ともきとの掛け合いだ。感情がなく、人間世界にも疎いイカロスの日常は「ボケ」に満ち満ちており、それを主人公が広いあげて笑いにしていく。この「白痴美」は既に様式化されているのだが、やはり笑いと萌えを両立させるのには、センスがいる。

この作品はそれをクリアし、かつほのぼの感とスリル感を高い地点でバランスさせた良作だが、アニメ化ペースの速い角川(「少年エース」掲載)にしては、アニメ化は遅かったといえる。「大人の事情」があったのだろう。


物語は、この世界が空上世界の住民らの「夢」だった、という地点で終わっている。主人公は、彼に恋する少女の夢、もしくは妄想なのである。

少女が目覚めれば主人公は霧散し、主人公が生きながらえようとするなら、少女は永遠に眠りについている必要があるという、ジレンマがそこにはある。

そのような設定の場合、かつては「少女を無理やり覚醒させ、現実に直面させる」、という解決が多かったように思う。「果てしない物語」でも、苦悩しながらも、少年は物語世界から脱出したものである。

(「ナルニア」では、最後に4兄弟は死に、アスランの世界に入り込む。一見現実逃避のようにみえるが、実はアスランの世界こそが真実世界だという含意がそこにはあり、その意味で4兄弟は最後になって、はじめて「現実」に直面したのである)


しかしディズニー映画「トロン」や、板橋しゅうほうの「アイ・シティ」ころから、虚構世界のなかにリアリティを見出して行こうという動きが見られるようになった。いわゆる「Virtual Reality」に基づいた世界観である。

その流れは「甲殻機動隊」や「電脳コイル」などに引き継がれ、今では虚構と現実が入り乱れて世界観が、逆にリアルになってきている。

そうすると、「そらのおとしもの」も、単純に少女が目覚めて「夢でした」、で終わるとも思えない。そこには何らかのドン伝返しがあると、期待したほうがいいだろう。

自分的には、夢の世界たる地上世界が実体化し、トモキと少女が結ばれるというハッピーエンドを描いているが、そうするとイカロスら、トモキに恋するアンドロイドらのラインはどう処理するか、という問題がある。幼馴染の準ヒロイン、そはらの処理も頭が痛い。

「エルフェンリート」はそのヘンをヒロインの自死、という形で解決したが、作者にはそのような安直な形でなく、ぜひとも全員が幸せになるような終わりを用意してほしい。

theme : そらのおとしもの
genre : アニメ・コミック

政権交代

政権交代から一と月あまり。ずいぶんと色々なことが変わったし、変わりつつある。

以前は予算削減の話をしようものなら、すぐさま自民系の方々に「削減などできるはずがない」、と一刀両断されていたものだが、蓋をあけてみれば、3兆円の削減。できないのではなく、やろうとしないからできなかったのだ、ということが判明した。

また3兆円というのは一般会計内の話で、特別会計には手付かず。これから予算の一本化が進むにつれ、さらに削減が大きく進むと予想される。

が、差し当たって今は来年度予算である。


景気回復の兆しがみえ始めているとはいえ、逆に給与は切り下げられており、日本の相対貧困率は16%と、主要先進国のなかではアメリカ17%に次ぐ高い水準となった。(10/20/09発表。06年統計)

日本は格差がない社会と言われてきた。実際、町を歩いてみても、アメリカのような「スラム街」はほとんど存在しない。人々の容姿・ファッションや、スーパーの物価にも、それほど大きな違いはない。

しかしそれは格差化にまだ日が浅く、社会がまだ格差に対応できていないから、と考えられている。英米では貴族制、奴隷制が格差社会の根底をなしているが、日本ではそのような格差の伝統が明治維新、敗戦で崩されたのである。

そして戦後日本では、歴史的・世界的に稀な均等社会が生まれたのだが、90年代以降は貧富差が拡大。このまま格差が固定化していくと、日本も十分英米的な格差社会になる可能性がたかい。


もっとも小泉改革はアメリカをモデルとした規制緩和であり、それを実施すればアメリカのように貧困率が上がることは、事前から予想されていた。だが派手な立ち振る舞いがいっぱいの、「小泉劇場」に魅了された国民は、4年前の選挙で自民党に投票。そのツケが回ってきたといえる。

もっとも自民政権は貧困率をひたすら隠し通していたので、国民には分かりづらかった、という側面もある。貧困率は政権交代後、始めて公表されたデータのひとつである。

その貧困に対峙するために、予算要求は膨張。95兆円を突破し、史上最高値を記録した。民主党の掲げる「大きな政党」の実施が、いかに困難かを示すスタートとなった。

膨れ上がった予算については、民主党は3兆円削減、不足分は国債発行で補う構えだが、50兆を超える国債発行が、いつまでも長続きするはずもない。といって子供手当てや高校教育費を削減すれば、公約違反として批判を浴びる。

難しい舵取りを迫られている現政権だが、マニフェストの一部是正を盛り込むのが、もっとも現実的な解決だとおもわれる。ガソリン税を廃止せず、子供手当に回すのも一つの手段だ。本格的な福祉増は、特別会計の見直し後にすればいいだろう。


しかし、この民主党のもたつきを糾弾すべき立場の、自民党がいかにも冴えない。先日、国会図書館に行くついでに自民党本部の前を通ったが、人気がなく、ひっそりした有様。与党時代はひっきりなしに出入りがあったものが、野党に転落すると、かくも落ちぶれるものかは。

総裁選もまったく盛り上がらず、選出された谷垣氏もカリスマに欠け、長老支配が持続するなど、若手の不満も大きいと言われる。

だが不満はあっても脱党する気概に欠けているのが、自民党の問題点でもある。長年エリートの座にいたものは、挫折すると脆いものだ。それを象徴しているのが、中川氏の死である。

親子二代に渡って自民党重鎮を務めた中川氏は、初の落選を味わった挙句、急死するという悲惨な最期をむかえた。死因は睡眠薬とアルコールの摂取過剰。

失礼な言い方になるが、自殺や事故死にはまだ「意志」がある。現状をなんとか打破しようという葛藤が、そこには見られるが、薬物死には「現実逃避」という弱い姿勢が見え隠れしてならない。

首相候補の呼び声も高かった中川氏だが、裏を読めば、「現実逃避するひ弱な政治家をトップにすえる自民党」ということになる。そこには政権奪回の野性的なエネルギーは見られない。

播磨屋フリーカフェ

銀座でフリーカフェがあるとの情報を入手。築地帰りに、早速寄って見る。

送ってもらったメールには、銀座駅B1出口、と書いてあるのだが、いくら探しても存在しない。電話したところ、三原通りにあることが判明。

和光から歌舞伎座に向かって歩くと、すぐに場所が分かった。何しろ店員が案内プラカードもって立っているのだから。それも一人でなく、二人、三人といるので、もう大名気分・・・と言いたいところだが、カネは払ってないので、こそばゆい気持ちになる。

カフェはビル2室ほどの広さなのだが、入り口近くはカネを払う客用の席なので、タダ客は奥に進んでドリンクを取らなければならない。案内類がほとんどないので、どう動けばいいか分かりづらい。

奥の一室ほどのスペースには、処狭しとちっしゃな椅子が香港ビルのように並べられている。そこに押し込められておかきを食すので、気分はブロイラー。しかも後ろでは、次の客がおかきを手に待っており、のんびりと食してもいられない。

タダだからカネはかけられない、という趣旨は分かるのだが、も少しなんとかならなんのだろうか。時間制にするとか、整理券制にするとか。

もっとも、おかきは流石においしい。専門店だけはある。


播磨屋。

名前から分かるように、もともと兵庫県の企業である。創業は1860年というから、江戸時代になる。当初は油屋として出発。戦後は菓子メーカーに転進。のちに煎餅・おかき製造に特化した。

いつ見ても客が全くいない煎餅屋をみかけることがあるが、それはその煎餅屋がメーカーとしてスーパーなどに卸しているためだ。煎餅屋など、和菓子店は上下関係が厳しく、流通関係が固定化されているという問題があった。

そこに搾取を嗅ぎ取った社長は1985年、直販方式に転換。直営店と通信販売を柱として急成長を遂げた。

そして利益還元、若年宋に煎餅・おかきをアピールしようと、全国にフリーカフェを展開した、というのが「表」の理由である。


裏の理由とは、「宗教宣伝」である。

功成し遂げた経営者は往々にして宗教に走ることがあるが、播磨屋助次郎もその例に漏れず、「エコ教」を始めたのである。

助次郎は、環境破壊の原因は、人間同士の無意味な競争にある、と糾弾する。農耕によって階級が生まれ、現代まで続く生存競争が始まった、という彼の考察には「マルクス臭」が感じられる。

もっとも1948年生まれの助次郎は丁度、マルクス全盛時代に青春を過ごしたわけで、マルクスの影響があるのは当然といえよう。

そしてその競争こそが不幸をもたらしているのであり、幸福に到る道は、「美しい自然の営みを愛で楽しみ・・・自然ともども仲睦まじく和やかに暮らすことである。」という自然主義を唱える。

まあこのようなマルキシズムから自然主義への転向は、たとえば宮崎駿などに見られる日本的なもので、それ自体は批判される謂れはないが、社長の主張には2点、難点がある。


一つは、「勝者が競争排除を謳う」、という矛盾だ。そもそもフリーカフェを設置したり、そこで自分の思想を喧伝できたりするのは、播磨屋が熾烈な競争を勝ち抜いた勝者だからだ。競争から利益をえている人が、競争排除を訴えても説得力がない。

それでも競争禁止を言うのなら、自ら率先して商売を投げ捨て、山中にでも篭るべきだろう。

次に、播磨屋は自分の思想を「科学原理」だと主張している点にも、問題がある。理系出身の人に多い誤りなのだが(播磨屋助次郎は、船舶工学科出身)、思想や宗教は科学ではない。科学は実験でその正しさを証明できるが、思想・宗教は実験できないからである。

しかし科学的方法論に慣れた人は、その手法で思想を解体し、再構築する誘惑に駆られがちだ。かつては解剖学者である養老猛がそれを行い、哲学プロパーらの失笑をかった。

しかし理系優位の伝統がある日本では、今なお「脳科学で全てが分かる」式の、理系から文系への「越境攻撃」がさかんである。悲しいことに、播磨屋の社長も、そのワナに囚われたわけである。

もちろん個人がどのような思想を持とうが自由だが、店内でガンガン流されるのは辛い。

ひところ、ブックオフでは「本を棄てるの可哀想」だの、「読んで売って、売って読んで」だの、社内思想を垂れ流す店内放送がエンドレスでかけ続けられ、客足を遠のかせてくれたものだが、播磨屋フリーカフェでも同じエンドレス地獄が再現されている。

客はおかきを食したら曹操に退散できるが、社員はそうもいかない。おかき屋というのも、大変な仕事である。

theme : 関東地域情報(東京 神奈川 埼玉 千葉 茨城 栃木 群馬 山梨)
genre : 地域情報

中国共産党のゆくえ2

前回はこちら


建国60周年を祝う中国では、軍事パレードを行って「力」をアピールすると同時に、「民主化」も大きな話題となった。

もっとも民主化といっても人権やら多党制のことではなく、あくまで「共産党の民主化」のことであるが、それでも民主化がテーマとされるには理由がある。それは共産党の腐敗が社会問題と化しているからだ。

同一政権が長年続くと腐敗や非効率がはびこる。これは日本が経験したことだが、中国でも同様で、60年も継続した共産党支配は、あちこちで矛盾を噴出させている。

ここ数年、チベットやウィグルでは大暴動が発生したが、その背景には原住民と漢民族との反目がある。共産党は小数民族対策として、これらの地域に漢民族を大量に移住させたが、彼らは地元の共産党と結託し、原住民を搾取していると言われる。

特に経済発展の波が奥地にまで押し寄せてくると、漢民族は共産党を利用し、原住民の土地などを「公共用地」として収奪。原住民が司法に訴えても、裁判官も丸め込まれているので埒があかず、不満が蓄積。最後には暴動となって爆発した、というのが経緯とされる。

「される」というのは、確かな話は分からないからだ。中国のメディアは「独立派の陰謀」「反乱分子の工作」などと報道しているが、これを信じる人は−中国人でも−あまりいない。中国人に聞いたところ、大衆はうすうす事実を察知しているという。ただウィグルやチベットでの取材は禁止されているので、「真実」は分からないのである。

ではどうして中国人は「真実」を知っているかといえば、それは彼らが身を持って共産党の無法ぶりを味わっているからに他ならない。


「今不是昔 政府無法 人民困窮 打倒共産党」

これは蘇州で見かけた張り紙だが、このような張り紙は中国全土で見られている。またデモや農民暴動でも、同じように共産党を批判・非難する紙が張り出されている。

一昔前なら「内乱罪」として逮捕の対象となったこのような行為が、今、中国では黙認されるようになっている。

理由としては、逮捕するとなれば刑務所が満杯になる、ということもあるが、それよりも「逮捕者が共産党の腐敗を公表してしまう」ことが怖いのらしい。裁判ともなれば、関係党員が何をしたかが明るみにされてしまうからだ。

以前なら裁判を秘密にもできたが、ネット時代ではそれもむずかしい。逮捕を強行してマスコミに嗅ぎ付けられるのもまずい。一番いいのは見て見ぬふりしてやり過ごす、つまり黙認となる。

業を煮やした政府はネット規制を強化。今年から出荷されるコンピュータ全てに、検閲ソフトの搭載を義務付けた。しかし開発段階から情報が流出し、対検閲ソフトが出回った上、内外の批判を浴びて頓挫。「天有政策、地有対策」(政府が法律を作れば、人民は抜け穴を探す)を地で行く形となった。

炭鉱問題では杜撰な炭鉱管理の実態をネットが暴露し、改善を促進させたなど、ネットは今や「第三勢力」としての地位を固めつつある。かつてのように反論は戦車で「封殺」するわけには行かなくなったのが、天安門時代との大きな違いだ。


そして巨大化した大衆の声をなだめるのが、「民主化」というわけなのだが、そもそもなぜ、民主化が唱えられるようになったのだろうか。

次回はこちら

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