2009.11.19
スパコンは本当に必要か?
始めて査定プロセスが公開された事業仕分け。連日大きな話題になっているが、反対派の意見がなかなか面白い。
中でもスパコン開発に代表される科学技術屋の反論がイケている。いわく、「科学技術は仕分けにそぐわない」、「科学技術立国を目指すなら、費用を度外視すべき」、「ここまで積みあがった成果を無に帰させるのか」・・・
一理はあるが、もしその言に従うのなら、日本の科技費は第二の公共事業化してしまうのは、目にみえている。すでに時代は費用対効果、コスト意識が決定的になっているのに対し、まだ甘い夢を見ている科学技術者の限界が露呈した感じだ。
一般に国の科研費の査定はあまい、と言われている。ソフト一本の開発に数百万、数千万つぎ込むことも稀ではない。それを民間委託すれば、数十万程度で完成する。無駄がおおい、と言われる所以だ。
同様にスパコンの開発費1,154億円も、適正に使われているとは考えづらい。スパコン計画では、神戸ポートアイランドの一角に土地を取得し、冷却設備・変電設備を備えたビルをおっ建てる予定だが、そのようなハコモノ・コンピュータが本当に必要なのか、うたがわしい。
というのは、コンピュータを連結して計算を行う分散コンピューティングが常識化した90年代以降、スパコンの存在意義が大きく低下したからである。
原発のような威容を誇るスパコン設備を利用しなければならない必要性は、先端研究に限られるようになり、スパコンの需要が激減したなか、NECのようにスパコン開発から撤退する企業も出てきている。
そこで、「スパコン仕分け」に反対している人には、先端研究者がおおい。研究に携わってきた自分としても、スパコンが全く不必要だとはおもわないが、1千億円超の予算は、あきらかに行きすぎである。
1千億といえば軽くダムが建つ金額であり、医療費が払えずに病死に追い込まれている人々100万人を救える金額でもある。
科学者側は、「科学技術は日本を豊かにする以上、予算は削れない」と強く反論するが、そのような主張をぶつ前に、自分たちの研究が病死者の上に成り立っていることを、まずは自覚すべきろう。
一体に科学の世界では科学至上主義がはびこってきた。なまじそれが生活の役に立つだけに、それは国家の支援を受け、いわば「官学共同体」のようなキメラにまで成長してしまった。母体が衰弱死しかかっているのに、そのキメラはもっと、もっとと母乳を欲している。
そして国民もまた、「ムダもやっぱり必要よね」と学問の力に納得させられてしまう。日本に必要はなのは、学の外から学を捉えなおすだけの視座なのだが、その視座そのものが学に含まれてしまうほど、その病根はふかい。
スパコンにもどれば、予算をつけるなら、むしろ計算処理をコーディネートするソフト・パワーだろう。研究者の処理要求を、現存のコンピューティングパワーでやりくりする部署を作ることで、計算力の有効活用を図るわけである。
有効活用すれば、スパコンでなく、通常の高性能コンピュータ程度で処理が済むものも多い。何が何でもスパコン頼み、という贅沢はもう許されないだろう。
ましてや「No1は夢を与えるから」、「(仕分け業務を担当した)レンホー議員が気に食わないから」などの批判はあまりに貧困である。
たとえばアゴラの西氏の発言は、この類に入る。
西氏は蓮舫議員がコドモに中国風の名前をつけたことから、「感覚は中国のひとなのであろう」とし、さらに進んで、「その生まれた国の意向がある」、などと素晴らしい推論を行っている。つまり彼は、「蓮舫議員が中国出身だから、中国政府の意向を受けてスパコン廃止を行った」、と言いたいわけである。
ところがここには大きな事実誤認がある。じつは、当議員は、中国生まれでなく、日本生まれでなのである。また親も中国人でなく、台湾人である(母親は日本人)。(wikipediaより)
要するに西氏は、wikiに書いてあるような簡単なリサーチもせずに、感情論でスパコン仕分け批判を書いたことが明白なのだが、さらにイタイことに、彼は続けて、「蓮舫議員が、もしアメリカの議員でああいう発言をアメリカ議会の会議でしたら、たいへんなことになるであろう」、としている。
自分は長年アメリカに住んでいたが、アメリカの国会で議員が「先端プロジェクトの見直し」を求めたからといって、たいへんなことになった、ということを見た覚えはない。たとえばクリントン政権時代、宇宙開発費が大幅に削られたが、それで「たいへんなことになった」ことは寡聞にして聞いたことがない。
むしろ「たいへんなことになった」のは、議員が西氏のような人種差別的な発言をした・された場合である。移民の子孫の国会議員に向かって、「アメリカの心を知らない」、「外国の意向を受けて行動している」などといったら、良くても告訴である。
このように、スパコン反対派の議論は、冷静さに欠けるものがすくなくない。西氏に至っては、ナショナリズムの延長線上にスパコンを捉えている危うささえ、見受けられる。
確かにアメリカや中国に打ち勝つだけのスパコンを持ちたい、という気持ちも理解できなくはないが、そのために1千億円を費やすのは、およそ理性ある判断とは言えないだろう。
中でもスパコン開発に代表される科学技術屋の反論がイケている。いわく、「科学技術は仕分けにそぐわない」、「科学技術立国を目指すなら、費用を度外視すべき」、「ここまで積みあがった成果を無に帰させるのか」・・・
一理はあるが、もしその言に従うのなら、日本の科技費は第二の公共事業化してしまうのは、目にみえている。すでに時代は費用対効果、コスト意識が決定的になっているのに対し、まだ甘い夢を見ている科学技術者の限界が露呈した感じだ。
一般に国の科研費の査定はあまい、と言われている。ソフト一本の開発に数百万、数千万つぎ込むことも稀ではない。それを民間委託すれば、数十万程度で完成する。無駄がおおい、と言われる所以だ。
同様にスパコンの開発費1,154億円も、適正に使われているとは考えづらい。スパコン計画では、神戸ポートアイランドの一角に土地を取得し、冷却設備・変電設備を備えたビルをおっ建てる予定だが、そのようなハコモノ・コンピュータが本当に必要なのか、うたがわしい。
というのは、コンピュータを連結して計算を行う分散コンピューティングが常識化した90年代以降、スパコンの存在意義が大きく低下したからである。
原発のような威容を誇るスパコン設備を利用しなければならない必要性は、先端研究に限られるようになり、スパコンの需要が激減したなか、NECのようにスパコン開発から撤退する企業も出てきている。
そこで、「スパコン仕分け」に反対している人には、先端研究者がおおい。研究に携わってきた自分としても、スパコンが全く不必要だとはおもわないが、1千億円超の予算は、あきらかに行きすぎである。
1千億といえば軽くダムが建つ金額であり、医療費が払えずに病死に追い込まれている人々100万人を救える金額でもある。
科学者側は、「科学技術は日本を豊かにする以上、予算は削れない」と強く反論するが、そのような主張をぶつ前に、自分たちの研究が病死者の上に成り立っていることを、まずは自覚すべきろう。
一体に科学の世界では科学至上主義がはびこってきた。なまじそれが生活の役に立つだけに、それは国家の支援を受け、いわば「官学共同体」のようなキメラにまで成長してしまった。母体が衰弱死しかかっているのに、そのキメラはもっと、もっとと母乳を欲している。
そして国民もまた、「ムダもやっぱり必要よね」と学問の力に納得させられてしまう。日本に必要はなのは、学の外から学を捉えなおすだけの視座なのだが、その視座そのものが学に含まれてしまうほど、その病根はふかい。
スパコンにもどれば、予算をつけるなら、むしろ計算処理をコーディネートするソフト・パワーだろう。研究者の処理要求を、現存のコンピューティングパワーでやりくりする部署を作ることで、計算力の有効活用を図るわけである。
有効活用すれば、スパコンでなく、通常の高性能コンピュータ程度で処理が済むものも多い。何が何でもスパコン頼み、という贅沢はもう許されないだろう。
ましてや「No1は夢を与えるから」、「(仕分け業務を担当した)レンホー議員が気に食わないから」などの批判はあまりに貧困である。
たとえばアゴラの西氏の発言は、この類に入る。
西氏は蓮舫議員がコドモに中国風の名前をつけたことから、「感覚は中国のひとなのであろう」とし、さらに進んで、「その生まれた国の意向がある」、などと素晴らしい推論を行っている。つまり彼は、「蓮舫議員が中国出身だから、中国政府の意向を受けてスパコン廃止を行った」、と言いたいわけである。
ところがここには大きな事実誤認がある。じつは、当議員は、中国生まれでなく、日本生まれでなのである。また親も中国人でなく、台湾人である(母親は日本人)。(wikipediaより)
要するに西氏は、wikiに書いてあるような簡単なリサーチもせずに、感情論でスパコン仕分け批判を書いたことが明白なのだが、さらにイタイことに、彼は続けて、「蓮舫議員が、もしアメリカの議員でああいう発言をアメリカ議会の会議でしたら、たいへんなことになるであろう」、としている。
自分は長年アメリカに住んでいたが、アメリカの国会で議員が「先端プロジェクトの見直し」を求めたからといって、たいへんなことになった、ということを見た覚えはない。たとえばクリントン政権時代、宇宙開発費が大幅に削られたが、それで「たいへんなことになった」ことは寡聞にして聞いたことがない。
むしろ「たいへんなことになった」のは、議員が西氏のような人種差別的な発言をした・された場合である。移民の子孫の国会議員に向かって、「アメリカの心を知らない」、「外国の意向を受けて行動している」などといったら、良くても告訴である。
このように、スパコン反対派の議論は、冷静さに欠けるものがすくなくない。西氏に至っては、ナショナリズムの延長線上にスパコンを捉えている危うささえ、見受けられる。
確かにアメリカや中国に打ち勝つだけのスパコンを持ちたい、という気持ちも理解できなくはないが、そのために1千億円を費やすのは、およそ理性ある判断とは言えないだろう。
2009.11.17
自民党のゆくえ
民主政権が発足してから2ヶ月たつ。
発足前には「危ない」、「空中分解する」、「政権担当能力がない」などと揶揄されていたものだが、フタを開けると、むしろ自民以上にやる気があることが判明。当の自民党のほうが空中分解している有様だ。
国会論戦では、民主幹部らの献金問題などを執拗につつくものの、正面切っての反撃には出られていない。それはひとつには、自民党自身のアイデンティティが腐食しているからだ。
自民党は主に土建業を中心に業界を支援することで、長年政権運営してきた政党だが、今、その業界支援そのものが時代遅れになりつつある。というのは業界に投下した国家資本が、業界内にとどまって労働者にまで届かないという図式が明らかになってきたからである。
結果、労働者は貧困化がすすみ、消費が低迷してデフレ不況をもたらす。そういう図式に嫌気がさしての政権交代だったわけである。
むろん、自民党の中にもその図式を打破しようとする人達も存在する。労働者に直接支援を行おう、という若手を中心とする人達だ。だがその改革運動は党内上層部の排撃にあって頓挫している。
上層部にしてみれば、自民党の力の根源である産業界とのつながりを断ち切るような動きは、自民党そのものを消失させかねない動きであって、強硬に反対するのは理解できる。
だが政治と業界の癒着にNOを突きつけたのは世論であり、上層部の考えをそのまま実行しても、政権を再奪還できる望みは薄いというジレンマに、今自民党はアタマを抱えている。
自民党は「ヌエ」と呼ばれるほど、リベラルから保守まで、様々なイデオロギーを抱え込んで、イデオロギー論争というものにはかなり無縁だった政党だが、そうも言っていられなくなっているのが現状のようだ。
もちろん、産業界を尊重するイデオロギーが完全に時代遅れというわけではない。確かにアメリカでの共和党の衰退など、世界的に野放しに市場原理を崇拝するよりも、市民一人ひとりに目を向ける政治が優勢になっている傾向はあるが、だといって資本主義が存在する以上、産業に目を向けた政治は消失はしないはずである。
ただ産業重視主義が、当初言われていた「庶民への富の還元」を生み出さず、産業界内に富を保留し続けている以上、大衆からの支持を得るのはむずかしい。自民党が再生を果たすには、この部分をクリヤーしなければならないだろう。
つまり、産業を育成しながら、同時に大衆へ富を分配するシステムの再構築である。
そしてそれは簡単ではないばかりか、大衆重視を掲げる民主政権のほうが、先に達成してしまいそうな気配がある。産業界に目を向けている限り、富の再分配の徹底はむずかしいが、人民に目を向けるのならば、それは比較的たやすいことだからだ。
自民党低迷は長期化すると、思わざるを得ない。
発足前には「危ない」、「空中分解する」、「政権担当能力がない」などと揶揄されていたものだが、フタを開けると、むしろ自民以上にやる気があることが判明。当の自民党のほうが空中分解している有様だ。
国会論戦では、民主幹部らの献金問題などを執拗につつくものの、正面切っての反撃には出られていない。それはひとつには、自民党自身のアイデンティティが腐食しているからだ。
自民党は主に土建業を中心に業界を支援することで、長年政権運営してきた政党だが、今、その業界支援そのものが時代遅れになりつつある。というのは業界に投下した国家資本が、業界内にとどまって労働者にまで届かないという図式が明らかになってきたからである。
結果、労働者は貧困化がすすみ、消費が低迷してデフレ不況をもたらす。そういう図式に嫌気がさしての政権交代だったわけである。
むろん、自民党の中にもその図式を打破しようとする人達も存在する。労働者に直接支援を行おう、という若手を中心とする人達だ。だがその改革運動は党内上層部の排撃にあって頓挫している。
上層部にしてみれば、自民党の力の根源である産業界とのつながりを断ち切るような動きは、自民党そのものを消失させかねない動きであって、強硬に反対するのは理解できる。
だが政治と業界の癒着にNOを突きつけたのは世論であり、上層部の考えをそのまま実行しても、政権を再奪還できる望みは薄いというジレンマに、今自民党はアタマを抱えている。
自民党は「ヌエ」と呼ばれるほど、リベラルから保守まで、様々なイデオロギーを抱え込んで、イデオロギー論争というものにはかなり無縁だった政党だが、そうも言っていられなくなっているのが現状のようだ。
もちろん、産業界を尊重するイデオロギーが完全に時代遅れというわけではない。確かにアメリカでの共和党の衰退など、世界的に野放しに市場原理を崇拝するよりも、市民一人ひとりに目を向ける政治が優勢になっている傾向はあるが、だといって資本主義が存在する以上、産業に目を向けた政治は消失はしないはずである。
ただ産業重視主義が、当初言われていた「庶民への富の還元」を生み出さず、産業界内に富を保留し続けている以上、大衆からの支持を得るのはむずかしい。自民党が再生を果たすには、この部分をクリヤーしなければならないだろう。
つまり、産業を育成しながら、同時に大衆へ富を分配するシステムの再構築である。
そしてそれは簡単ではないばかりか、大衆重視を掲げる民主政権のほうが、先に達成してしまいそうな気配がある。産業界に目を向けている限り、富の再分配の徹底はむずかしいが、人民に目を向けるのならば、それは比較的たやすいことだからだ。
自民党低迷は長期化すると、思わざるを得ない。
2009.11.15
歡喜渡慈航
『渡慈航』というのは、慈悲の船に乗って、この迷いの世から彼岸の世界に渡ろう、という仏教用語で、この仏話から、のちに渡航をつかさどる慈航菩薩が生まれた。
慈航菩薩はとくに船乗りの多い南中国で信仰され、その名前を付けた福建の慈航上人は台湾に渡航し、死後は即身仏となったことから、台湾ではそれなりに知れた存在になっている。
この慈航をモチーフにした濁水溪公社の歌が「歡喜渡慈航」である。
濁水溪公社は台湾のアングラバンドで、「晩安台湾」などの社会派ソングで熱狂的ファンをもつ「知る人ぞ知る」ロックバンド。とかく欧米や日本の流行にながされやすい台湾バンド界のなか、台湾の土俗に根付いた歌づくりを20年以上にわたって続けている。
ボーカルの柯仁堅は台湾大学出身なせいか、パンクな中にも知性を感じさせる歌を得意とする。その歌作りの精神は土着、反抗、挫折など、台湾の暗い側面をモチーフにすることが多い。曲調はパンクやメタル、ロックやフォークをいり混ぜたものだが、その基調はやはり民俗音楽だとおもう。
バンド名の濁水溪とは、台湾中部を流れる台湾最長の河川。言わば台湾を代表する川で、日本で言えば信濃川や利根川のような存在だが、台湾ではそれほどの知名度はない。そのような無名でありながら、台湾を代表するような河川をバンド名にするところに、このグループの反骨的かつ土着的な精神をうかがい知ることができる。
(直接的には、80年代に台湾大学で結成された農民支援団体−カクマルのようなもの−「濁水溪社」のパロディ)
日本でいうと、「怒髪天」を彷彿とさせるが、怒髪天は社会に対して怒っている労働派のようでありながら、その本質は結構、世渡り上手で妥協的なオトナなのにたいし、濁水溪のほうは妥協を許さないような、強い隔絶の意志をもったコドモである。
これは台湾社会が内省人(国共内戦前から台湾にいた漢民族)と、外省人(内戦後に渡来した漢民族)とに分裂していることと、無縁ではない。濁水溪公社は、内省人の中心地・高雄市の出身である柯仁堅が、外省人の中心地たる台北市で痛感したアイデンティティ・ギャップを埋めようとして、結成されたバンドといえる。(台湾大学は台北市にある)
アイデンティティの危機に際し、彼は、音楽によって自らの草の根に戻る方向を選択したわけだ。そしてそれは台湾語によって(台湾の歌謡は北京語、英語、あるいは日本語を使うのが常識だった)、台湾社会の暗部を、台湾民謡によって歌い上げる類まれなスタイルとなって露出した。
歌詞そのものは、仏教の「渡慈航説法」を台湾語読みしただけである。「悪いことをするな、悪人は悪の報いを受けるぞ」、という因果応報、勧善懲悪のかび臭い説教節で、最後に「手をつないで慈悲の船に乗ろう」、で終わる。
が、後ろの動画はパロディや皮肉に満ちている。
最初のメンバー紹介は、中国の人物絵巻のパロディ。続く部分は占い本のギャグ。というか、基本的に占い本の1ページ1ページが動画のタネだが、それがパンク風に解釈されているのがおもしろい。
「結縄芸術」は紐細工のことだが、こいつらの手にかかるとSM縄縛りになる。
「民俗療法」は浣腸のことだが、これもやはりアナルセックスに変わってしまう。
「家庭円満」となると、ホモっぷるのことになってしまう。
まあそれだけなら単なるエロパロ動画なのだが、メロディが妙なリズム感があるので見ていてだれない。このメロディは実は仏教音楽である。
出だしは儀式開始の銅鑼であるし、ベース・メロディは葬列に使われるラッパ曲に似ている。そのような「誰でも知っている曲」を歌作りに持ち込むと、えてして凡庸な作品になりがちだが、そこをうまくロック風味をきかせることでアレンジを加えたのが、この歌の成功の秘訣といえるだろう。
正直、ほかの歌はあまりパっとしないが、この歌だけは聴きごたえがある。
2009.10.31
ぐぬぬ
(click拡大)ぐぬぬ。
悔しそうな、それでいて、内にこらえているような少女の顔、顔、顔。俗にいう「ぐぬぬ画像」である。元ねたは「一期ましまろ」のアナ・コッポラちゃん。

これはいじめっ子のみうに、「穴・骨洞」とからかわれて悔しがっているサマ、とくに塩をかけられたナメクジよろしく、口元がギリリと歪んでいるサマなのだが、その姿がネット住民らにウけ、虹裏などで改良バージョンが量産された。
その数、数百種類。苺ましまろは元より、ねぎま、けいおん、絶望先生、シャナ、Qブレイド、とらドラ、メイデン、サキ、ミク、アイマス、はては阪神タイガーズまで、驚くべきことに、日本の生み出したキャラは、およそ全てがこの「ぐぬぬ形式」にフォーマットできる。
この単純な○で構成された造詣の系譜は、ドラえもん、サザエさんの丸顔、さらにはのらくろ、タンクロー、タコ八、正チャンや、ノンキ父さんまで遡ることができる。大正末期〜昭和初期の漫画群である。
このルーツを北斎漫画や鳥獣戯画に求める人は多いが、毛筆による絵画的な描写である「鳥獣戯画」と、ペンによる図形的な表現である「のらくろ」を同一視することは適切でないだろう。
「のらくろ」や「ドラえもん」に特徴的なのは、○や□を組み合わせて構築された顔やボディであるが、実はこれは20世紀初頭、ドイツではやった「単純主義」の直輸入である。
単純主義とは、できるだけ簡素な描写で表現しようという流派で、「タンタン」や「ひとまねこざる」にはそのスタイルが顕れている。(タンタンの作者はベルギー人、こざるの作者はドイツ人)
もちろん、単純主義の背後には、同じく単純な幾何的表現を旨としたロシア構成主義や、アールデコの影響を見て取ることができるだろう。あるいは、さらにキュビズムやバウハウスの匂いを嗅ぐこともできる。
19世紀後半、ビクトリア朝イギリスでは鉄とガラスによる新しい建築が実用化され、それまでの装飾的・凸凹的だった町並みが、幾何的・直線的なものに変質しつつあった。
その変質をいち早く嗅ぎつけたのがピカソに代表されるアヴァンギャルドな芸術家たちであり、彼らの作った潮流「キュビズム」の流れの支流に、ドイツ単純主義、そして日本の現代漫画が乗っているのである。
2009.10.23
そらのおとしもの
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毎期毎期、数多くのアニメがラインアップされ、ネタ切れしないかとハラハラして見ているがw、さすがに昨今はめぼしい作品が少なくなったてきた。
00年代初頭、世界的なサブプライム景気をうけて日本でもプチバブルが発生。アニメはカネになる、というので、余剰資金がア大量にニメ業界に乱入した。
2005〜6年には、当時外務大臣だった麻生太郎が「アニメ好き」を表明したこともあって、ブームはピークをむかえる。
当時のラインアップは、「苺ましまろ」、「ローゼンメーデン」、「ケロロ」、「マリみて」、「プリキュア」、「なのは」、「ARIA」、「ねぎま」、「地獄少女」・・・などがあり、いかに豊作だったかが窺える。
しかし金融危機以後は注目を浴びるような話題作は減り、息切れが心配される事態に陥っているが、今期の「そらのおとしもの」は、その中で気を吐いている一作だ。
平和に暮らしていたスケベな少年・ともきに、ある日「そら」から降ってきた美少女アンドロイド・イカロスが巻き起こす、いわゆる「押しかけ女房だっちゃもの」。(エロ要素が強い点からは、むしろ「ユリア100式もの」に近いか?)
だが、それでは芸がないというので、そのアンドロイドが実は大量殺戮ロボであった、という伏線が張ってある。しかもその戦闘力がハンパなく、日本一国を丸焼きできるほどっつーのだから、「最終兵器彼女」や「エルフェンリート」を彷彿とさせる。
んで、そのアンドロイドの正体は「浮遊大陸(そら)」にすむ、先進人類の工芸品なのだ。そこに囚われている女性科学者(アンドロイドの海の親)が主人公に託したもので、主人公らはやがて彼女を救いに「そら」に上っていく・・・というわけだが、当然作品の醍醐味はそこには「ない」w。
醍醐味はイカロスと、ともきとの掛け合いだ。感情がなく、人間世界にも疎いイカロスの日常は「ボケ」に満ち満ちており、それを主人公が広いあげて笑いにしていく。この「白痴美」は既に様式化されているのだが、やはり笑いと萌えを両立させるのには、センスがいる。
この作品はそれをクリアし、かつほのぼの感とスリル感を高い地点でバランスさせた良作だが、アニメ化ペースの速い角川(「少年エース」掲載)にしては、アニメ化は遅かったといえる。「大人の事情」があったのだろう。
物語は、この世界が空上世界の住民らの「夢」だった、という地点で終わっている。主人公は、彼に恋する少女の夢、もしくは妄想なのである。
少女が目覚めれば主人公は霧散し、主人公が生きながらえようとするなら、少女は永遠に眠りについている必要があるという、ジレンマがそこにはある。
そのような設定の場合、かつては「少女を無理やり覚醒させ、現実に直面させる」、という解決が多かったように思う。「果てしない物語」でも、苦悩しながらも、少年は物語世界から脱出したものである。
(「ナルニア」では、最後に4兄弟は死に、アスランの世界に入り込む。一見現実逃避のようにみえるが、実はアスランの世界こそが真実世界だという含意がそこにはあり、その意味で4兄弟は最後になって、はじめて「現実」に直面したのである)
しかしディズニー映画「トロン」や、板橋しゅうほうの「アイ・シティ」ころから、虚構世界のなかにリアリティを見出して行こうという動きが見られるようになった。いわゆる「Virtual Reality」に基づいた世界観である。
その流れは「甲殻機動隊」や「電脳コイル」などに引き継がれ、今では虚構と現実が入り乱れて世界観が、逆にリアルになってきている。
そうすると、「そらのおとしもの」も、単純に少女が目覚めて「夢でした」、で終わるとも思えない。そこには何らかのドン伝返しがあると、期待したほうがいいだろう。
自分的には、夢の世界たる地上世界が実体化し、トモキと少女が結ばれるというハッピーエンドを描いているが、そうするとイカロスら、トモキに恋するアンドロイドらのラインはどう処理するか、という問題がある。幼馴染の準ヒロイン、そはらの処理も頭が痛い。
「エルフェンリート」はそのヘンをヒロインの自死、という形で解決したが、作者にはそのような安直な形でなく、ぜひとも全員が幸せになるような終わりを用意してほしい。





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